第百十七話~蝗害 一~
第百十七話~蝗害 一~
興平三年(百九十四年)
時は秋。
劉逞は、高邑郊外にある小麦畑まで足を伸ばしていた。最も、丞相として訪れたわけではない。いわゆるお忍びで、小麦畑に現れたのだ。そして幾らお忍びと言っても、劉逞一人でなどはまず無理である。当然ながら劉逞のすぐ近くには、幼馴染の趙雲と夏候蘭を筆頭に精鋭の護衛が同行していた。そもそも劉逞だが、幼少期を過ごした元氏にいた頃より民に紛れて過ごしていた。無論、年がら年中、過ごしていたわけではない。一年のうちで一定期間を設けて、その間は盧植の家へ住み込みで過ごしていたのだ。これは盧植の方針であり、そして劉逞の師匠を務める際に父親の劉暠と盧植が交わした約束だったからである。その経験があってか、劉逞は常山王の一粒種という高貴な身分でありながらも民の生活がいかなるものかを知っていたのだ。その様な経緯を持つ為か、彼は成人してからもお忍びによる視察というもの止めることはなかったのである。程昱などは止めさせたい様子はあるのだが、よりにもよって劉逞の筆頭軍師であり師でもある盧植の教育方針であったことが原因である為か強くは言えないでいた。
「……うむ。豊作だった様だ」
「そうだな」
「ああ」
農民が、乾燥させる為に干されている小麦を収穫している。かなりの数の穂が干されている現状、劉逞も思わずといった雰囲気で素直な気持ちを漏らしていたというわけである。それは近くにいる趙雲や夏候蘭も同じであり、劉逞の言葉を聞いた二人も相槌を打っていた。
「漸く、棗祗と韓浩の進言が文字通り実になったわけだ」
『そうですな』
棗祗と韓浩が行った進言とは、屯田制に関することである。食料増産が急務だからこそ推し進め様としていた劉逞に対し、棗祗と韓浩の二人は屯田による生産量の増産を進言したのだ。なお屯田には、主に二種類存在している。一つは兵士によって行われる開墾であり、こちらは軍屯と呼ばれる。そしてもう一つは民に行わせる開墾であり、こちらは民屯と呼ばれていた。そして屯田を進言した棗祗と韓浩は、それぞれ別の屯田を推し進めていたのである。棗祗は主に辺境や国境において兵士による開墾を推奨しており、いわゆる軍屯を行わせていた。そして韓浩はというと、民による開墾となる民屯を行わせていたのであった。
さて、何ゆえに二人が別の屯田を行ったのかと言えば、それは示し合わせたからに他ならない。軍屯と民屯、どちらかを選ぶのではなく状況に合わせた屯田を行うことで、より効率よく増産ができるのではないかと考えたからだ。そして劉逞が今いる小麦畑だが、嘗ては荒れ地でしかなかった。しかし、韓浩による主導で民屯が行われていた地であり、確かに数年前までは荒れ地であったのだ。しかし現状では、嘗ての荒れ地と同じ場所だとは思えないほどの収穫を期待できるまでとなったのである。勿論、民屯がこの地だけで行われていたわけではない。主に民屯は、劉逞が下賜された冀州の領地を中心に行われていた。その全ての地で成功したなどという御伽噺は存在しないが、それでも成功へと導かれた地は数多く存在している。そして屯田の成功は軍屯でも同じであり、輜重が不足しがちな辺境や国境においても、予想以上の収穫があり以前とはくらべものとならないぐらいに改善していたのだ。そして当然だが、この屯田における成功については報告が齎されている。それでも劉逞は、自身の目で確認する為にこうしてお忍びで民屯が行われた小麦畑に赴いたのであった。
「さて。これならば、大規模に推し進めても問題はないだろう」
『確かに』
今まで劉逞の領地で行われた屯田だが、いわゆる実証実験であった。かなり大規模であってはいるものの、それでも漢という国全体で行われたわけではない。いわば屯田という制度を国として推し進める前に、成功するかどうか確認を劉逞自身が自らの領地で行ったというわけである。しかし、この様に総じてみれば成功したと言えるだけの実績を叩き出せた以上、国策として推し進めることに躊躇いはなかった。すぐにでも皇帝である劉弁へ奏上し、漢国内へ広げるのも吝かではないのである。事実、劉逞は戻り次第、早速にでも奏上するつもりであった。
「子龍、衛統。戻るぞ」
『おう』
