第百六話~帰還~
第百六話~帰還~
光熹四年・初平三年(百九十二年)
董卓の勢力悉くを鎮定し、ついに司隷から争いを終わらせた劉逞。彼は、高邑へ戻ることにした。とは言うものの、兵を全て率いて戻るわけにもいかない。言うまでもなく司隷はまだまだ不安定であり、この様な状況下で軍事力の空白を作るわけにはいかないからだ。そこで劉逞は、引きいていた軍勢の半分を韓当に預け駐留させたのである。彼は劉逞の副将であり、また武将としても為政者としても相応に能力を持っているので、まだ治安が安定したとは言えない司隷を任せるには打ってつけの人物であった。
「義公、任せたぞ」
「はっ」
韓当からの返答を聞いて満足そうな笑みを浮かべた劉逞は、軍勢と共に長安から離れていく。そんな軍勢を見送った韓当だが、彼は司隷の治安をより回復しそして安定させるべく手を打っていくのであった。その一方で冀州への帰路に付いた劉逞はと言うと、高邑への帰還がてら孫堅と皇甫嵩へ面会していくことにしていた。順番としては長安から距離的に近い鄭に駐留している皇甫嵩が先であり、それから臨晋に駐屯している孫堅となる。劉逞は二人に会うと彼らの挙げた功績を手放しで褒め、そして必ずや劉弁へ伝える旨を約束する。同時に劉逞自身も、皇甫嵩と孫堅から董卓の首を挙げたことに対する賛辞を受けたのであった。
こうして二人との会合を済ませたあとで劉逞は、そのまま高邑へ向かわず洛陽へと足を伸ばしていた。彼が洛陽へ向かった理由、それは洛陽の復興具合を自身の目で確認する為である。曲がりなりにも洛陽から董卓を追い出したがゆえに劉逞は、劉弁から洛陽の復興を命じられていた。しかし前述した様に洛陽は、董卓の火付けが原因となって発生した大火事による焼失面積は大きい。炎の洗礼から逃れることができた建築物と合わせても、洛陽の半分も復興してはいなかったのだ。確かに洛陽の復興と言いつつも、主軸として進められているのは宮殿である。だが、町の復興をおざなりにして全く手を付けていないわけではなかった。しかしながら、ここで劉逞にある疑問が生じたのである。いかに大都市である洛陽を復興するにしても、時が掛かり過ぎているのではないかというものである。事実、劉逞が見聞した宮殿は無論のこと、町の復興も進捗が遅い様に思える。確かに洛陽は、時代的に見てかなりの大都市であることに間違いはない。それこそ、この時代における「世界有数の」と言っても憚らないぐらいの規模を誇っているだろう。だが、たとえそうであったとしても、遅れが目立つ様に感じてしまうのだ。
幾ら洛陽に程近い函谷関で董卓の軍勢と対峙していたとは言え、これほどの遅れがあるとどこか作為的なものを感じてしまう。その様な雰囲気を復興の現場を見たからこそ感じ取った劉逞は、自身の知恵袋たちに現状についての意見を尋ねることにした。特に、司隷の鎮定を前後として劉逞の家臣となった者たちの意見はぜひとも聞いてみたいと思っていたのである。何せ劉逞などと違って、彼らは洛陽において政務などに携わっていた者たちである。長安にいたのも、董卓が遷都したからに他ならないからであった。
「確かに遅れ気味だと聞いてはいたが……この現状をどう思うか、文和に元常」
その劉逞が問い掛けたのは、賈詡と鍾繇であった。
賈詡は嘗て樊稠と共に牛輔を破ったあとに勧誘したが、両名から断られている。もっとも勧誘を断った理由は、董卓に家族を殺される可能性が高かったからである。だから長安に入り董卓を捕らえたあとは、賈詡と樊稠の両名は劉逞からの勧誘を了承して劉逞の家臣となっていたのだ。そして鍾繇だが、彼は荀攸からの推挙である。そして推挙を受けて劉逞は、荀攸の推挙であるならば問題ないと家臣に迎えることに同意したのである。もっとも、手放しで迎え入れたというわけではない。鍾繇とは家臣に迎える前に会って話をしており、そののちに劉逞は、荀攸の推挙に間違いはなかったと確信したと伝えられていた。
「はっ。確定とは言いませぬが、密かに介入している者がいるかと思われます」
「我も文和殿に同意します。恐らくですが、着服なり賄賂なり私腹を肥やしている者がいるのではないかと愚考します」
劉逞から問われた賈詡と鍾繇は、僅かに間を空けたあとで同じ様な趣旨の答えを返していた。前述した様に劉逞も漠然としながらもその様な雰囲気を感じ取っていたこともあって、彼らの意見が腑に落ちてしまったのである。すると劉逞は、暫く考えるような仕草をする。その後、賈詡と鍾繇に対して調べる様にと命じた。
「よいな。徹底的に調べよ。その結果、たとえ相手が、我と同じ皇族であったとしてもだ」
『はっ』
つまり劉逞は、この一件を機に劉弁の周囲にいる者たちについても調べようと考えたのである。ある意味で董卓の遺言ともいえる劉弁の周囲に気を付けろという言葉を、実践したと言えるのかも知れない。ともあれ劉逞は、調査に対して打ってつけと言える趙燕を呼びだすと、賈詡と鍾繇の二人に補佐役を付ける様に命じる。すると趙燕は、自分の右腕である孫軽を付けることにしたのであった。
汚職というか賄賂の授受というか、ともあれ洛陽での視察を終えた劉逞は、いよいよ高邑へと戻ってきた。董卓に関する報告については既に行ってはいるものの、劉逞は改めて劉弁に報告することとなっていたのだ。しかしながら、流石にすぐと言うわけにはいかない。それに劉逞の一行には劉協が同行しており、まずは劉弁の元へ劉協を届けることが優先であったからだ。この兄弟は、董卓によって引き裂かれたと言っていい兄弟である。それだけに、数年ぶりの再会における喜びも大きいのだろう。彼らはお互いの無事を確かめるかの様に、抱き合っていた。その姿を見て感極まったのか、劉弁の傍にいる家臣からも嗚咽が漏れている。とは言うものの、流石に何名もいるわけではない。この場に居るのは、种払と种劭の親子。それから、荀彧と淳于瓊の四名であった。
