第百十三話~交州派兵 三~
第百十三話~交州派兵 三~
興平三年(百九十四年)
定安の郊外にて、二つの軍勢が対峙していた。方や、日南郡にて兵を挙げ隣の九真郡をも短期間で平らげた区連率いる軍勢である。そしてもう一方の軍勢は、朝廷からの命を受けて揚州より侵攻した袁紹率いる軍勢であった。そして両軍勢とも、士気は高い。これは、両軍勢の抱える事情が関係していた。まず区連率いる軍勢だが、こちらは兵数こそ袁紹が率いている軍勢より少ない。だが、短時間で交州の二つの郡を手中に収めたという実績が自負となって、少ない兵数と言う事実を上回っているからだ。そして袁紹の軍勢だが、こちらは自軍の兵数が多い為である。いわく「大軍に策なし」と言われるぐらいであり、兵の数が勝敗に大きく作用していたのは言うまでもなかったからであった。
「長い時間は掛けられぬ。一気に決めるぞ!」
『おうっ!!』
区連の声に、彼の将たちが答えた。味方の士気が高いことは承知しているものの、やはり兵数の違いは大きいからである。消耗戦になってしまえば、単純に兵数がものを言う。当然ながら、兵数の上では劣勢である区連としては、消耗戦などは何としても避けたかった。だからこそ、彼は袁紹の軍勢を迎え撃ったのである。彼の思惑としては、開戦と同時にほぼ全力を持って袁紹の軍勢を攻め立てる。多少の損害を被るのは覚悟の上で、敵の中枢を突き混乱させてしまう。そしてできることなら、袁紹の首を挙げるのだ。こうなれば敵軍勢など、数がいるだけが取り柄の烏合の衆でしかない。打ち破ることも、決して夢物語ではないのだ。あとは刀を取って返し、敵の軍勢を破った勢いそのままに定安に籠った軍勢をも打ち破る。これで交阯郡における戦の優位性を確立することが出来る。いや、もしかしたら決め手となる可能性すらある。だからこそ、区連は速戦を選択したのだ。そして袁紹はと言うと、彼は速戦など求めてはいない。そもそも、彼に速戦を選択する理由などないのだ。兵数で優り、士気も引けを取っているわけでもない。しかも、士燮を大将とした別動隊をも動いている状態なのだ。その上、策の一環で定安に籠っている味方の軍勢も当てにできるのである。この状況下で、拙速に兵を動かす理由など存在しなかった。
「……敵も必死よの」
「しかり」
区連と袁紹がそれぞれ率いる軍勢が対峙したあと、間髪入れずとまでは言わないまでも、大した時間を掛けることなく兵を動かした区連を見た袁紹が漏らしたのが上記の一言であった。そしてその言葉を聞き、相槌を入れたのか郭図である。二人からしてみれば、既に勝ちも同然なのである。そもそも袁紹以下中枢の諸将は、今いる戦場に立った時点でほぼ勝ちが見えたと考えていた。何せ彼らの役目は、囮である。本命は、士燮率いる別動隊なのだ。敵となる区連の軍勢を引き付け、そこに生じるだろう敵側の隙を突く形で別動隊が攻勢を掛ける。あとは、士燮率いる軍勢の急襲なり奇襲なりを受けて混乱する敵勢を蹂躙してしまえばいいのだ。最も、二人にとって現状が思い通りであるのかと言われると首を振らざるを得ないだろう。袁紹たちからしてみれば、最初に戦端を開くのは士燮率いる別動隊なのだ。確かに、先に自分たちが戦の端緒を開くなど、想定していなかったわけではない。だが、確率的には低いと考えていたのも事実である。区連の軍勢に参画する兵の数が少なかったからこそ、より兵数の多いこちらへ仕掛けてくることは低いと袁紹は考えていたのだ。しかし現状、当初の予想が外れた形である。だがそれであるにも関わらず、袁紹に慌てた様子は見受けられない。それは事前に、郭図を筆頭とした彼の軍師たちから進言を受けていたからであった。もし、その進言がなかったらもっと慌てていただろうし、狼狽えていたかもしれない。先に述べた様に、区連から攻勢を仕掛けてくるなどあり得ない、そう考えていたからであるが、進言した郭図たちは袁紹の抱いたある意味で楽観論ともいえる考えを見抜いていたのだ。だからこそ、事前に進言をしていたのである。しかしながら進言を受けた袁紹としては、話半分ぐらいしか思っていなかった。だが一応、心の片隅ぐらいには留め置いておこう。などと思ったがゆえに、慌てなかったと言うわけであった。
