第百七話~交州反乱勃発~
第百七話~交州反乱勃発~
光熹四年・興平元年(百九十二年)
劉弁を旗頭とする劉逞によって、董卓が討たれた。また、その董卓により皇帝へ祀り上げられていた劉協が劉弁旗下に入ったことで東西二つに分かれていた皇帝家は統一がなされたのである。これによりそれぞれの勢力で使用されていた年号は、劉弁たちが用いていた年号である光熹へと統一されることとなった。しかしながら劉弁は、ここで年号を改元することとしたのである。これは仇敵と言っていい董卓を討ったことに加えて、涼州にて反乱を起こしていた馬騰と韓遂が劉弁の旗下に入ったことで、青洲を除く漢北部を押さえたことを記念して行われた改元であった。
「新たな年号は、興平とする」
漸く唯一の皇帝となった劉弁より発布された勅により明らかにされた新たな年号は、興平である。この年号が発布された直後、高邑にある仮の宮殿に集う家臣によって万雷の歓声に覆いつくされたという。新たな年号と共に、漢の復興が約束されたかのように感じていたのであろう。しかしながら、丞相へと就任した劉逞など一部の者は、その様な楽観的な考えなど持ち合わせてはいなかった。確かに漢北部は、董卓を討ち馬騰と韓遂が劉弁へと帰順したことで黄巾賊の残党がいまだ闊歩する青洲を除いて押さえたと言っていいかも知れない。しかしながら治安と言う意味では、まだまだ気を抜くことなどもっての他であった。因みに馬騰と韓遂だが、それぞれに将軍位が与えられている。馬騰には安戎将軍が与えられ、韓遂には征戎将軍が与えられた。同時に涼州が再編され、一つであった涼州は涼州と雍州の二つに分割されたのである。涼州には、北地郡と安定郡と漢陽郡と武都郡と隴西郡と金城郡。それから安定郡の一部と右扶風の西側半分を合わせ、新たに新平郡を置き、これらの郡が所属したのであった。そして雍州だが、前述した嘗ての涼州にあった郡のうちで、再編後の涼州は組み込まれなかった残りの郡が所属したのである。また、馬騰には涼州刺史が与えられ、韓遂には雍州刺史が与えられた。このことに感動した両名は改めて漢への忠誠を誓うとともに、嫡男を漢へ仕えさせたのであった。また、匈奴に対してであるが、こちらには約定の通り朔方と五原の二郡を褒美の形で与えたのである。当然使者は、劉備が度遼将軍に就任した為に後任の使匈奴中郎将に就任した王柔であった。
ともあれ新たな年号と共に再度の船出を行ったわけだが、丞相となった劉逞以下、忙しく働いていたのは言うまでもない。前述した治安についてもさることであるが、他にも懸念となる事態はあったからだ。
まず、いの一番に挙げられる相手としては、益州牧である劉焉となるであろう。彼は張魯を取り込み、 彼を動かすことで中央との拒絶を行っている。これは、劉逞が董卓を討ってからも変わっていない。当然、放っておける事態でもないので、公的に再三再四参内する様に使者を送っている。しかし返事は、梨の礫であった。この為、脅しの意味も込めて一度、劉焉の三人の息子の命がどうなるか分からないと匂わせているかの様な書状を劉弁も承知の上で送ってみたのだが、やはり返事が来ることはなかったのである。ここまでとなれば、もはや漢とは袂を分かったのだろうというのが劉逞だけでなく劉弁すらも認めた共通認識であった。
「とはいえ、兵を送ることは難しい」
はっきり言って不遜以外何者でもないのだが、だからといってすぐに軍勢を送ることができるのかと言うと、それはそれで難しかった。直接的な理由は、董卓討伐の軍勢を動かした直後だからである。ここで立て続けに遠征軍を組織して動かしてしまえば、どれだけ費用が掛かるか分かったものではない。有り体に言ってしまえば、すぐに軍の再編を行った上で益柊まで遠征を行うだけの余裕がないのだ。また、益州という地理的要因も大きく影響している。どちらにしても、一朝一夕で遠征を行える状況にはないことだけは明白であった。