日も傾きちょうど干していた小麦の収穫が終わった畑をあとにした劉逞は、自身の屋敷へ戻ることにした。流石に、今から皇帝である劉弁へ面会して奏上というのは、非常識すぎる。今日のところは屋敷に帰り、明日にでも関連仕様を纏めたあとで奏上することにしたのだった。
翌日から劉逞より資料の纏めを命じられた文官たちは、正式な書類として纏め上げる。それらの資料が纏まったあとで劉逞は、劉弁と面会した。そこで彼に、屯田を導入してからの状況を取り纏めた資料を提示する。その上で、翌年からの導入を進言したのである。
「……よかろう。推し進めるがいい」
「承知致しました」
こうして屯田制が国策として、翌年より導入されることとなったのであった。
屯前制の導入が決まった翌月、驚くべき知らせが劉逞の元へ舞い込んできた。その知らせとは、益州牧であった劉焉の死である。確かに以前よりの情報として、最近は体調が優れないという報告があったのは事実である。だが、急に亡くなるほどの重篤であったとは、流石に把握できていなかったのだ。これには驚きを現した劉逞であったが、それも長い時間ではない。それどころか劉逞は、驚きが収まったあとには不敵とも取れる笑みを浮かべていたのだ。その様子を見て、盧植が口を開く。彼の口から出たのは、次代の益州牧についてであった。
「常剛様。後任の益州牧ですが、どなたをお考えですか?」
「さて。どうしたものか」
「これは確認でございますが、劉瑁にございますか?」
「それは、考えていない」
劉瑁とは亡くなった劉焉の三男であり、密かに彼自身の後継と考えている人物である。だからこそ劉焉は、四人いた自身の息子のうちで彼以外の息子を董卓の傍におき、そして劉瑁だけを傍に置いていたのだ。つまり劉焉は、長男である劉範と次男である劉誕と四男である劉璋を当時の最高権力者であった董卓の傍に置くことで彼に逆らわないことを示すとともに、事実上の人質として長安に押し留めていたのである。要するに劉焉は、長安で何かよからぬ事案が起きれば、三人の息子を見捨てるつもりであったのだ。だからこそ、董卓が結果として劉逞たちに討たれたあとに行われた召喚に対しても、彼らを殺す様な脅し文句を添えられているにも関わらず応じなかったのである。なお、劉範と劉誕と劉璋の三人だが、父親の考えを見抜いていた。とは言え、当初から見抜いていたわけではない。董卓が最高権力者であった頃は、劉協の傍で三人ともが役職に任命されていたこともあってか信じていたのだ。しかしその董卓も滅ぼされ、さらには劉弁や劉逞から出た半ば脅しに近い様な召喚に応じなかったことで、完全に疑いが確信へと変わっていたのである。最早彼ら三人は、父親や兄弟にではなく劉弁や劉逞の側への立ち位置だと言ってよかった。だからもし、劉焉の息子から次代の益州牧を選ぶとしたならば、劉逞は劉範と劉誕と劉璋の中から選ぶことになるだろう。少なくとも、人となりが分からない三男の劉瑁を選ぶことなどあり得る筈もないことであった。これには問い掛けた盧植は勿論のこと、程昱以下劉逞の知恵袋と言っていい軍師たちも同様の考えである。きっぱりと言い切った劉逞の言葉に対して頻りに頷いていたことからも、明白であった。
「何より、今すぐ結論を出す話でもなかろう」
「それは、確かにそうですな」
「それに、だ。仮に我らに州牧を認めて欲しいと思うならば、陛下へお目通りを願うのが当然だ。その気配さえまだ感じられない以上、劉瑁とやらを認めるなどあり得ぬよ」
「ですな」
「じ、丞相様!!」
ちょうど問い掛けた盧植が相槌を打った正にその時、慌てて飛び込んできた者がいた。誰であろうそれは、諸葛玄という人物である。彼は、徐州琅邪郡を本籍とする徐州諸葛氏の頭領的人物である。その徐州の人間が何ゆえに劉逞に仕えたのかというと、彼もまた鄭玄からの推薦があったからだ。そもそも彼自身は、漢の役職に就いていない人物である。しかし元々、名家の出で名が知れていた人物でもあり、その様な人物が未だに役職にないことを惜しいと感じた鄭玄が劉逞へ推挙したというわけである。嘗ては張昭の推薦を受けたこともある上、何より鄭玄とは成人する前からの繋がりもある。ゆえに劉逞は、鄭玄の推挙を受けて諸葛玄を招聘したのだ。一方で諸葛玄としても、今を時めく丞相の地位にある劉逞直々の招聘である。彼は断ることなく招聘に応じると、引き取って養育している亡き兄の子供たちとともに琅邪郡から出て、劉逞の家臣となったのであった。因みに彼は軍師とはならなかったが、政治家としては傑出した力量を持っており、文官として劉逞の元で力を発揮し始めていたのである。なお、劉逞配下における文官の筆頭は、蔡邕である。そして蔡邕自身は、前述した韓浩の後に光禄勲を拝命していたのであった。