ともあれ、当初の目論見は崩れてしまったわけだが、今の事態が致命傷であると言うわけでもない。有り体に言えば、当初の方針そのものを変更する必要がないということなのだ。これまた前述した様に、戦の序盤においては敵を引き付けるのが、袁紹率いる軍勢の役目である。確かに敵から攻勢を仕掛けられたのは意外であるものの、引き付けていると言う事実は覆らない。あとは出来る限り敵勢を釘付けしておき、士燮率いる別動隊が急襲を行い易い状況を作り出せばいいのだ。
「あとは士燮めだが、いつまで掛るのやら」
「そうですな。大した時は掛からぬでありましょう」
「ほう。子遠よ、その理由はどの辺りにある?」
「現時点において、我らの考えと威彦殿の思いに差異はないからにございます」
袁紹にしても士燮にしても、区連を排除したいという点においてだけみれば、思いは同じである。戦の趨勢が決まったあとならばまだしも、決まらない時点では士燮を排除する気は袁紹にもないのだ。あくまで、趨勢が決まらない時点ではあるのだが。
何であれ、現状では許攸が言った通りなのである。しかも士燮には、弟の敵討ちの他にもう一つ区連を討ちたい理由があった。それは、彼が日南郡で兵を挙げたからである。既に亡くなっている士燮の父である士賜だが、嘗ては日南郡の太守を務めたことがあった。しかも交州を本貫としている者としては、初めてのことである。つまり日南郡は、士一族にとって名を得た地でもある。ゆえに士燮は、弟の仇とあいうって区連をどうあっても排除したいのであった。
「ふむ、そうか。なればここは、鷹揚としておこう」
「流石は、名門袁家の当主にございます」
おべっかとも取れる許攸の返答に満足げな表情を浮かべたあと、袁紹は視線を戦場へと向ける。すると間もなく、その戦場において変化が訪れたのであった。
区連は、苛立ちを露にしていた。その理由は言うまでもなく、思い通りにいかない戦の趨勢にある。兵の士気と勢いに任せて前線の突破を試みたわけだが、突破どころか優勢にすら持っていくことが出来ないでいるのだ。このままでは、戦端を開く前に最も避けたいと思っていた消耗戦へと移行しかねない。さりとて、今さら兵を引くと言うわけにもいかなかった。確かに、一度兵を引いて体勢を立て直すと言う手立てがなくもない。しかし、この状況でその様なことを行えば、間違いなく敵から付け込まれてしまう。そして、一旦その様な状況となってしまえば、立て直すことなど不可能に近い。兵数の差と言う理を最大限に生かされ、敵から押し込まれてしまうのは必至だからだ。それゆえに、攻め続けなければならない。たとえ、その判断が愚であるとしてもだ。今や区連には、敵を攻め続けることで訪れるかも知れない光明に賭けるしかないのである。だが、その様に都合がいいことなどそうそう起きることはない。寧ろ、自分たちにとって不幸な状況な方が、往々にして起きうるものである。そんな、区連たちにもご多聞に漏れず不幸なことが起きてしまったのだ。果たしてその不幸とは、士燮の登場に他ならなかった。袁紹とは別に朱䳒を出陣後、地の利を生かして通常は使わない進軍経路で定安を目指していた士燮であったが、ついにと言うか漸くと言うかともあれ定安の近くまで到達したのである。その士燮の目には、干戈を交えている袁紹の軍勢と区連の軍勢が見て取れていた。