第二には、交州で起きた反乱騒動である。何と董卓による漢の中央で行った専横が遠因となって、交州で反乱が勃発してしまったのだ。反乱を起こしたのは区連と言う人物であり、元は交州日南郡林と言う名の県の功曹の息子であった。しかし彼は、あろうことか父親の上司に当たる筈の県令を殺害してしまったのである。その直後、彼は兵を挙げると勢力を拡大するべく、兵を推し進める。これにより交州日南郡は、瞬く間に区連の手に落ちてしまった。こうして一つの郡を手中に収め足場を確保した区連は、漢からの独立を宣言して王を自称して林邑国を建国したのだった。
さらに勢いの乗った区連は、日南郡だけではまだ物足りないと考えたのか、日南郡の北に存在している同じ交州の郡である九真郡をも伺い始めた。ことここに至り、交州で力を持っていた為に空席となっている刺史の代理を務めていた士一族当主での士燮は、朝廷へ救援の要請を行ったのだ。この際、士燮は、強かにも劉逞と董卓、どちらにも要請を行っていたのである。漢の南の外れとなる交州では、どうしても情報の伝達に遅れが生じてしまう。つまり士燮は、どちらの勢力が勝ちを収めても救援が来訪するように仕向けたのだ。結果としてみれば、動いたのは劉逞となる。董卓を討ったのだから、当然ではあった。
ところで、何ゆえに刺史が不在であったのかと言うと、前刺史が急死してしまったからに他ならない。それはちょうど、反董卓連合における董卓討伐の最中に起きた事態と言うこともあって、董卓もすぐには次の刺史を送れなかったのである。そこで董卓は、一まず士燮を代理として任命しておき、何れ事態が落ち着いた頃に刺史を送ろうと画策したのだ。しかし、長安への遷都。そしてこちらは劉逞も勿論董卓も意図したわけではないが、火災による洛陽の崩壊が起きてしまう。とてもではないが遠き交州まで新たな刺史なり牧なりを遅れる余裕はなく、そのまま士燮が刺史の代理として交州を治めていたのだ。最も、いつまでも刺史代理に任せているというわけにもいかない。そこで次の刺史には、朱儁の長子である朱符が就任することになっていたのである。しかしながら朱符へ辞令が出る前に、董卓が行った東征に端を発した戦が勃発したこともあって、朱符は交州へ旅立ってもいなかったのだ。
「どうしたものか……」
丞相として劉逞は、三公ら朝臣たちを集めると交州での反乱への対策を考える。またその場には、盧植を筆頭に劉逞配下の家臣も参画していた。それと言うのも既に劉逞家臣たちの中には、漢における役職を拝命している人物も存在している。それゆえ、彼らが同席しているのも当然と言えば当然であった。
「丞相、我は揚州牧に鎮圧を命じてはいかがと思うが」
その時、劉逞へ進言した者がいる。その人物が誰かと言えば、劉虞であった。確かに揚州は交州の隣である。その意味では荊州や益州も同じであるのだが、益州は前述に述べた理由で候補とはなり得ない。残りの荊州についてであるが、実は治安という意味ではまだ芳しくないのである。反董卓連合のさなかにおいて起きた孫堅による荊州刺史を務めていた王叡殺害後、荊州刺史となったのは劉表である。しかし彼は、荊州に就任して現地を訪れると、すぐに反董卓の旗幟を明らかにした。しかし孫堅による刺史殺害の影響は大きく、荊州は当時袁術がいた南陽郡を除いて朝廷からの命を聞こうとしなかった。荊州はいわば戦国時代に近い様相を呈していたのである。しかし劉表は、荊州の名族である蔡一族や蒯一族の力を借り、どうにか反董卓連合が終盤には荊州北部の治安を回復していたのだ。しかしあくまで荊州北部だけであり、いまだに荊州南部となる四郡のうちの三郡、即ち武陵郡と零陵郡と桂陽郡は劉表には従おうとしていなかったのだ。その様な情勢を有している荊州であり、とてもではないが交州へ軍を派遣できる余裕などない。つまり、交州近隣において軍を派遣できるのは袁紹が牧として派遣された揚州以外なかったのであった。