「協よ。息災で、何よりだ」
「兄上こそ。ご無事な様で何よりにございます」
一頻り弟との再会の喜びを噛み締めていた劉弁であったが、劉逞に対しても労いの声を掛けていた。しかしながら劉逞は、劉弁へ頭を下げたあとで彼へある進言をしている。しかして劉逞が行った進言と言うのは、洛陽でのことであった。劉弁自身も漠然ではあったものの復興の進捗が遅いという旨は聞き及んで感じていたが、その様な物であろうとあまり気にも掛けていなかったのである。やはりどこかで洛陽は漢の首都であり、復興に時間が掛かるのも仕方がないという思い込みが存在していたのだ。しかし、劉逞が実際に見聞したことを知ってしまったあとでは、確かにおかしいと思える。最前線が近かったとはいえ、反董卓連合の解散から既に二年近く経っているのだ。それだけの年月が経過しておきながら、確かにその進捗状況はおかしいと思えてしまうのだ。
「そこで、一つ手立てを講じておきたいと思います」
ここで劉逞は、洛陽で賈詡と鍾繇に命じた件について劉弁へ伝える。皇族すらも調査の対象にと述べる劉逞の言葉に、劉弁は勿論だがこの場にいる种払と种劭と荀彧からも並々ならぬ決意を感じていた。
「常剛よ。そこまでするか」
「はい、陛下。これが平時であれば、まだ目溢しもあるかも知れませぬ。しかしながら今は、非常の時にございます。この様な時に自身の欲を優先させる者など、見逃すことなど出来ませぬ!」
董卓の母親の扱いを巡って不協和音が生じることを予見し、自らが全ての泥を被ることで皇帝である劉弁の名声が汚れない様にと動いた劉逞である。そして事実、劉逞は董卓の母親を自死させているのだ。勿論、劉弁からの許可など得てはいない状況で。その様な劉逞だけに、彼の言う言葉から並々ならぬものを感じてしまった。
因みに劉弁だが、劉逞が董卓の母親を自死に追い込んだことについて何も言うつもりはない。寧ろ内心では、よくやったとすら思っているのだ。
「……ふむ……いいだろう。やってみよ」
「はっ。つきましては、文若殿にも加わっていただきたいと考えております」
荀彧は、劉弁の側近の一人である。彼を加えることで、皇帝も洛陽の現状ついて気に掛けていたと説明することができる。何より荀彧は有能な士であり、彼を加えた方がいいだろうと考えたからだ。もっとも、荀彧も加えることを思いついたのは劉逞ではない。荀彧をこの件に加えることを進言したのは、これまた荀家の一族となる荀攸である。しかもその推薦には、劉逞から調べる様に命じられた二人のうちの一人である鍾繇も賛成していたのだ。
実は鍾繇だが、荀攸にも荀彧にも尊敬の念を持っている。彼自身、自らなど二人の足元にも及ばないと言いのけていたぐらいなのだ。その様な彼が、新たに荀彧が加わることに対して反対するわけがない。何より、荀彧を加える旨を言い出しているのは、自分を劉逞に推挙した荀攸である。その点だけ取っても、鍾繇に反対する理由などなかった。
「相分かった。文若、よいな」
「承知致しました」
こうして荀彧の参画も、決まったのであった。
劉逞が高邑に到着してから数日、家臣全員を集めた上での戦に対する報告がなされた。董卓を討つことは劉弁の悲願でもあるので、公式の場で改めて報告がなされたのである。
「これらが、董一族の首にございます」
董卓を筆頭に、成人していない者を含めてある程度の年齢を超えた男の首が幾つも桶に入った状態で置かれている。今さら疑う余地などないのだが、それでも確認だけはしないわけにはいかないからだ。とは言え、一々首の全て確認などしない。劉弁が自身の目で確認したのはただ一人、董卓の首だけであった。
「ついに、母の敵を討てたわ」
董卓の首を見たあと、声を震わせながら劉弁が漏らしたのはただ一言であった。しかしながらその言葉には、万感の思いが込められていたと言っていいだろう。自分のあずかり知らないところで母の命を奪われてから三年、漸く敵討ちを達成したことを鑑みれば当然と言えた。
「……常剛。大義であった」
「は」
「してそなたには、董卓を討ち董家を打ち破った褒美を与える。劉常剛、その方に丞相の位を与える」
「! ぎ、御意!!」
本来であれば漢の国において宰相を現す相国としたいところであったのだが、その地位には他でもない董卓がつい最近まで就いていた。そのこともあって、避けた形である。そもそも相国は、漢を起こした劉邦の筆頭功臣と言って憚らない蕭何と、蕭何の次に功があったとされる曹参の二人しか董卓が就任する前はその地位まで昇った者はいなかった地位なのだ。その為、彼等しか就任できないという一種の不文律と言うか暗黙の了解の様なものが存在していたのである。しかし董卓が強引にでも就任したことで、慣例は破られたと言っていい。それであるにも関わらず、相国ではなくいわば副宰相ともいえる丞相への就任となったのかというと、やはり董卓の持っていた印象が大きいからであると言える。ともあれこうして劉逞は、軍を統括する大将軍をも兼任し、政と軍を押さえる者となったのであった。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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