第百十六話~交州派兵 六~
第百十六話~交州派兵 六~
興平三年(百九十四年)
交州で起きた区連による蜂起は、自身の死により終息した。当然であるが、反乱鎮圧において大将の地位にあった袁紹から、区連の首と共に朝廷へ報告がなされることになる。しかし区連の首は焼け焦げており、本人であると判別することは難しかった。但し、区連が死ぬ直前、直接対峙した士燮の旗下の将兵による証言もあり、見付かった焼死体はまず区連で間違いはないであろうと判断されたのである。
その後、袁紹らに対して反乱鎮圧に対する論功行賞が行われることとなる。まず大将の袁紹に対してだが、漢における正式な将軍位の一つである平南将軍の地位が与えられた。また、揚州牧の地位はそのままに新たに交州刺史の役職が与えられることとなる。袁紹自身としては交州牧の地位を望んでいただけに不満がないわけではなかったが、それでも刺史として交州に対して影響力を行使できるので、引き下がった形である。次に交州における名門、士家の当主である士燮に対しては、豫洲の刺史としての地位が与えられた。実はこの人事だが、袁紹に対してある疑義が持ち上がった為に決定され行われたものであった。果たして袁紹に対して持ち上がった疑義が何であるのかというと、皮肉なことに今回の反乱鎮圧であった。とは言え、反乱鎮圧に対して疑念が持ち上がったわけではない。ならば何に対して疑念が持ち上がったのかというと、袁紹が揚州牧として揚州へ赴任してより画策していた交州への侵攻計画であった。侵攻を行う以上、当然ながら兵力がいる。ゆえに袁紹は、揚州牧として赴任して間もなくの頃から、兵力増強を進めていた。しかし、あからさまに行ってしまえば、当然ながら朝廷に引いては劉逞へ知られてしまうことになる。だからこそ袁紹は出来る限り密かに、そして慎重に事を推し進めていたのだ。その甲斐もあった上に中央からの距離があることも相まってか、劉逞へ知られることもなかったのである。しかしてその様な中、朝廷からの区連に対する討伐命令が出たのだ。これ幸いにと袁紹は、密かに集めていた兵を使って侵攻を開始する。勿論、前述した様にすぐ侵攻したわけではない。表向き時間を空けて、その間に兵を集めたという体を取って侵攻したのだ。
しかしながら、この時間を空けたことが袁紹に対してよからぬことを考えているのではないかという疑念を生むことになったのである。以前より述べていることであるが、劉逞は密偵を特に重要視していた。より正確に言えば、密偵が齎す情報だが。ともあれ、同年代においてここまで密偵や情報を重要視した者などそうはいない。いわゆる軍師とされる人物を除けば、劉逞と曹操ぐらいであると言ってもいいかも知れなかった。これがもし他の者たちであれば、必要な時になって集めるぐらいの動きしかしないのである。しかし劉逞と曹操は、他の者たちと違って恒常的と言っていいぐらいに密偵を働かせて情報を集めていたのだ。そしてその集めた情報に、ある事柄が引っ掛かることとなる。それは袁紹が兵を率いて交州へ侵攻する少し前に劉逞の元にある報告が届けられたものであり、それこそが袁紹が揚州に赴任してから今回の反乱鎮圧に対する出兵までの経緯であった。
「これは、真か」
「はっ。申し訳ありませんが、確実とは言い切れません。しかしながら……」
「かなり、怪しいか」
「御意」
報告を届けた趙燕が頭を下げている前で報告を読んでいた劉逞が問い掛けた答えが、先ほどの会話であった。流石は、袁紹の陣営だと言っていいのかも知れない。劉逞の誇る趙燕が抱える密偵たちをもってしても、全貌を把握するかの様な確定情報を奪取できなかったのである。しかし、かなり怪しいのは事実であり、黒とは言えないまでも灰色というのは間違いなかった。
「確かにここ近年における世情を鑑みれば、兵を調えておくことは悪いことではない。だが、確かにこれは怪しい」
