第百十九話~蝗害 三~
第百十九話~蝗害 三~
興平三年(百九十四年)
朝議を終えたあと、劉逞はある人物の元を訪れていた。その相手というのは、曹操である。劉逞が曹操の元へと赴いたのは、朝議でも出た蝗害によって彼へ間接的であるが影響を齎したせいであった。しかしてその影響というのは、戦に関することである。実はそう遠くもないうちに、曹操を総大将として青洲へ進撃するという計画があったのだ。勿論、遠征の目的は、いまだに青洲に割拠している黄巾党残党の撲滅である。現状、これは蝗害が発生する前までのことではあるが、兗州へ派遣されている張邈や王匡、さらには隣接する徐州の陶謙などの働きもあって、青州にいる黄巾残党は青州から動くに動けない状況となっていたのだ。しかし、いつまでもこの状況を座して見続けるというわけにもいかない。しかも前述した屯田制によって、食糧増産の目途もたっている。そこで、いよいよ青州を鎮定する為の軍勢を動かすことが決まっていたのだ。しかしながら、よりにもよって蝗害が発生してしまったのである。その為、とてもではないが、生じていた余裕などは吹き飛んでしまったのであった。
「済まぬ、孟徳殿」
「常剛様、それは致し方ありますまい」
いかに劉逞や曹操であろうとも、天災に勝てる筈もない。内心はどうであれ、受け入れるしかないのだ。
「だが、必ずや青州は鎮定する。その際には、頼む」
「承知致しました」
曹操からの返答を聞いて劉逞は、彼の肩を軽く二度三度叩くとその場から離れていく。その後ろ姿を曹操は、じっと見ていたのであった。
さて。
朝議が終わってより数日後、亡くなった劉焉の四人の息子のうちで益州にいる劉瑁を除く三人の息子、即ち長男の劉範と次男の劉誕と四男の劉璋から喪に服したいとの願いが届けられた。同時に、父親の葬儀へ出席する為、益州へ赴きたいとの意向も伝えられたのである。朝廷としては素直に頷けるものでもないが、さりとて彼ら三人が言い出していることは当然のことでもある。現状、特段の問題が発生しているとはなっていない以上、申し出を却下する理由はない。ゆえに、三人の申し出は許可されたのであった。
但し、現状では益州で何が起きるか分かったものではない。それでなくても、益州で力を振るっていた劉焉が死亡している。つまり一時的ではあるものの、益州は権力の空白時期となっているのだ。そこで劉範と劉誕と劉璋の三人は、益州へそれなりの兵と共に派遣されることとなった馬日磾や彼の副官として抜擢された華歆や、軍事を司る者として選ばれた鄒靖らと共に向かうこととなったのである。蝗害の発生によりできる限り早く益州を押さえたい朝廷側の思惑もあって、当時としてはとても早く諸々の準備が整うと、益州牧となる馬日磾が出立したのであった。
なお、鄒靖であるが、彼は黄巾の乱以降は不遇を囲っていた。彼もまた宦官を嫌っていたこともあってか、出世街道から外れてしまっていたのだ。それでも決して低い地位にあったわけではないのだが、さりとて高位な地位にも就くことは出来ていなかったのだ。しかしこの度、その様な鄒靖に対して降って湧いた益州へ軍勢を率いての派遣である。地方とはいえいわゆる司馬として赴くのであり、武将である鄒靖としては本分と言える役回りであった。それだけに、彼の意気込みは大きい。もし益州でことがあれば、必ず手柄を立てると内心で決意していた。その一方で益州は益州で、動きがあった。それは何と、劉瑁に対して益州刺史への就任という推挙である。この推挙を出してきたのは、益州における実力者でもあった趙韙によるものだ。無論、彼だけではない。他にも複数の者が連名して、劉瑁を推挙したのだ。その様な彼らの思惑の目的が何であるのかといえば、益州を己らの手で牛耳る為に他ならない。その手段として、彼らは劉瑁を担ぎ上げることにしたのだ。血筋という意味では宗室でもあった亡き劉焉の息子であるし、何より劉焉が生前より劉瑁は自身の後継者だと益州で公言している。ゆえに趙韙と彼に賛同した者たちは、操り人形として劉瑁を担ぎ上げることにしたのであった。とは言うものの、当初は劉瑁も首を縦に振らなかったのである。しかしてそれは、彼が趙韙らの思惑に気付いたからではない。前述した様に慣例として、父親の劉焉が亡くなったから喪に伏そうと考えていたからであった。
