第百十二話~交州派兵 二~
第百十二話~交州派兵 二~
興平三年(百九十四年)
朱䳒の郊外に、揚州勢が到着した。軍勢を率いる袁紹は文醜に兵を預けると、将や護衛の兵と共に町へと向かった。その町の入り口では、士燮らに出迎えられたのである。その後、町の政庁へと案内されるとある部屋へ通された。その部屋には上座に椅子がしつらえており、袁紹は士燮から腰を掛けるように勧められる。すると袁紹は、鷹揚に頷いてから勧められるままに腰を降ろした。その彼の近くには顔良を筆頭とした武官数名が守る様に佇み、他にも郭図を筆頭とした文官数名が控えたのであった。
「威彦殿。出迎え大儀」
「本初様早くのご到着。この威彦、嬉しく思います。まずは、歓迎の宴を」
「おう。そうか!」
その直後、部屋には南海の珍味が続々と運び込まれてきた。士燮の本音からすれば、この様な宴など開いている暇があればさっさと区連を討ちたいと思っている。しかし袁紹は、四世三公を輩出した名門汝南袁氏の現当代であると言っていいだろう。一時は甥とも弟ともされる袁術と当代を争っていたが、今は亡き董卓の画策した東征の軍勢に敗れた袁術が本拠の汝南に落ち延びた上に袁紹から庇護を受けたことで、ほぼ揚州牧である袁紹にほぼ決まった感がある。まだ汝南袁氏の当主であると正式に名乗ったわけではないが、袁家内においては確定事項であるとまず間違いない。そしてその件については、詳細は別として士燮も噂ぐらいには聞き及んでいるのだ。だからこそ士燮は、内心では無駄と思える宴を開いてまで歓迎したのである。袁紹が援軍の大将ということは元より、名門の汝南袁氏の不興を買うようなことをする必要はないという打算も働いていた。
袁紹としても、歓迎を受けて嫌な気持ちになる筈もない。裏では士燮を筆頭とした士一族の排除を画策しているが、その様なことをわざわざ露にすることもない。だからこそ袁紹は、表面的には笑顔を浮かべながら宴の申し出を受託したのだ。その宴は、最前線ではないとはいえ戦場で開くには過分とも思える豪華さがある。その華美と言っても憚らない歓迎を受けて袁紹は笑顔を浮かべているが、その裏で士一族のというか交州が思いのほか豊かなことに笑んでいた。士一族を排除して豊かな交州を手中に収めることが出来れば、自分にとって大きな力となることは間違いない。本当にその様な結末が訪れるかどうかはまだ分からないのだが、少なくとも袁紹の頭の中では確定事項であると言ってよかった。
「本初様。どうぞ、ご一献」
「うむ。しかし、流石は交州の名門の士氏よ。宴の豪華さにこの袁本初、感動すら覚える」
「所詮は、交州の田舎者にございます。四世三公を輩出された汝南袁氏には、とてもではないですが遠く及びませぬ」
ある意味、キツネとタヌキの化かしあいであった。
士燮としては、袁紹にここで不機嫌になどなって不興を被りたくはない。言い方は悪いが、袁紹の軍勢をも利用して区連に討たれた弟の仇を取りたいからである。そして袁紹としても、まだ士燮ら士一族の排除はまだ早いと見ている。少なくとも、区連との戦にて趨勢が見えてくるまでは動かない方がいいと考えていた。ゆえにお互いに笑みを浮かべながら、その裏では腹の探り合いを行っていたというわけである。もし劉逞が、今の袁紹を見たら少し驚くかもしれない。
あの袁紹に、この様なこともできたのかと。
しかしながら何度も言った様に、袁紹は名門汝南袁氏の当代となるつもりである。ゆえにこの程度の駆け引きならば、できなくもないのだ。いかに名門であるとはいえ、いや名門の出身であるからこそ袁紹は、綺麗ごとだけでは政などできないと考えている。そしてその思いは、袁氏自身も抱いていた。寧ろ、その手の駆け引きが得意ではなかった袁術の方が、ある意味では稀有の存在だと言っていいのかも知れない。だからこそ、袁紹と争っていた汝南袁氏当主の座を逃すこととなったのであろう。兎にも角にも、歓迎と探り合いが混在する夜はふけていくのであった。
なお宴であるが、一日だけで終わったわけでもない。実にそれから数日に渡って、続いていたのである。これは明確な要請があったわけではないが、遠回しな表現で袁紹側から求められたからだ。戦の最中で、それでなくても出費に頭を悩ましているだけに士燮からしてみれば業腹ものでしかない。しかし弟の仇を討ちながらも区連を打ち破らなければならなない士燮としては、何としても袁紹の不興を買うわけにはいかないのである。たからこそ彼は、自身の内に覚えた怒りを抑えながら要望に答え続けたのだった。
その連日の宴が一週間を超え、流石に士燮の我慢が限界に達しそうな正にその時、袁紹からの使者によって連日の歓待に対する礼と軍議を開くとの通達が届けられる。漸く行うのかという思いを内に秘めつつ、士燮は了承の返答をした。明けて翌日、連日催された宴の雰囲気など微塵も感じさせない部屋の上座に袁紹は腰かけていた。
「威彦殿。戦況だが……どの様になっている?」
「……はい。それでは……」