「遅れてしまったか」
「致し方ありません、兄上。寧ろ、早いぐらいです」
確かに、道なき道までは言わないものの、かなり厳しい経路を使用して進軍してきたことを考えてみれば、袁紹と区連が干戈を交えてから間もなくという遅れは、貶されるどころか褒められてもいいぐらいである。しかしながら、そうであったとしても開戦に間に合わなかったという事実に変わりはないのだ。この失点を取り返すには、より大きな働きが必要となる。その為にも、ここでいつまでも時間を浪費するわけにはいかなかったのだ。するとその直後、士燮は腰に佩いた剣を引き抜くと振りかざす。すると剣の身に日の光が当たり、綺麗に反射したのであった。
「全軍、突撃!」
『おおー!!』
光の軌跡を残しながら振り下ろされた剣と共に発せられた士燮の命に従い、全軍が一斉に動き出す。彼らが目指したのは、今さらであるが区連の軍勢であった。喚声と共に迫りくる軍勢であり、いかに袁紹の軍勢を攻め立てることに傾注していたとはいえ、気付かないほど愚かでもない。何事かと視線を向けた区連の目には、こちらへ猛然と迫りくる集団の姿が写り込んだのである。しかもその集団は旗を掲げており、その旗は士燮の存在を示していたのだ。
「ば、馬鹿な! 士燮が、何ゆえにここへいるのだ!」
今まさに対峙している袁紹の軍勢の中には、交州勢の旗が幾つともある。それであるにも関わらず、袁紹の軍勢とは別の軍勢に士燮の旗が掲げられていることに区連の理解が追いつけないでいた。しかしながら、これは区連の落ち度である。確かに袁紹の軍勢には交州勢の旗が幾つもあったが、そこには士燮がいることを示す旗は存在していなかったからだ。なまじ、交州勢の旗が多数あったが為に、士燮もいると思い込んでしまったのである。その上、拙速に攻めたことも相まって、敵の把握を怠ったつけであった。
「区連! 今こそ、弟の仇を討ち果たしてくれるわ!!」
「おのれ! 士燮!」
このままでは、あっという間に攻め込まれてしまう。区連は、厳しい中でもどうにか兵を迎撃に回した。しかしながら、既に袁紹と干戈を交えている状況であり、士燮の軍勢を迎撃するに十分な兵数など確保できる筈もない。鎧袖一触と言わないまでも次々と討ち取られてしまっており、このままでは区連の命も危ういものとなりかねなかった。
「ここは、引きましょう」
「范熊!」
「このままでは負けるだけでなく、命まで失いかねません。今は悔しくとも、再起に賭けるべきであると具申致します」
「……ええぃ!」
悔しさを滲ませながら、区連は手にしていた剣を振り下ろす。無論、范熊を切る為ではない。引くことで、助かる代わりに失うこととなる味方を犠牲にする踏ん切りをつける為であった。それでも一回程度では、踏ん切りを付けることは出来ないでいる。曲がりなりにも、短時間で二郡を落としただけに自信があるからだ。二度、三度と剣を振り続けたことで、少しずつ冷静さを取り戻していく。間もなく、冷静と言わないまでもある程度理知的に判断をできるぐらいにまで落ち着けたのである。すると区連は、袁紹と戦いを演じている前線と、もうすぐ迫りくるだろう士燮の軍勢を見やる。その後、思いっきり表情に悔しさを滲ませながらただ一度、撤退の命を出したのだ。その直後、踵を返すと外甥であり側近でもある范熊と共に区連は九真郡……いやそのさらに向こうとなる挙兵した日南郡を目指して一目散に駆け出したのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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