「然和様。よろしいのでございますか?」
「何がだ」
「喪に服すことにございます」
「父上がなくなったのだから当然であろう? 何を言っておるのだ」
父親である劉焉が死亡したことに対して、息子である彼が喪に服すのは寧ろ当たり前であると言っていい。だからこそ劉瑁こと然和は、喪に服すと言い出したのである。しかしながら、趙韙らが益州を牛耳る為には劉瑁を神輿として担いでいた方が何かと都合がいい。だからこそ彼らは、劉瑁の説得に掛かったのである。果たしてその際、引き合いに出したのは劉弁の元にいる劉焉の長男である劉範と次男の劉誕。それから、四男の劉璋についてであった。説得するにあたって趙韙らは、このままでは劉焉の跡を継げなくなってしまうと劉瑁へ告げたのだ。とは言え彼らの話だが、全くの根拠がないというわけでもない。その理由は、皇帝にあった。幾度が述べているように、親が亡くなれば喪に服すと言うのがある意味で当然の行いである。しかし、いついかなる時、誰に対してでも喪に服すという行為が行われてしまうと、場合によっては政治が混乱してしまう。特に喪に服すものが、国内において高位の役職に就いていればいるほど政治の混乱が発生してしまう可能性が高かった。しかし、その様な事態を回避する為の手段が、存在している。それが、奪情であった。奪情従公とも言うが、この命が出されると、それがたとえ喪に服す期間であったとしても出仕を命じることが出来るのだ。勿論、誰にでも出せるような代物ではない。皇帝だけが勅として出せる命であった。つまり趙韙らは、劉瑁に対して皇帝が奪情の命を出すのではないかとの不安をあおったのである。通常であれば、たとえ宗室の一人とはいえ、中央の重職についているならばまだしも、地方の役職でしかない牧への就任に対して奪情の勅命を出すとは思えない。しかし父親が亡くなった直後であることと、何より二人の兄と一人の弟が皇帝の近くにいて役職を拝命しているという事実が劉瑁の不安を大いに呷ってしまったのだ。確かに言われてみれば、その通りかもしれないと。
父親である劉焉が劉瑁に対して自身の後継だと言っていたのは間違いない事実であるが、あくまで父親からその様に聞いていただけである。それに劉瑁は他の兄弟の様に、漢の役職を拝命していたわけではない。せいぜい、父親の命で益州での役職に就いていただけでしかないのだ。勿論、劉瑁とて父親の言葉に甘んじていたわけではない。父親から寄せられる期待に応えようと、彼も頑張っていたのだ。そのお陰もあってか、益州内における評判は決して悪いものではなかったのである。だが、その努力も無かったものなってしまうかもしれない。その不安に付け込まれた劉瑁は、趙韙らの思惑に乗ってしまったというわけであった。
「……そなたたちに任せる」
『はっ』
こうして趙韙らによって、劉瑁の益州刺史への推挙が朝廷へ上奏されたのである。当然ながらこの上奏に対しては、驚きを持って迎えられたのであった。皇帝である劉弁以下、荀彧などは単純に喪に服さない判断をした劉瑁に対してである。しかし劉逞たちはというと、劉弁や荀彧らたちと違って、万が一ぐらいしか有り得ないだろうと考えていた事態が実現したことに対してであった。ともあれ、急遽朝議が開かれることとなる。その席において劉逞は、不機嫌さを隠さないまま前述した万が一の事態に対する提案をしたのであった。