士燮はそう一言前置きしてから、区連との戦についての報告を始めた。勿論、士燮に問い掛けた袁紹としても一応ながらも報告を受けている。連日の宴会に興じていたとしても、最低限の事象だけは把握していたのである。だが、それでも士燮へ問い掛けた理由だが、朱䳒へ駐屯してからの間にも自身が把握しきれていない出来事が増えているかもしれないかと考えたからであった。しかしながら、袁紹の懸念は外れることとなる。前述した様に籠城戦術に切り替えたことで、最前線は膠着してしまったのだ。この現状を打破するべく区連は、考えつく限りの手を打ってきたのだが、そのことごとくが空振りに終わってしまっている。いかに手を打とうと、相手が乗ってこないのではどうしようもないからだ。かくして戦況は、膠着状態に陥った次第であった。
「これは……勝てます」
「しかり」
士燮からの報告が終わると同時に郭図が、勝てると一言声を上げる。その言葉には、逢紀も賛同していた。その後、郭図が自らの口で策を伝えていく。彼が示した策、それは区連が採用できずにいた戦力の分割であった。まず最前線の定安であるが、こちらはこのまま籠城を続けて貰う。いわば、区連の軍勢を引き付ける囮であった。その一方で、袁紹率いる揚州の兵を中核とした軍勢が朱䳒を出陣する。この軍勢の目的は、当然ながら定安に籠城している味方の救援であった。だが、籠城中の軍勢は無論のこと、援軍の名目で出陣する袁紹の軍勢も実は囮でしかない。本当の意味で本命の軍となるのは、士燮率いる交州の軍勢なのだ。彼らは、できうる限り隠れて進軍を行う。一方で、定安に籠城中の軍勢と共に袁紹率いる揚州の軍勢が区連の軍勢と対峙する。こうして敵の耳目を袁紹の軍勢と籠城中の軍勢に集め、その隙をついて士燮率いる交州勢が区連へ奇襲を仕掛けて混乱を助長するのだ。こうなれば、あとは兵数の差に物を言わせて敵を蹂躙するだけである。仮にもし懸念があるとすれば、追い詰められた敵兵が死兵と化してしまうことかも知れない。だが郭図と逢紀は、味方の被る損害よりも敵の力を削ることに策の力点を置いたのだ。袁紹としては、味方の損害など出来る限り抑えたいと考えていたのだが、最終的には郭図と逢紀の策に同意したのであった。
定安に籠ってしまった敵に対して攻勢を掛けている区連であるが、その結果は思わしくない。打って出てくるなどといった積極的な反抗を行ってはこないので、味方にさほどの被害は出ていない。だが、こうも閉じ籠った貝の様に籠られてしまうと、取れる手立てが狭められてしまう。それでも敵の方が寡兵というならば多少強引な手も吝かではないのだが、定安に籠っている兵の数と味方の兵の数にあまり差はない。少なくとも、区連が強引な手段を打てると判断できるような差はないことだけは確かであった。
遅々として進展のない戦場の動静に、区連の内心に苛立ちだけが溜まっていく。その様な時、ある知らせが飛び込んできたのであった。区連へ齎されたその知らせとは、朱䳒から軍勢が出陣したというものである。その報告を聞いて、ついに来るべきものが来たのかと区連は内心で考えていた。今さらな話であるが、彼の元には袁紹が軍勢を率いて朱䳒に駐屯していることは既に承知している。しかし駐屯してから全く動きを見せていなかったので、区連からすればいつ動くのか懸念の材料だったのだ。そんな懸念材料でしかない袁紹の軍勢が、ついに動いたのである。これで対応策が建てられると、区連は考えていた。
さて。
朱䳒から動いた軍勢だが、言うまでもなく袁紹の軍勢である。定安に籠る交州勢を助けると称して、出陣したのだ。袁紹としては敵の目を集めるのが目的の一つなので、派手に進軍している。その様な敵の動きを続報にて知った区連は、呆れてしまう。同時に足したことはないのではとの考えが頭をもたげるが、すぐに頭を振ってその様な考えを片隅へ押しやった。やはり敵の兵数が馬鹿にならないという思いが、その根底にある。交州勢だけでも兵数としては負けているのに、そこにきて揚州からの軍勢が定安へ向けて動いているこの様な状況で敵を侮るなど、正に言語道断であった。
「危ない……危ない」
意識を切り替えた区連は、より確かな情報を得る為なのか物見の数を増やすことにする。しかしここで区連は、一つの失敗をしてしまった。その失敗とは、袁紹を警戒するあまり元から朱䳒に駐屯していた士燮への警戒を緩めてしまったことである。しかしこれには、仕方がない面もある。それは袁紹の軍勢の中に、士燮ら交州勢の旗印も存在していたからだ。とは言うものの、その旗印自体が先に挙げた策を成功させる為の手段でしかない。要するに区連は、まんまと敵の策に乗ってしまったというわけであった。
こうして図らずも策に嵌ってしまった区連が齎した警戒の緩さをついたかの様に、朱䳒から密かに軍勢が出陣していた。この別動隊と言える兵たちを率いるのは、言うまでもなく士燮である。偶然にも彼は、区連の警戒が緩んだ頃とほぼ時を同じくして兵を動かしたのだ。自身が太守を務めている交阯郡における地の利という点で言えば、現時点で交州に集っている軍勢の将の中でも、彼に勝る者はいなかったと言っていいだろう。その地の利を駆使し、士燮は兵を動かして夜の闇に紛れて旗下の軍勢の行方を敵から晦ましたのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。
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「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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