第百十四話~交州派兵 四~
第百十四話~交州派兵 四~
興平三年(百九十四年)
区連が袁紹と干戈を交えている最中に現れた士燮が率いる軍勢によって、区連の軍勢がほぼ奇襲に近い急襲を受けている様は、敵を引き付ける為とはいえ定安へ籠城している軍勢からも見て取ることが出来ていた。
「……そうか……これが、策か」
定安へ籠る軍勢を率いているのは、士燮の弟に当たる人物で名を士壱と言った。彼は一時ではあるものの、中央にて官吏として漢へ仕えていた時期がある。しかも彼は、董卓と対立していた黄琬に可愛がられていたこともあってか、董卓が実権を握っていた頃は出世の機会に恵まれることはなかった。それゆえ彼は、朝廷を辞して郷里に戻ろうかと考えていた節がある。しかしてその頃に、兄の士燮から董卓へ繋ぎを頼まれたのだ。
因みにその理由であるが、前述した通り日南郡で起きた区連の挙兵に原因が求められていた。確かに董卓が牛耳る朝廷の現状愛想を尽かしかけていた士壱であったが、話は郷里で起きた騒動となる。ましてや兄からの頼みであり、士壱に手を貸さないという選択肢はあり得なかった。すると士壱は、上司でもある黄琬へ相談する。いかに董卓と対立していたとはいえ、ことは漢国内で起きた反乱とある。彼としても、何も手を打たないわけにはいかなかった。ゆえに黄琬は、自身が持つ内心は置いておき董卓へ話を持っていったのである。黄琬からの話と言うだけでも、十分意外な出来事である。その上、内容が内容だった。何せ董卓であっても、交州で挙兵した者がいるなどという話は届いていなかったからである。だが、仮にも朝廷の要職にある黄琬が、幾ら董卓と政治的に対立しているとはいえ嘘を報告してくるとは思えない。そこで董卓も、自身で調べるとしてこの場では結論を出さなかった。だが、それから間もなくして交州でおきた区連による挙兵の報告が董卓の元に齎される。これで少なくとも黄琬が、嘘を伝えていなかったことだけは確認できた。しかしながら董卓が区連の挙兵に対してどのように動いたのかと言うと、前に述べた様に事実上の放置であった。
確かに時期的には反董卓連合との戦が起きていた頃合いであり、その点を考慮すれば致し方なかったと言えるかも知れない。だが、士壱からすれば、ふざけるなと言う話でしかなかった。これによって董卓が牛耳っている朝廷に対しては勿論、話を持っていた上司の黄琬に対する愛想も完全に尽きてしまったのである。そこで士壱は、兄に対して董卓ら朝廷が下した結論を連絡すると同時に、自身も職を辞して郷里に帰ろうと考えた。とは言え現状は、反董卓連合との戦が起きている最中である。しかも職を辞する以上、引継ぎも行わなければならない。もはや辞職を決断した士壱であったが、すぐに郷里の交州へ戻ることは出来ないでいた。その様な時、兄である士燮が引き続いて動いていたのである。その動きと言うのが、合浦郡へ太守として士壱を推挙するというものであった。するとこの話は、意外なほどあっさりと承認されてしまう。何ゆえそう簡単に承認されたのかと言いうと、董卓側と元上司である黄琬それぞれで一致したからであった。とは言うものの、考えが両陣営で同じだったというわけでもない。そこには、それぞれの思惑が異なりながらも、結果だけが一致していたに過ぎなかった。
まず董卓の事情だが、政治的に対立している黄琬の勢力を削る為である。士壱は黄琬配下でも、その能力を買われていた人物である。そんな男を朝廷から距離を取らせるだけでなく、黄琬の勢力が削れるのだ。董卓にとってみれば、正に一挙両得であった。一方で黄琬からすると、相談を受けたにも関わらず力になることが出来なかったという、一種の負い目がある。だからこそ彼は、士壱が職を辞して郷里へ帰ると言う旨を伝えられたときに押し留めるよう説得することはしなかった。そこにきて、今回の合浦郡太守への推挙である。今となっては自分に出来るせめてもの合力ということで、黄琬も積極的に支持したのだ。ここに両陣営の思惑を多聞に含んだ人事が、半ば戦時下であるという非常な時期としては異例なぐらいの素早さで行われたのである。今までは一身上の都合という理由であった士壱の辞職願いであるが、この様な事態となれば完全に辞令である。短時間で環境が整えられると、士壱は交州へと旅立ったのであった。