ここまで劉逞が懸念しているのは、兵の規模である。今回、袁紹が率いた兵数だが、普通に見るとかなり無理をしたのではないか思えるぐらいに多かった。当然ながら、その兵数に対する輜重も莫大なものとなってしまう。だが、袁紹はそれほど苦労なく用意していた節が見受けられるのだ。戦となれば、どうやっても損失が発生してしまう。その損失が積もってしまえば、戦自体がままならなくなってしまうのだ。事実、劉逞が交州の反乱に遠征できなかった理由の一つに距離というものがあるが、他にもこれ以上立て続けに大規模な戦を行ってしまうと、漢という国家に対して損害が無視できなくなってしまう事実もまた存在していた。それゆえに、袁紹に命じなければならなかったのである。しかしその袁紹に対して、交州への遠征を行う直前に疑義が生じたというわけであった。
「子幹。そなたは、どう思うか」
「はっ。時期が時期ゆえに、難しいかと」
劉逞に問われた盧植は、難しい表情を浮かべながらその様に答えていた。彼が難しいと言ったのは、袁紹の扱いである。確かに疑義は生じており、かなり黒に近いことは間違いないことは前述した通りである。だが、疑いは疑いでしかない。確実に罪を犯したという事実が見つけられない以上、糾弾することは出来ないのだ。何らかの情報をでっちあげして袁紹を罠に嵌めでもしない限りは、まず無理である。何より今は、交州への遠征が行われる直前なのだ。この様な時に確定的な証拠でもあれば別だが、証拠がない状況でいきなり遠征軍の大将の首を挿げ替えるなど行えるわけがない。味方には混乱を生じさせてしまうし、敵に対してはさらなる勢いを言与えてしまう可能性が高い。その様なこと、断じて看過できるわけもなかった。だからこそ盧植は、劉逞から問いに難しいと答えたのである。
盧植からの返答を聞いたあとで劉逞は、程昱ら自身の軍師たちに尋ねるも、彼らから返答は盧植とそう変わるものでもない。唯一、田豊は別の者を任命するべきであると主張したが、結局のところ総意としてはこのまま袁紹に任せることで決まってしまうのであった。
なお、唯一反対意見を述べた田豊だが、彼には劉逞から直々に袁紹に対してより調べることが命じられている。劉逞自身、今回のことで袁紹を討伐軍の大将から外すかどうか迷ったこともあって、反対の意を見せた田豊へ任せた形であった。一方で田豊だが、前述のごとく劉逞に疎まれても構わないという思いで進言をしていた。その結果、自身の意見こそ通らなかったものの、疎まれるどころか違う形ではあるものの袁紹の疑いへの対応を任された形である。彼は劉逞からの配慮に答えるべく、証拠を掴むために邁進するのであった。
何はともあれ、反乱への討伐が行われる直前に討伐軍の大将の首が挿げ替えられるという事態は回避されたわけである。果たしてその結果が、判別こそできないものの反乱軍大将であった区連の首が届けられ反乱軍自体の鎮圧が成されたというわけであった。いまだに疑義は確実に存在し続けているものの、こうして功を挙げた以上は報いなければならない。それが、前述した平南将軍の任官と交州刺史への就任であった。なお、袁紹へ交州牧ではなく交州刺史の地位が与えられたことは、前述した様に袁紹へ対する疑義に答えが求められる。これは交州に限ったわけではないが、刺史に本来であれば軍を編成する権限はない。勿論権威はあるので影響力は行使できるが、実質的に権力を持ち合わせることが建前上難しいのだ。つまり、刺史という地位で束縛することで、袁紹の兵力という実質的な増強を抑えようとしたのであった。
次に、士燮に対する褒美が豫洲刺史となった理由が袁紹に対する疑義への対応になるのかというと、理由が二つあった。一つは豫洲が、袁紹のというか汝南袁氏の本拠地となる汝南郡を抱えていることである。事実上、汝南袁氏の当主となった袁紹の拠点こそ揚州であるものの、やはり汝南郡は汝南袁氏の本籍に違いはない。そこで、反乱の鎮圧に功績を挙げた士燮を抜擢することで、袁紹に対しての牽制を行ったのである。それにもまして、田豊に命じた袁紹への調査によって、袁紹と言うか袁紹の軍師筆頭である郭図を中心に交州の名家である士氏に対して、何らかのよくない動きが見受けられる可能性が出てきたのである。袁紹が命じたのか、それとも郭図たち袁紹の家臣が独自に動いているのかまではまだ分からない。しかし、何らかの動きがあることはかなりの確度があるのは間違いないようであった。そこで、士燮を豫洲の刺史に命じたのである。これによって、豫洲において汝南袁氏と交州士氏の対立を作ることで汝南袁氏に対する牽制としたのであった。また、士燮だけでなく彼の弟二人や息子に対しても郡太守という形で褒美が与えられており、より対立を補完する形となっていた。
