第十二話~褒美と婚約~
第十二話~褒美と婚約~
中平二年(百八十五年)
張宝の首が洛陽へ送られてより二ヶ月、一応の終息を見た黄巾賊討伐の論功行賞の為に劉逞は洛陽へと赴いていた。その一行には幼馴染となる趙雲と夏侯蘭、他にも盧植などが同行している。また、この一行には鄒靖や劉備も同行していた。
とはいえ、黄巾賊の全てが討たれたのかと言えばそうではない。確かに主力となる者たちこそ討たれてはいたが、いまだに跳梁跋扈している黄巾賊も存在している。彼らが一緒に行動していたのは、いわば黄巾賊残党に対応すると言う側面もあった。
流石にこれだけ将と兵が揃っていれば、襲ってくるような馬鹿は普通いない。それゆえ彼らは、無事に洛陽へと到着していた。無事に洛陽へと入った劉逞たちは、先に戻っていた皇甫嵩の元へ向かった。
一時は劉逞が大将を務めたこともあった冀州と幽州の討伐軍であるが、そもそもその任あったのは皇甫嵩である。しかも最終的には左車騎将軍となった皇甫嵩隷下の将として、張宝を捕縛するまでに至ったのだ。このように何かと縁があった相手であったということもあって、こうして顔を出したのである。ただ鄒靖は幽州において独立して動いていた為にその限りではない。だが、彼一人だけ残るというのも変な話なので劉逞たちと同行していたのだった。
「よくぞお越しになられました、常剛様」
「将軍も、壮健そうで何よりだ」
このような場合、最年長と言うこともあって鄒靖が代表して皇甫嵩へ声を掛けることとなる。しかし一行には皇族たる劉逞がいるので、必然的に彼へその役目が譲られていた。その劉逞の後方には、鄒靖と劉備が控えている。そんな彼らを少し眺めたあと、皇甫嵩は小さく笑みを浮かべる。それから気分がよさそうな雰囲気で、全員に対して声を掛けていた。
「そなたらも、そのように畏まるな。それよりも常剛様、あちらにて歓迎致しますぞ」
「馳走になる」
訪問すること自体は、事前に知らせてある。ゆえに皇甫嵩は、簡素ながらも一席を設けていたのだ。自分たちより上の官位にある男の催す宴の席であり、断るなどまず有り得ない。例外として皇族である劉逞ならば可能であるが、そのようなことをしても場が白けるだけでしかない。そこで鄒靖や劉備たちと同じく、彼も招きに応じていたのだった。
なお、劉備であるが、実は洛陽に伝手がなく宿泊場所に困っていた。そこで同じ塾で学んだ学友であることと、何より師である盧植の頼みとあって劉逞が屋敷に逗留することを許可していた。もっとも、正確には彼の父親となる劉嵩の屋敷であるのだが、その父親から好きに使っていいとの言質は得ているので劉逞が許可すれば何も問題とならないのだった。
こうして洛陽に入った一行ではあるが、すぐに論功行賞が始まるわけでもない。そこで二人は、少数の護衛と共に洛陽の町を散策していた。劉逞にとっては、旅をしていた頃に訪れて以来となるから、およそ数年ぶりとなる洛陽である。皇族なのだから、何度も訪れていたとしてもおかしくはないと思われるかもしれない。だが、実際にはそのようなことはない。常山王となる父親ならまだしも、年端もいかない頃の彼がそう何度も洛陽を訪れるなどという機会はないからだ。
そして劉備だが、言うまでもなく初めてだった。属尽となる劉備だが、彼の家は決して裕福というわけではない。実際、劉備が盧植の塾に通う際にも、彼の族父となる劉元起が援助をしたお陰で通えていたぐらいなのだ。そのような劉備が、故郷の涿郡から遠く離れた洛陽を気軽に訪れるなどいったことなどできる筈もない。それゆえ彼は劉逞と共に行動して、これ幸いとばかりに洛陽を散策していたのだ。
もっとも、今日は別の用で出掛けていたのであるが。
「ところで常剛様。師がよく出掛けておられるが、どうかされたのか?」
「ん? ああ、師は用があるのだ。そもそも、今回の洛陽に同行したのもその用の為だからな」
ここで劉逞が述べた盧植の用だが、実は張牛角を取り込む際の伝手に関連があった。実は張宝を捕らえて洛陽に送ってから半月を過ぎた頃、盧植が使った伝手の相手からある要請が届いたのである。その要請と言うのが、石経への参画であった。
熹平年間(百七十二年から百七十八年)に始まっていたのだが、世情の不安定もあってか予定より完成が遅れに遅れていたのだ。そこで完成を少しでも早める為に、儒学者としても有名な盧植にも参画させようということになったのである。
しかし盧植は、皇族の一員である劉逞の家臣となっている。その彼に対してとなると、強制的に参画させることは流石に難しかったのである。しかし今回の一件で借りを作ることができたので、参画が要請されたのであった。
