第百十話~甘陵 二~
第百十話~甘陵 二~
興平三年(百九十四年)
今は亡き霊帝からだけでなく、現皇帝となる劉弁からも養子縁組の許諾を得た劉逞は、甘陵国へ向けて出発した。劉逞にとって甘陵王劉忠は、義理の祖父に当たる。しかも自分の次男を養子とする相手の家の当主であり、それゆえに彼は家臣に命じるのではなく自分の手で縁組を進めたいと考えたのである。とは言え、何も養子縁組だけが理由ではない。他にも理由があり、それは何であるのかと言うと、劉弁の代理として劉忠を見舞うというものであった。
劉弁と劉忠の関係だが、良好であると言っていい。これは甘陵王の孫娘の婿が、漢の丞相に任じられた劉逞であることが大きい。つまり劉逞が劉弁を支えている関係で、以前は接点があまりなかった両者が接近したのだ。劉忠からすれば、孫娘の婿の援助にもなるし皇帝に対する忠節が見せられる。そして劉弁からすれば、新たに皇族からの支持を得られる。つまるところ、どちらにとっても悪い話ではなかったのであった。
ともあれ劉弁の代理という公的な理由も持ちつつ、以前に約束した養子縁組の話を詰めるべく甘陵国へ向かった劉逞だが、途中で襲撃など受けることもなく無事に目的地となる甘陵へ到着することが出来たのであった。
こうして劉逞が訪れた甘陵だが、この地には甘陵国の治府がある。当然、甘陵王である劉忠もこの地に屋敷を構えているのだ。その劉忠の屋敷へと到着した劉逞たち一行は、出迎えに出た劉忠の家臣によって屋敷の中へ案内される。その後、皇帝劉弁からの正使でもある劉逞と、副使である劉虞が共に臥せっている劉忠の元へ案内された。因みに、どうして劉虞が副使となっているのかと言うと、それは彼が望んだからであった。前述した通り劉虞は、先の洛陽で起きた不正事件の責任を取る形で三公の一つであった司空を辞任している。しかしながら、彼が無職となったのかというとその様なことはない。司空を退任した劉虞は、侍中として引き続いて劉弁に仕えていたのだ。その彼が自ら望んでまで甘陵へ向かった理由だが、劉虞と劉忠の間には繋がりがあったことに起因している。時期としては、黄巾の乱が起きた頃にまで遡る話となる。劉忠は黄巾賊によって息子夫婦や劉逞の正室である崔儷を除いた孫を殺されていることは、以前記した通りである。しかも劉忠自身、黄巾賊によって捕らえられており、拘束期間は数か月の間に渡っていたのだ。その後、甘陵国へ侵攻した黄巾賊は、この地へ派遣された軍勢の大将であった劉逞によって駆逐されている。そして僅かの間ではあるが劉逞は、黄巾賊を駆逐してからの甘陵国にて、劉忠の代理として政に関わっていた。最も、冀州で暴れている黄巾賊を討伐する総大将であった皇甫嵩からの命で、甘陵国を離れている。こうして劉逞が甘陵国を離れてすぐ、同地へ派遣されたのが劉虞であった。
彼はまだ体が完治していない劉忠に代わり甘陵国を治め、そして劉忠もまた劉虞を信じて彼に甘陵国を委ねていた。つまり両者の間に、君臣の関係に近い状態が生まれていたのである。無論、劉虞にとって第一は漢であり時の皇帝である。だが、その第一に比肩しうるくらい好意を持っていたのが、他でもない劉忠であった。その劉忠が病に倒れたばかりか、もしかしたら明日も知れない可能性がある。そこまでの考えに至った時、劉虞は皇帝である劉弁に対して二つの願いを進言していた。一つは、副使として劉逞と共に甘陵王の元へ向かいたいというものである。そしてもう一つというのが、これが意外なことであった。その意外なことというのが、相として再び甘陵国へ赴任したいというものであった。劉虞がこの様なことを進言したのは、前述した劉忠との関係に起因している。実は劉虞の中で、ある懸念が浮上していたのだ。その懸念というのは、劉忠が亡くなってしまったあとについてである。まだ確実に死ぬと決まったわけではないが、それでも話を聞いた限り重篤であることは想像できてしまった。