朝廷よりの命ということもあって護衛付きで移動した士壱は、途中で二度ほど盗賊に襲われるも無事に切り抜けている。一回目は小勢力だったこともあり、賊全員を捕らえて現地の太守へ引き渡している。二度目は少し大掛かりな賊ということもあって、一回目の様に捕らえることは出来なかった。それでも味方から人死にを出さずに済ませている辺り、やはり彼の才が凡庸ではないことを証明していた。魑魅魍魎が跋扈する朝廷において、その能力を買われていたのは伊達ではないということである。ともあれ二度に渡る賊の襲撃を切り抜けた士壱は、無事に刺史の代理でもある兄士燮の元へ到着した。その後、合浦郡へ移動した士壱は、兄弟で力を合わせて挙兵した区連へ対応したというわけであった。最も、彼から見ても弟となる士䵋が討たれてしまったのは想定の埒外であったことは言うまでもない。だが、今まさに兄弟で誓った敵討ちの機会が訪れている。この機会を見逃す様な士壱ではなかった。
「今こそ区連を討ち、士䵋の仇を討たん! 者ども、打って出るぞ!」
『おおっ!!』
士壱の号令により、定安より兵が出陣した。区連も一応ではあるものの、袁紹率いる軍勢と対峙する為、定安に対してちょっかいを出されない為に牽制として兵を置いてはいた。しかしながら、多くの兵を割けたわけではない。今回の様に、定安に籠るほぼ全軍が一斉に出撃されてしまう事態は想定されてはいなかった。
いや。
正確に言えば、想定されていなかったわけではない。しかしながら、十分に対応できる数の兵を回せるだけの余裕が区連になかったのである。それゆえに、どうにか対応できる最低限の数を置くという苦渋の決断をするしかなかったのだ。そして案の定、想定というか懸念は現実のものになってしまう。暫くの間は区連率いる本隊が幾許かの時を稼いだものの、彼らができたのはそれだけである。やがて突破され、ついには敗走へと移ってしまった。それでも、区連たちが戦場より撤退するだけの時間は稼げているので、全くの無駄というわけでもないのであろう。兎にも角にも、区連や范優などといった将の撤退が明らかになってしまえば、いかに士気が高くても軍という体裁を維持し続けることなどまず無理な話である。袁紹の軍勢と対峙していた本隊も、士燮率いる別動隊へ急遽対処した軍勢も、そして定安へ牽制の為に宛てられていた軍勢も、順次一敗地に塗れてしまうこととなる。これによって、袁紹を大将とする区連討伐軍の勝利が確定したのであった。
「聞けぃ! これより我らは追撃に転じる。区連の首を挙げ、完全に止めを刺すのだ!」
こうして袁紹たちは、一部の兵を治安の為に残すと、撤退した区連らを討つべく追撃へと移ったのであった。
後ろすら振り向かず、ただ逃げの一手を打つ区連たち。皮肉なことに負けたがゆえに起きた兵数の激減が、彼らに迅速な撤退を成功させていたのである。大勝と言っていい結末を手にした袁紹たちも勝利の勢いに任せて追撃を行っているのだが、率いる兵数が多い為にどうしても遅延が発生してしまっていた。無論、追撃を行っている全ての兵が遅いなどということはない。一部の者に至っては、区連たちに追いついてはいる。しかし撤退に移っている区連に付いてきている兵は、いずれもが旗揚げ当初より彼に従ってきた者たちである。もしかしたら立ち直れないかも知れないと思わせるだけの負け戦を始めて経験したにも関わらず逃げもせずに、彼らはそれこそ命を賭して追いついてきた一部の袁紹や士燮の兵を足止めしていた。事実、足止めとして残った兵はほぼ全てが討ち取られる致命傷を負って命を落としている。本当に一握りの者以外、文字通り全滅しながら区連や范熊らが逃げおおせる時間を稼いでいたのだ。
この様に忠義溢れる者たちの犠牲によってどうにか九真郡を抜け日南郡へと到達した区連たちであったが、彼らとしてもほぼ限界に近かった。何せ追撃する側は、抱える兵数が多いゆえに追撃が遅くなってしまう。だからこそ、区連たちもどうにか捕まる前に九真郡を抜けることが出来たのだ。だが引き換えに、追撃する側は次々と追撃の兵を送り出せるという強みも持っているのだ。それこそひっきりなしに送り込むことができるのである。しかも、わざわざ追撃を命じる必要もない。彼らの目的は、手柄首を挙げることだからだ。
無論、全員がその様に行動するとは言わない。兵の中には、追撃を取りやめて今まで敵の領地だったという大義名分の元、略奪行為へ走った者も少なからずいる。しかしながら、区連たちの追撃を続けた兵もまた相当数いたのであった。
ともあれ、日南郡へと逃げ延びた区連たちであるが、これまでの逃走で当初考えていた日南郡での立て直しなど無理だと思い始めていた。その理由は二つあり、一つは現有兵力である。そもそも区連は、日南郡から九真郡、そして交阯郡へと進撃するにあたって、ほぼ全てと言っていいぐらいの兵を引き連れていたのだ。勿論、文字通りの意味での全軍というわけではない。いかに一人でも多くの兵を連れて行きたかったとしても、制圧地の治安を維持する為にはどうしても兵を配置する必要があるからだ。逆に言えば区連は、必要最低限の兵しか日南郡と九真郡に残してはいなかったことになる。しかして今回の撤退では必要に駆られたとはいえ、文字通り意味で九真郡を捨てている。つまり今の区連の持つ兵は、本当に僅かしか残らなかった日南郡までつき従った兵と日南郡に残していた治安の為の兵しかいないのだ。