「常剛様、本気にございますか?」
「文若。我とて業腹よ。ふざけたことを上奏してきている者たちの首を、ねじり切りたいぐらいにかんがえている。しかし、しかしだ。現実として蝗害が発生しているこの状況下において、感情を抜きに考えれば悪手ではないのもまた事実だ」
『……』
劉逞の提案に対して問いかえした荀彧は勿論、皇帝たる劉弁も皇帝の側近である种払と种劭も何も言わずに黙っている。そしてその態度こそが、返答であると言ってよかった。不機嫌さを隠そうとしない劉逞の提案から少しの間、静かな時が朝議の間を流れていく。しかしながらその沈黙も、ついに破られることとなる。それは他でもない、皇帝の劉弁が口を開いたからであった。
「よかろう。我が命にて、劉瑁の益州刺史の就任を認めよう」
『陛下!』
劉弁の言葉に、荀彧らは驚きの声を上げる。そして提案した劉逞や司空である盧植や光禄勲である蔡邕は、揃って苦虫を纏めてかみ潰したかの様な表情を浮かべていたのである。その様な彼らの表情を見回したあと、劉弁は言葉を続けたのであった。
「だが、常剛からの提案にもあった様に、劉瑁本人が我に改めて忠誠を誓ってからだ。それが果たされぬのであれば、彼奴の刺史就任などあり得ぬ!」
劉弁の宣言によって、朝議は決した。その後、劉瑁の刺史就任の奏上の使者に対して、朝議の決定が伝えられる。使者はその決定を持って、益州へと舞い戻るとすぐに報告した。報告を受けた劉瑁だが、暫く目を瞑ったあとに了承する。本音を言うと、皇帝の元へ赴くことに対しての不安はある。しかし、他の兄弟に家督を奪われることは我慢ならない。その思いの方が上回った結果、朝廷からの命を受け入れる決断をしたのであった。
なお、劉瑁の益州刺史就任の奏上が来なければ益州へ赴く筈であった馬日磾らであるが、彼らには別の命が言い渡されることとなる。まず馬日磾へは、亡くなった劉焉に対して派遣される弔問の正使として。華歆へは副使として、そして趨精へは、使者の護衛として兵を率いる役目である。この中で趨精の落胆は大きかったが、それでも彼は誠実に役目を果たしたのであった。そしてこの一行には、劉範と劉誕と劉璋の三人も同行していたのである。彼ら三人と劉瑁は劉焉が本拠としていた成都で再会したわけだが、兄弟とは思えないぐらいよそよそしい物であった。事実、劉範と劉誕と劉璋の三人は、父親への墓参りを済ませると益州に留まることなく、高邑へと戻っている。しかも劉瑁も、彼らを引き留めることはしなかったとされているのだから彼ら兄弟は決定的に決裂していたとして間違いはなかった。
ともあれ、皇帝からの使者を受け入れた劉瑁は、高邑へと戻る馬日磾の一行と共に劉弁の元へと向かうこととなる。やがて到着した高邑で劉弁と面会し事前に示された通り、劉弁へ忠誠を誓ったのであった。最も、劉逞を始め誰もが劉瑁の態度など信用していない。間違いなく、面従腹背であろうと考えていた。しかしこのことで、雍州や涼州や京兆尹周辺に対する救済の目途が立ったのも間違いない事実である。皇帝との謁見の後に益州へと戻った劉瑁は、命じられた通り益州から先に上げた地域へ食料を中心とした物資の輸送を行ったのである。この命に対して趙韙らは、不満をためることとなった。何せ彼らの目的は、益州を思いのままに操ることである。その益州から物資が他へ送られては、自分たちの取り分が減ってしまうからだ。しかしながらこの命は、自身たちが行った奏上に対する引き換えであることも分かっている。だからこそ彼らは、不満を持ちながらも命には従ったのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。
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