それだけに劉虞は、今回の一件で急遽養子縁組が行われる甘陵王家で権力闘争が勃発しかねないことを危惧したのである。何せ劉忠の甘陵王家に養子縁組するのは、まだ数えで六歳にしかならない幼子なのだ。先に述べた様に劉忠が亡くなりこの幼子が当主になろうものなら、ほぼ間違いなく新当主を傀儡として扱い、甘陵王家の実権を握ろうと考える愚かとしか言いようがない者が出てくる。その様なこととなれば、下手をすれば甘陵王家は取り潰されかねない。何せ養子縁組をする子供の実父は皇族であり、今や漢の丞相である劉逞だからだ。嘗て自身を信じて甘陵国の差配を全て委ねてくれた甘陵王劉忠に対する恩に報いる為に、その様なことは断固として許すわけにはいかない。ゆえに劉虞は、相としての赴任を皇帝の使者の副使と共に望んだというわけであった。
そして進言を受けた劉弁はと言えば、暫く考えた上で許可を出していた。彼としても、折角味方に引き入れている甘陵王家を大事にしたいのは言うまでもないことである。確かに、ここで侍中である劉虞を傍から離すことは惜しい。だが、しかし甘陵王家をより確実に確保しておくには必要なのでは思えたことも事実であった。ゆえに劉弁は、劉虞の申し出に対して許可を出したのである。
劉弁と劉虞、双方の思いに違いはあるものの、結果としてだけ見れば目指す先は甘陵の安定にある。ともあれここに劉虞は使者として、そして新たな甘陵国の相として劉逞と共に甘陵国へ向かったというわけであった。
因みにこのことについては、劉逞も懸念していたことではある。それだけに彼は、家臣のうちで何人かを息子に付けようと思っていた。しかしながら、劉虞がその様な考えで甘陵国へ赴いてくれるというのであれば、実にありがたい話ではある。なんだかんだ言っても劉虞の名声は、漢国内に知れ渡っている。その劉虞が、新たな甘陵王となる劉逞の息子の味方となってくれるのと言っている。劉虞が息子の味方であることは、実にありがたい話であった。
ともあれ様々な事情を内包しつつ、甘陵国の治府がある甘陵へと到着した劉逞一行は、前述の通り病に臥せっている劉忠の元へと案内された。本来であれば皇帝からの使者であり、かつ劉逞自身が丞相であることを鑑みれば、最高の礼を持って迎えなければならないだろう。しかし当の劉忠が、既に寝所から起き上がることも難しいぐらいに体が弱っていた。もし、劉逞が華佗を派遣していなければ、彼は使者が到着する前に鬼籍へと入っていたかもしれない。寧ろ、名医と言われている華佗であったからこそ、この時点まで持っていたのかも知れない。しかし幾ら華佗といえども、最早延命が精一杯であった。
「この様な……姿で、申し訳あり……ません」
「いや。ご無理は禁物です、甘陵王殿」
この様な状況であったにもかかわらず、それでも劉忠は必死に体を起こそうとしている。やはり同じ皇族であり、しかも礼儀に欠けるのではという思いからであった。しかし、状況については劉逞たちも把握している。何よりも劉逞が押し止めたことで、体を倒したままで迎えても礼儀に欠けるということにはならなくなった。すると劉忠は、力が抜けた様に寝所に倒れ込む。慌てて華佗が容態を確認すると、彼の命はまだ永らえていた。
しかし、もはや悠長に挨拶を交わしている暇はないと考えた劉逞は、挨拶すらも省いて劉忠の枕元に近づいた。そしてあまり刺激はしない様な小さな声で、今回赴いた要件である養子縁組の件と連れてきた息子への面通しを行ったのである。息も浅く、そして荒い劉忠であるが、それでも目を開いて劉逞が連れてきた子供を見る。不安そうな表情を浮かべている劉逞の息子に対して劉忠は小さく微笑すると、ゆっくり片手を上げて子供の頭に手を置き優しく撫でる。その仕草に劉逞の次男も嬉しくなったのか、大きくはなくとも声を上げて笑ったのであった。
「じ、丞相。名は、何と言うのか?」
「姓は劉、諱は厳、字は武信である」