話がそれた。
何はともあれ、その諸葛玄が足早に椅子へ腰を掛けている劉逞へ近づいてくる。すると趙雲と夏候蘭は、劉逞へ身の危険が及ばない様にといつでも庇える様な立ち位置を取った。この二人は劉逞の幼馴染であると同時に護衛でもあるので、いかに味方であってもさりげなく前述のような行動をするのだった。
「いかにした、子季」
「丞相様、喜ばしくないことが起きております」
「何か良からぬ知らせでも舞い込んだか?」
少し揶揄するかの様な口調で諸葛玄へと言葉を掛けた劉逞であったが、問われた諸葛玄の表情が緩むことはない。その様子を見た劉逞から揶揄いの表情が消え、代わりに訝しげな表情を浮かんでいたのであった。
「はい!」
短く返答したあとで諸葛玄が劉逞へと告げたのは、確かに良い知らせではなかった。しかもその知らせを聞いた劉逞だけでなく、この場に居た者全てから驚愕の表情が浮かび上がってしまったのである。だが、諸葛玄が届けた報せた内容を聞けば仕方がないことでもあった。何せ彼の知らせというのが、大いなる災害に他ならなかったからである。果たして彼が報せた災害の正体だが、何と蝗害であった。実は、蝗害に関しては劉逞も知ってはいる。それというのも、彼がまだ成人する前に同様の災害が起きたことがあるからに他ならないからだ。とは言うものの、劉逞自身が経験したわけではない。その災害が起きたことを、伝え聞いただけであった。
それは、今より十七年前のことである。熹平六年(西暦百七十七年)に、蝗害が発生していたのだ。幸いにも常山郡にまでは広がらなかったので、劉逞自身が経験することがなかったのである。しかし当時から漢に仕えていた者たちからすれば、実際に経験済みの天災であった。だからこそ、報告を聞いた彼らは驚愕の表情を浮かべたのである。何せ蝗害が齎す被害は、甚大である。折角収穫を終え倉庫へとしまった小麦なども、それこそ根こそぎ食べ尽くされてしまう可能性は多分にあったからだ。
「……はぁ。食料増産の目途が、漸く立ち始めたというこの時期に……それで子季、被害はどれぐらいとなっている」
「全貌に関しましてはいまだに……しかし知らせでは、雍州に涼州に司隷は確実かと」
まだ全貌が分かっていないにも関わらずあまりにも広範囲に及んでいる被害に、思わず劉逞はため息を漏らしてしまった。しかも、諸葛玄が言った様に全貌は分かっていないのである。さらに広がり、豫洲や兗州。果ては徐州まで及んでしまう可能性すらあるのだ。しかも、早急に手を打たなければ、何が起きるか分かったものではない。それこそ最悪の場合、飢えた民衆による暴動どころか反乱騒ぎまで起きかねないのだ。さらに付け加えれば、既に被害が判明している雍州と涼州と司隷はつい最近まで騒乱が起きていた地域でもある。漸く落ち着きを見せてはいるものの、いつ再燃するか分かったものではない地域でもあるのだ。
「これは、すぐにでも手を打つ必要がある。それこそ国を挙げて、だ」
「して、いかがなさいますか?」
「それを今から考えるのではないか、仲治」
劉逞は問い掛けてきた人物にそう答えたのだ。しかして彼の名は、辛評という。彼は袁紹による交州鎮定が行われている頃に荀攸からの推挙を受けて、弟の辛毗と共に臣下へと入った人物である。なお、この時に彼ら兄弟だけでなく、荀攸からの推挙を受けて荀悦と荀諶という荀家の二人がやはり劉逞の臣下へと入っていたのであった。
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「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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