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第百二十五話~遷都 二~


第百二十五話~遷都 二~



 建安元年(百九十六年)



 新年の宴が終わってから数か月、懸念されていた蝗害の再々度さいさいど発生といった事態が発生することはなかった。とは言うものの、まだまだ油断はできない。それゆえ、さらにひと月程の様子見を行っている。しかし、去年までの蝗害を筆頭とした諸々もろもろの事案などなどまるで無かったことかのごとく平穏そのものであった。これならば、最早もはや問題ないだろう。そう判断した劉逞は、改めて劉弁に対して洛陽への移動を提言した。


「良きに計らえ」


 劉逞からの進言を受けて、できる限り厳かに返答した劉弁であったが、彼の表情には隠し切れていない喜びが浮かび上がっていた。ともあれ丞相である劉逞が提言し、皇帝たる劉弁が認めた以上は洛陽への移動、即ち遷都が行わる運びとなったのである。こうして行われた遷都であるが、実につつがなく行われている。去年に劉逞から選出され任命された馬日磾と王允。楊彪と蔡邕の四人がじっくりと計画した遷都であり、そもそもからして問題など起きる筈もなかったのだ。彼らによって入念に計画され、実行に移された遷都は昨年までの暗い出来事を晴らすかの様な華々しくそして実に賑々(にぎにぎ)しいものとなったのであった。


「……おお……おおおぉぉ……」


 洛陽へ入り復興具合に感心した劉弁であったが、やがて到達した宮殿ではそれは一入ひとしおであった。幼少のみぎりより生活した場所であることを鑑みれば、それもまた当然であったかもしれない。ともあれ修築された宮殿内部を歩み進めた彼らであったが、やがて到達した玉座の間に至ったところで、劉弁が驚きとも感動ともつかない声を上げたのである。そしてゆっくりと、また微かに震えている体を隠そうとせずに玉座へ歩み寄った劉弁は、愛おしむ様に触る。それはまるで、確認でもしているかの様な仕草であった。かつて、董卓の意向により皇帝より退位させられてから早六年。そしてやはり董卓の命により洛陽が炎の大火に沈んでからはや五年、漸く戻ってきたことを考えれば致し方ないことであろう。また、程度の差こそあるものの、皇甫嵩や朱儁や今回の遷都の計画を行った四人などの様に古くから朝廷に仕えている者たちも同様であった。事実、朝廷において古参の呼ばれる者たち程、より涙が溢れている。顔を上げて涙をこらえるかの様な仕草をしている者もいるが、我慢しきれてはいなかった。

 一方で劉逞はと言うと、実は彼らほどの感動はない。やはり、殆ど洛陽にいたことがないという事実が、その様な態度となっていたのだ。無論、長らくの間、漢の首都であった洛陽に皇帝が戻ったこと自体は喜ばしいことだと理解している。まして劉逞とて皇族の一人であり、自らが命じたとはいえ長らく首都であった洛陽が復興したことを喜ばないわけがないからだ。さりとて劉逞は、生まれてより通年して一年も洛陽にいたことがない。その為、漢の皇族としての思い以上の何かを抱くことなどなかったからである。そしてこれは、劉逞の幼馴染である趙雲や夏候蘭もまた、同様であった。もっとも、場の雰囲気を壊すつもりはないので態度にも言葉に表すこともつもりもなかったのであるが。

 何はともあれ、こうして五年ぶりに洛陽へと戻った皇帝一行であり、これだけの慶事を祝わない理由はない。その証明として、高邑から洛陽までの移動以上に、華々しくもにぎにぎしい宴が執り行われた。主催は、言うまでもなく皇帝たる劉弁である。彼の音頭で始められた宴であり、参画している誰からも笑みがこぼれていたという。しかし、だからと言って、誰しもが心から無事に遷都が執り行われたことを祝っているのかと言えばそうでもなかった。正確に言えば、心から祝っている者は多くいる。だが、劉逞などは必ずしも同じではないということであった。

それは、前述した青州において発生した事案である。彼の地では、まだ侮れない勢力としてうごめいている黄巾賊の残党がいることが改めて示された形であるからだ。しかも。それだけではない。表向きには反旗を翻す様子を見せていない袁紹や袁術、劉瑁などといった者たちの存在もいる。ともあれ、問題はまだ山積さんせきであると言って状況にあるからだった。


「少しずつ、手を打っていくよりないか……」


 まず喫緊の問題としては、黄巾賊の残党であろう。先にあげた青州は無論のことであるのだが、他にも豫州汝南郡において、彼らは規模こそ青州に及ばないまでも、いまだに活動を続けているのだ。しかしながら豫州に限ってみれば、予想外の状況にあると言ってよいだろう。それというのも、嘗ては交州刺史代理であった士燮を中心とした者たちの働きが、思った以上に大きいのだ。彼らは豫州汝南郡と潁川郡東部を中心にゲリラ的活動を行っていた黄巾賊残党に対して、劉逞らが予想した以上の大打撃を与えていたのである。そこにきて蝗害の被害が広まったことも相まって、黄巾賊は勢力を縮小せざるを得なくなってしまったのだ。そこで豫州で活動している黄巾賊残党を率いている四人のうちで最も力を有していた劉辟は、残りの三人と話し合って潁川郡を捨て汝南郡に戦力を集中させることを決めたのである。しかしこれこそが、士燮の狙い目であった。彼は、なまじ戦力が分散しているからこそ討ち果たすことが難しいと考えており、そこで敵勢力を集めさせる手を打ったというわけである。しかもこの過程で士燮らにとっては幸福なことに、そして豫州黄巾賊にとっては不幸なことに、豫州黄巾賊を事実上率いていた劉辟が討たれてしまったのである。しかしながら、黄巾賊残党自体は劉辟の次に力を有していた黄邵へ引き継がれたので勢力としては瓦解までには至っていなかった。それでも劉辟の死という事実の影響は大きかったようで、少なくはない者たちが黄巾賊残党より離脱したのである。そして離脱した彼ら黄巾賊残党の行方だが、大きく言って二つに分かれていた。一つは、豫州に駐在している官軍を率いている士燮に対する降伏である。離脱を決断した者たちの大半はこの選択をしたので、士燮は図らずも戦力を増強していた。そしてもう一つはというと、彼ら文字通りの賊へと成り果てていたのである。そして当然のことだが、彼らが取り締まりの対象であることは言うまでもなかった。最後に黄邵の元に残った黄巾賊残党の主勢力はと言うと、前述した様に汝南郡に戦力を集中したのであった。