「り、劉武信……よき名ですな」
通常なら数えで五歳にしかなっていない幼子が名を得るなどまずないのだが、今回に限っては例外である。劉忠は明日をも知れない状況であり、もしかしたら到着していたら既に亡くなっていたといった事態もあり得たかもしれないのだ。そこで劉逞は、急ぎ次男を元服させたという次第である。これには皇帝である劉弁も賛同していたことから、誰からも文句が出ることはなかった。
「さて武信、ご挨拶をせよ」
「は、はい。父上」
劉逞から声を掛けられた劉厳は、慌てて返事をする。それから幼いなりに居住まいを正すと、頑張って劉忠へ挨拶を行ったのであった。
「わ、われは劉武信にございます。おおおじい様」
「……うむ……よろしく、頼むぞ……ぶ、武信」
「はいっ」
本来であれば養子縁組するのだから、劉厳は劉忠の息子ということになる。しかし数えで六歳でしかない劉厳にその様なことが分かる筈もなく、彼は今までの関係通りに答えていた。本来であれば指摘することかも知れないが、明日をも知れない状態となっている劉忠に、劉厳の間違いを指摘することで余計な負担となりかねない。だからからか、誰もそのことについて指摘する者はいなかった。
「……それと……白安殿。久しぶりよのう」
「甘陵王のお顔を拝し、嬉しゅうございます」
「使者とは……言え、久方にそなたの顔を……み、見られたことをうれし……く思う」
「何を言われます。これから、幾らでも見せられます」
「そうか……」
普通であれば、ここで劉虞の言葉の意味を尋ねるところであろう。しかし半分くらい意識が朦朧としており、しかも喋ること自体が体の負担となっている劉忠がその様な行動に出ることはなかった。
いや。
それどころか、劉忠から力が抜けているように感じられる。これは劉厳と面通しをしたことと長年の懸念であった次代の甘陵王がほぼ内定したことによる安堵から、気が抜けたせいであった。劉忠の様子がおかしいことに気付いた華佗が、劉虞を押しのける様に劉忠に近づくと医者としての処置を施していく。この処置が適切であったこともあって、このまま彼が命を落とすといった事態にはならなかった。とは言うものの、予断を許せる状態ではない。それこそ今日中に亡くなったとしても、驚きではない状況であった。
これ以上の面会や会話など患者である劉忠の負担が大きいと判断した華佗によって、劉逞たちは退出させられる。最低限のことは処理できたし、何より素人とは言え劉忠の容態が差し迫っていることだけは判断できる。だからこそ劉逞たちも、華佗の言葉に反論することもなく、大人しく従って部屋より退出したのだ。そしてこの面会こそが、劉逞たち一行と甘陵王劉忠が生前に会った最後の機会となる。そしてこの面会から二日後の深夜、劉忠は静かに息を引き取ったのであった。当然ながらこのことは、すぐに劉弁へ知らせられることとなる。高邑にて劉忠の死亡を伝えられた劉弁は、瞑目しつつ内心で冥福を祈る。そして目を開くと、すぐに劉逞たちへ返信したのであった。これにより劉逞は劉弁からの見舞いの使者から、弔問の使者へと変更することとなる。同時に返書には、正式に甘陵王の地位を劉厳が継ぐことが明確に記されていた。つまり親子となって僅か二日で劉厳は、葬式の喪主を務めることとなったのである。しかしながらまだ幼子の彼に、葬式の手順など分かる筈もない。ゆえに甘陵国の新たに相となる劉虞を中心にして、葬儀の準備が進められたのである。そして準備が整うと、甘陵王劉忠の葬儀がしめやかに執り行われたのであった。
なお、劉厳の甘陵王就任であるが、すぐには行われてはいない。その理由がなぜかというと、この時代の慣例に従い喪に服す為であった。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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