そしてもう一つの理由だが、圧倒的に少ない時間である。かなり激減した兵を補う為には、徴兵を行う必要があったことなど言うまでもないだろう。しかもその必要とされる兵数の規模は、日南郡に居住する老若男女全てを動員するぐらいなのだ。しかしながら、その様なことなどできる余裕がある筈もない。何より、敵である袁紹たちが兵を揃える時間など許すわけがなかった。仮に動員できるとしても、区連たちが逃げおおせた西巻ぐらいであろう。だが、徴兵に応えてくれるかどうかは微妙であろう。ましてや負け戦のあとと知れば、なおさらに怪しかった。要するに、区連たちにはもはや打つ手などないに等しいのである。あとは城を枕に討ち死にするか、さらに南へと逃げるかしかないのだ。流石に国外まで逃げおおせることが出来れば、いかに漢でも兵を送り込んでくることはないと思われる。仮に送り込んできたとしても、すぐではない。それこそ、最低でも数年は必要となるだろう。だがそれは、漢国内が安定し平穏であることが前提となる。現在の様な内憂外患の状態では、たとえ数年後であったとしても兵を送ることなど出来るわけがなかった。
「区連様、この地には我が残ります。あなた様は、一刻も早く南へお向かい下さい!」
親戚かつ側近であり、同時に筆頭家臣でもある范熊が区連に対して逃げるように言い放つ。彼としてはこの地に残り敵である袁紹や士燮の軍勢を引き付け、その隙に区連へ落ち延びさせることを当初から考えていたのだ。だからこそ彼は、交阯郡での戦で負けがほぼ確定した時、区連へ撤退を勧めたのである。つまり彼は、最初から区連の代わりに日南郡で死ぬつもりであったのだ。しかしながら、彼の願いが叶うことはなかったのである。それは、范熊からの言葉を聞いた区連が驚きの表情を浮かべたあと、暫くしてから首を左右に振った為であった。
「……もうよい」
「何を言われるのです! 国外まで出てしまえば、以下に袁紹とて追ってくることは叶いますまい」
「で、あろうな」
「ならば、何ゆえに首を振るのです!」
「……范熊、我にも矜持がある。このまま何もせずに国外まで逃げるなど、我自身を許せぬのだ!」
疲れ切っている区連であるが、開いた口から出た言葉には力強さがある。それだけに、区連の思いを覆すことは出来ないだろうことが用意し想像できてしまった。ならば、彼の側近として一族の者として出来ることなど一つだけである。区連に殉じて、共に果てるだけであった。しかしながら彼の決意も、次の瞬間には覆させられることとなる。その理由は、区連が最後の命を范熊へ告げたからであった。
「范熊、そなたは残ることは能わず」
「な、何ゆえにございますか!」
「そなたには、一族の未来を託す。我に子がいない以上、妹婿のそなたにしか頼めぬのだ」
范熊だが、厳密には区連の血脈に連なる一族ではない。范熊は区連の妹の婿に当たる人物であり、区連から見れば義理の弟なのだ。しかも自身が言った様に、区連には子がいない。両親も祖父母も既に亡く、直系は妹しかいないという現状なのだ。他にも分家筋に幾許かの人物がいるだけであり、もし彼らがいなくなれば区連の一族は間違いなく族滅してしまう。それだけは何としても避けたい区連は、一族の未来を最も信用する范熊へ託したのだ。当然ながら、范熊もその点については分かっている。だからこそ、区連の思いも理解できてしまう。
そう。
理解できて、しまうのだ。それゆえに、区連の思いは無下にできない。しかしてそれは、彼らの道がここで決別してしまうことに他ならなかった。
「…………承知……致しました……」
「済まぬ」
目を閉じ、長い時間を掛けたあと、范熊は区連の申し出を承知する。義理の弟から承諾の言葉を聞いた区連は、万感の思いを込めた一言を告げたのだった。この後、区連の命によって一族は范熊と共に日南郡からさらに南へ落ち延びることとなる。そして一族の中で一人西巻へ残った区連は、ただ時間を稼ぐことだけを目的とした籠城を行うのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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