「不味いな。このままでは」

「確かに」


 いかに汝南郡へ兵力を集中させたとはいえ、それなりの数の味方が離脱したと言う事実は大きい。劉辟に代わり、事実上汝南黄巾賊を束ねることとなった黄邵には、実に頭の痛い話だと言っていいだろう。そんな彼の漏らした言葉に同調したのは、亡き劉辟と並んで力を有していた何儀であった。この様に黄邵と何儀が現状を憂いている傍らで、一人意気軒高いきけんこうと言っていい人物がいる。その者の名は、何曼といった。


「何を弱気なことを! 敵など打ち払えばよい、それだけのことだ!」


 彼は手に持つ鉄棒を掲げつつ、二人に宣言していた。彼が持つ得物は、見事なものである。長さは九尺五寸もあり、その様な鉄棒を振り回し戦場を駆け巡ることが出来ているのだから、確かに強者なのであろう。しかし、黄邵と何儀が問題視しているのは、純粋に兵力が減ったことに対してなのだ。いかに何曼が強いと言っても、最強かと言われれば首を傾げざるを得ない。無論、その様なことを言われれば、何曼は自身こそが最強だと言ってくることは必至である。事実、豫州黄巾賊の中で限れば、彼を超える武を持つ者を黄邵と何儀は知らなかった。それでも現状、何曼一人の力でどうにかできるとは思えないのである。だからこそ黄邵と何儀は、頭を抱えているのだ。


『……はぁ……』


 よく言えば楽天的、はっきり言えば猪武者と大して変わらない様にしか見えない何曼の態度に、黄邵と何儀は大きなため息を一つ揃ってこぼしたのであった。





 汝南郡に籠った黄巾賊に対して士燮だが、いかにして攻めるかを考えていた。このままでも押し込める様に思えるが、下手に追い詰めすぎると想定外の反撃をしてくるかも知れないからである。その様な彼の思考の中では、塩鉄論の一節が思い出されていたのである。塩鉄論とは前漢(西漢)の時代の書物であり、その中の一文には「死すれば再びは生きず、窮鼠も狸を噛む」というものがあった。現代で言うところの「窮鼠猫を噛む」の語源ともなったと言われる一節である。そして意味としては、どちらも同じであった。


「手痛いしっぺ返しなど御免被る。折角手柄を立てたのだ、ここで下手に手を出すより、朝廷へ伺いを立ててみるのも一つの手かのう……」


 現状では、劉辟の死による離反者を引き込んだことで、戦力差は気に病むほどでもない。それでも、敵はまだ侮れない戦力を有しているのもまた事実である。そしてこちらも間違いないことであり、だからこそ士燮は塩鉄論の一節を思い浮かべていたのだ。


「悪くはありませんな」


 その時、士燮の言葉にそう返したのは、程秉である。彼は元々もともと、豫州汝南郡の出であった。今は陶謙の庇護下にいる鄭玄へ過去に師事し学問を学んだことがある人物であり、しかし黄巾の乱が起きると戦乱を避けて交州へと非難した人物でもあった。その地で彼は士燮と出会い、彼にその才を見出され、長史として仕えることとなったのである。しかも現在でもその地位は変わっておらず、いわば幕僚の筆頭として士燮の傍にあったのだ。


「徳枢をも賛同してくれるか。ならば、実行に移そう。そなたが使者として、高邑……いや洛陽へと行ってくれるか」

「御意」


 こうして、汝南黄巾賊を殲滅させるべく、士燮は丞相たる劉逞へ使者として程秉を派遣する。彼は劉逞と面会し、切々せつせつと朝廷からの助力を訴えたと言うわけである。流石は使者として選ばれたと言うべきであろう、盧植らから事前に士燮から使者が派遣された理由を聞いていた劉逞をしても、|中々に動かされるものがあった。しかし実のところ、劉逞も汝南黄巾賊は早めに滅ぼしておきたい相手である。何せ復興だ何だと理由があって、今まで高邑が事実上の首都であった。だが、今や首都は洛陽へと戻っている。そして洛陽がある司隷の隣は、豫州となる。潁川郡を挟んでいるとはいえ、汝南郡と洛陽がある河南尹は近いのだ。さらに言えば、揚州牧である袁紹の一族、つまり汝南袁氏の本籍となる。つまるところ、汝南郡を含む豫州を押さえることは、洛陽の安寧に関わるばかりか、袁紹や袁紹の元にいる袁術に対する圧力にもなり得るのだ。


「……よかろう。今年中は流石に難しいが、来年には我自ら兵を率いて豫州へ向かおうではないか」

「おお。これは重畳にございます」


 ここに、劉逞自身の遠征による汝南黄巾賊討伐。ひいては、豫州平定が決定したのであった。

ご一読いただき、ありがとうございました。



別連載

「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」

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も併せてよろしくお願いします。

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