さて、もう一つの理由だが、これは豫洲自体の鎮定にある。それというのも豫洲では、大分勢力が落ちては来ているもののいまだに黄巾党の残党が蠢いている。その黄巾党残党の鎮圧と豫洲自体の安定を、士燮らに望んだのだ。朝廷のある中央から見た場合、交州に対する認識はやはり辺境である。その辺境において、曲がりなりにも名門として力を付けて影響力を持った士氏の手腕を見込んだのだ。つまり朝廷というか劉逞たちは、漢の首都である洛陽の近くである豫洲の刺史に任命することで名誉を、同時に豫洲内の黄巾党残党と汝南袁氏への対応を任せることで実質的な力の進捗を抑えるという策を袁紹と士燮の両陣営に仕掛けたのである。袁紹がなまじ功績を挙げてしまったが為、今さら糾弾も出来なくなってしまったが為に講じた苦肉の策であった。因みに士燮だが、今回の人事に裏があるのではないかと疑ってはいる。全くもっとその通りではあるのだが、流石の彼でも名誉と対立という二つの策を同時に仕掛けられたことまでは気付けなかった。しかし、何かの思惑があるのではと推察できてしまう辺り流石ではある。逆に言えば、それだけの人物であるからこそ、現状の豫洲を任せる人事を行ったと言ってよかった。
その一方で袁紹だが、褒美人事の裏で朝廷が仕掛けた策には気付いてはいない。但し、郭図や逢紀などの袁紹陣営の軍師は完全ではないものの気付いてはいる。しかし現状では影響は少ないと判断し、袁紹へは進言していない。なんだかんだ言っても、形上は交州から士氏の影響力は排除されている。下手に暗殺などを仕掛けるよりもましな状況であり、これ以上騒動を起こす必要がないからだ。それよりも、いかにし袁紹が任じられた交州刺史という地位を利用して交州を勢力に組み込むかを考えなければならない。揚州と交州という二つの州を制することが出来れば、さらなる栄達が望めるからだ。無論、根拠がない話ではない。他でもない今回の反乱鎮圧の褒美として与えられた将軍位が、その理由であった。平南将軍であるが、名が示す通り漢の南方を平らにするという意味合いを持つ将軍位である。要するに、漢の南方を担当する方面軍の司令官であると言っていい。最も、より上位として南征将軍や鎮南将軍や安南将軍という地位があるので唯一というわけではない。しかしそれでも、方面軍司令官という意味合いでは一緒ではある。そして、漢の南方となると、荊州が含まれるのだ。しかも現状、荊州は二分されていると言っていい状況下にある。荊州の北部は、荊州の刺史である劉表が抑えているものの、荊州南部は抑えているとは言い難いのだ。区連の様に漢に対して反旗を翻しているわけではないが、劉表の言うことにあまり従おうとはしていない。ここに面倒なところがあり、明確な反旗を翻していないだけに中央から軍を送りづらいのだ。これが劉表あたりから士燮の様に救援の要請でもあればまた話しは別となるが、劉表からは一切その様な話は出てこない。それゆえに現状では、董卓との対立もあったので荊州は劉表へ任せざるを得なかった。
つまり郭図たちは、この現状に付け込むつもりなのである。平南将軍の持つ意味合いを拡大解釈して、まだ安定していない荊州に関与する気なのだ。できれば荊州すらも平らげ、さらには益州すらも手に入れる。この様に漢の南方を勢力下とすることで、漢からの影響を排除して新たに国を立ち上げるのだ。その後、北を抑えた劉逞と雌雄を決し、最終的には中華全土を版図とするという計画である。その為にもまずは足元を固め、交州を勢力下に組み込むことが肝要なのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。
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