こういった背景もあって、劉逞も劉嵩も盧植本人も要請を断ることは難しい。それゆえに盧植は内心では仕方がなく、表面では喜んでという体を作って要請に応じたといった次第であった。
「なるほど、石経かぁ」
「玄徳。実は、あまり分かっていないだろう」
「はははは……」
笑って誤魔化そうとしている辺り、肯定しているのも同じである。もっとも、劉逞も正確に把握しているのかと言われればそうとは言い切れない。しかし、盧植と幼き頃より行動を共にしている分だけ彼より遅く盧植の弟子となった劉備よりは分かっているだけである。この辺りの知識についてだが、実際に儒学者でもある盧植と儒学を学んだだけという二人との差であるとも言えた。
そのような話をしつつも劉逞と劉備は、目的地へ到着した。そこにあったのは、かなり広い屋敷である。常山王の所有と言うこともあって、劉逞と劉備が宿泊している屋敷も大概に大きい。しかし、目の前の屋敷も決して引けは取っていなかった。
さてこの屋敷の主だが、曹嵩となる。曹嵩は曹操の父親であり、そして曹家自体も先祖は劉邦の次に皇帝となった二代目皇帝である恵帝の相国へ任じられた曹参の子孫とされていた。また、曹操の祖父となる曹騰は宦官ではあったが、四人の皇帝に渡って宮中で仕えた人物でもある。そのような権勢を極めたと言っていい曹騰が養子としたのが、曹操の父親となる曹嵩であったのだ。
曹騰が養子をとった理由は他でもない、彼が宦官だったからだ。普通の宦官であれば、養子を迎えるなど無理な話である。しかし曹騰ほどの有力者となると、許されるのだ。
屋敷の元の主が有力者であった曹騰ということもあってか、屋敷から放たれる圧力のような物がある。その圧力に、劉備は圧倒されている様子が見て取れた。曹操に比べればまだ身近と言っていい劉逞の父親となる劉嵩の屋敷ならばまだ何とかなったのだが、それほど知り合いでもない曹操の父親の屋敷となればやはり勝手が違うのだ。
そんな劉備は一まず置いておくとして、普段と変わりがない劉逞は屋敷の者へ訪問した旨を告げる。この様子に劉備は、やはり劉逞は有力者の、いや皇族の一員なのだと改めて認識していたのであった。
さて、何ゆえに二人が曹家の屋敷を訪問したのかと言えば、実は皇甫嵩の時とあまり変わりはない。冀州で轡を並べて戦った間柄なので、洛陽に来たついでに顔を見ておこうというものであった。
一応、曹操の方が年上なので年長者の顔を立てた形で訪問したのである。普通ならば、曹操が皇族である劉逞を訪問するのが正しいのだろう。しかし劉逞と劉備が洛陽の散策も兼ねていたので、ついでにといった形をとったのであった。
とは言うものの、劉逞と曹操はそれほど親しい間柄でもない。ゆえに曹操には、仮病を使うなりして断ることもできた。しかしながら、相手は皇族である。曹操が本当に病気に罹っているならばまだしも、嫌だから会いたくないからという理由だけで断ることなど不遜といっていい。だから曹操も、のちのちに不利を抱えることとなるのならばと迎えることにしたのだった。
屋敷に通された劉逞と劉備は、家主となる曹嵩へ礼儀としての挨拶を行う。その後、設けられた一席にて劉逞と劉備と曹操は雑談に興じることとなった。なんだかんだ言っても、同じ戦場にいて轡を並べて戦っていたのである。年齢が近いこともあって、いざ話し出すと思いのほか話題は尽きない。結局、夕方近くまで雑談に興じたあと、劉逞と劉備は屋敷を辞したのであった。
このようなことをしつつ洛陽で過ごしていたのだが、その彼らへ漸く論功行賞が行われるという通達がなされる。そして当日、劉逞たちは宮中へと赴いた。そこで劉逞へ、功績は大として鉅鹿郡の太守に任命されることになる。しかしこの太守就任が、本当に褒美かどうか怪しいものがあった。何せ鉅鹿郡では、散々に黄巾賊が暴れていたからである。恐らく冀州内で、一番荒れた郡だと言っていいだろう。確かに黄巾の乱がおきる前まで無位無官であった劉逞がついには郡太守にまでなったのだから、見た目上は褒美と言えるかも知れない。だが、治安の回復や郡内の立て直しを考えると、劉逞としてはとても頭が痛かった。
ただ、不幸中の幸いと言えるのは、彼自身が甘陵国の立て直しを経験していることである。経験もなく何も知らない状況で荒れた鉅鹿郡を任されるより、曲がりなりにも一度は経験しているということは大きいのだ。さらに劉逞へは、郡太守の地位とは別に良馬が一頭だが与えられている。この馬であるが、何と汗血馬である。しかしながら、気性が荒いとされていて誰も乗りこなせていない馬でもあった。
だが幼少の頃より馬術を鍛えられた劉逞は、いささか手こずりはしてもついには乗りこなしてみせたのである。今まで他の者が乗りこなせていなかったことを考えれば、驚くべきことと言えるだろう。こうして褒美として与えられた馬に劉逞は、雷閃と名付けたのであった。