「我も賛成します」
続いて、大尉である張温も賛成する。三公となる司徒と司空と大尉のうち、二人が賛成したことで雰囲気的に揚州牧を務める袁紹へ軍の派遣を命じる流れができたと言っていい。しかし劉逞としては、どうにも袁紹から疑いの目を背けることが出来ないでいた。だが先に挙げた様に、すぐには討伐の軍を交州へ派遣することが難しいという現実が存在している。それである以上、代わりに近隣から兵を差し向けるのは当然な話であった。
「……いいだろう。揚州牧へ、軍の派遣を命じる」
これにより、袁紹を大将とした軍勢の派遣が決まったのである。その後、劉逞より皇帝である劉弁へ正式に上奏され、同意が得られる。最も、劉弁からすれば反乱討伐の案件であり、断る理由などあろう筈もなかった。
揚州の治府がある寿春にて袁紹は、勅命の使者を迎えていた。
「揚州牧、袁本初。交州に反乱を起こした区連討伐を命じる」
「はっ!」
「合わせて、討蛮将軍を与える」
「ははぁ」
上座に受け入れた使者からの命と将軍への就任を、袁紹は粛々と拝命した。その夜は使者を歓待し、翌日には送り出している。その後、すぐに袁紹は家臣を集めると、軍議を開いたのである。その軍議で袁紹は、開口一番に言葉を漏らしていた。
「これは、好機だな」
「正しく」
「公則もそう思うか」
「無論にございます」
何ゆえに袁紹と郭図がその様な会話をしているのかと言うと、実は袁紹だが以前から交州への侵攻を考えていたのである。中央から離され揚州に赴任した袁紹自身、もはや漢へ従う気は失せていた。とは言うものの、力がなくては話しにならない。そこで自身の勢力を拡充する為、袁紹が画策したのが近隣の交州へ侵攻することであった。無論、そこで終わるつもりはない。さらには荊州などにも侵攻する腹積もりであった。そんな中に命じられたのが、今回の交州への反乱討伐である。袁紹にとってみれば、交州へ侵攻する大義名分を得たに等しいと言っていい事柄であった。
因みに将軍位であるが、今回の討伐に当たって新設された将軍位である。いわゆる雑号将軍であり、反乱を起こした区連を蛮族とみなしてのことである。これは交州が、漢の南部に当たることも関連していた。
ともあれ、反乱討伐と将軍位を手にした袁紹ではあったが、なぜかすぐには進軍しようとしなかったのである。それは、既に漢という国家から反旗を翻す決意した彼にしてみれば、袁一族の力は結集しておきたいと考えたからだ。それであるがゆえに袁紹は、汝南袁家の本拠地となる汝南郡へ落ち延びた袁術を呼び寄せることに決めたのである。彼は配下とすれば、名実ともに袁家当主と言って憚らないからだ。一方で袁術としても、今のままでは力を取り戻すのは難しい。よくて、適当な郡太守へ返り咲けるぐらいでしかない。
いや。
下手をすれば、隠棲して過ごす未来しかないかも知れないのである。袁術にとって、袁紹へ袁家の当主の地位を譲るのは癪であることに間違いはない。しかしながら、現状を打破する為には、袁紹の思惑に賛同して我慢するしかないのも事実である。ここに袁術も苦虫を纏めてかみつぶしたような表情を浮かべながら決意し、袁紹の旗下へ収まる決断をしたのだ。こうして晴れて汝南袁家の当主として名実ともに認められた袁紹は、内心では嬉々として翌年春から交州へ侵攻をする旨を通達したのであった。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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