なお冀州と幽州にて轡を並べた者たちについても、合わせて列記しておく。まず皇甫嵩だが、冀州刺史を拝命している。そして劉備は、中山郡安熹の県令となっていた。それから鄒靖だが、彼は中央にて北軍中候を拝命することとなる。最後に残った曹操はと言うと、青州済南国の相へ任じられていた。
因みに一応関係があるので、董卓についても述べておくとしよう。彼は広宗で黄巾賊に破れたことで討伐軍の大将を免職されたわけだが、のちに涼州でおきた反乱を契機にして中郎将へと返り咲いている。そして現在は、その涼州で起きている反乱鎮圧の為に、車騎将軍として派遣された張温の旗下として涼州へ赴いていたのであった。
無事に論功行賞も終わりを見せ、劉逞のように洛陽へと集まっていた者たちは各々散開する。ある者は鄒靖のようにこのまま中央へ留まり、ある者は故郷へ錦を飾っている。また、ある者は新たな任地へと赴いていた。
そして劉逞はというと、常山国へ戻ることとなる。その彼に同行したのは、皇甫嵩と劉備であった。先に述べたように鄒靖は中央での役職を得ているので、彼は洛陽へ残ることとなったので一行にはいなかったのだ。
洛陽を出立した彼らだが、洛陽へ向かった時と違って黄巾賊の生き残りたちによる些細な厄介ごとに巻き込まれている。具体的に言えば、黄巾賊を名乗った賊の襲撃に遭遇していたのだ。但し、これは寧ろ賊の方に同情してしまう。言ってしまえば、相手が悪すぎたのである。当然のように彼らは、あっさりと撃退しただけでなく自称黄巾賊を全滅させてみせたのだ。
正しく、馬鹿が馬鹿を見た典型であると言っていいだろう。
損害もなく賊どもを駆逐した劉逞たちは、何ごともなかったかのように帰路へと戻る。やがて一行は、常山国の治府がある元氏に到着した。ここで皇甫嵩は、冀州刺史として高邑へ向うことになる。また、劉備は中山郡安熹へ向かうこととなった。
なお彼らとの別れに当たって劉逞は宴を開き、名残を惜しんでいたのだった。
明けて翌日、皇甫嵩と劉備はそれぞれの任地へ向けて出立したのである。そして故郷へ残った劉逞だが、彼も任地となる鉅鹿郡へ向かう為の準備を行っていた。しかしそのさなか、父親に呼び出されると寝耳に水の言葉を聞かされたのである。
「婚儀……にございますか?」
「うむ」
「どなたのですか?」
「その方に決まっているであろうが」
「はぁ……って、はいっ!?」
劉逞が上げた素っ頓狂な声に、劉嵩も彼の正室で実母も会心の笑みを浮かべていたのであった。
さて劉逞の相手となる人物だが、だれであろう甘陵王劉忠の孫娘である崔儷であった。張牛角を取り込む際に劉逞は父親へ中央への働きかけを頼み、その話に劉忠が関与したことは前述している。その際に劉忠が劉嵩へ提案したことこそ、劉忠の孫娘となる崔儷との婚儀であった。
祖父の劉忠としては、家の存続の為にも唯一残った肉親となる孫娘に婿を取る必要がある。その婿へ、一時は自身の代理をしていたことで人となりを把握している劉逞を望んだのだ。これには、崔儷の思惑も絡んでいる。彼女は無事に祖父を救出した劉逞に、心を奪われてしまったのだ。可愛い孫娘の思いをも汲んだ話なのだが、実際に実行するとなると難易度は高い。何と言って劉逞は、常山王劉嵩の一人息子なのだ。その彼を婿にというのは、幾ら何でも無茶が過ぎる。そこで劉忠は、孫娘との間にできた男児を養子として家を継がせたいと劉嵩へ提案したのだ。
流石に一人息子を取られるのは無理だが、劉逞の息子ということであれば話は別である。これならばと劉嵩も同調し、ここに常山王家と甘陵王家の婚儀の道筋ができたのであった。
「蓮華殿との婚儀ですか」
「よもや、嫌とは言うまいな。常剛よ」
「……いえ。謹んでお受けいたします」
劉逞には、いまだに婚儀どころか婚約者すらいなかった。このことに関しては、両親に対してうしろめたい思いもある。だが、この話を受ければ、それも解消するのだ。それに崔儷であれば、彼としても知らない仲ではない。それに彼女と劉逞は、年が十も二十も離れているわけでもないのである。それゆえ、話題が合わないということもないのだ。
こうして、崔儷が望んだ通り彼女は劉逞の正室となることが決定したのである。両者の間ですぐに婚約も認められ、華燭の典は来年に執り行われることが決まったのであった。
漢の時代、同姓婚は不可ということをご助言いただきました。
そこで、劉儷の名を崔儷へと改名いたします。
なお、彼女が初登場した五話において、少しだけですがなぜ崔氏なのかという文章を追加しております。
私の調査不足もあり、誠に申し訳ありませんでした。