第百二話~司隷鎮定 三~
第百二話~司隷鎮定 三~
光熹四年・初平三年(百九十二年)
段煨を降伏させた皇甫嵩が合流した太史慈と共に長安へと向かってから暫くした頃、臨晋における攻防戦はいよいよ佳境を迎えていた。予想していなかった孫堅の動きに慌てて出陣した董越と、彼を完全に嵌めた孫堅が臨晋の郊外にて激突したからである。騙されたと言う思いもあってか、当初董越は遮二無二に孫堅を攻め立てていた。するとその勢いに押されたのか、孫堅の軍勢がじりじりと後方へ下がり始めたのである。このことを知った董越は、今が攻め時だと判断して全軍による総攻撃を命じた。その命に従い、董越の将兵はより強く押し出していく。その勢いに抗しきれず、さらに孫堅の軍勢が押されていく。ここまでくれば、彼らの目には勝利の二文字しか映らなくなる。董越以下の将兵は、より強行に軍勢を押し出したのだ。これが、周異の講じた策により起こされた事態であるとも知らずに。
さて、周異が孫堅へ進言した策、それは敵を引き込むだけ引き込んだ上でしかるのちに伏兵などによる反撃にて痛撃を与えるというものであった。その為に孫堅は、董越に対して反撃に出たくなってしまう自身を必死に抑え込んでいたのである。彼からすれば董越の攻撃など、稚拙の一言に過ぎるからだった。
「苛立ちが溜まる」
「もう少しの辛抱にございます」
思わず愚痴を漏らした孫堅に対して、周異が言葉を返した。確かに孫堅も了承した策ではあるが、それでも演技とは言え負け続けることは、思った以上に孫堅に負担を強いていたのである。それでも彼は、苛立ちに任せてむやみやたらに飛び出したりもせず、周異の策通り、不自然に見えないように気を付けながら少しずつ後退を続けていたのだ。そしていよいよ、周異が事前に想定した地点を越える。すると次の瞬間、徐晃が率いる伏兵が鬨の声をあげたのであった。
唐突に上がった鬨の声に董越の軍勢の動きが、僅かの間だけだが乱れを生じてしまう。すると孫堅は今まで後退していたとは思えない素早く味方を集めると、乱れた敵軍へ目掛けて反転攻勢に打って出たのだ。そこに、取って返してきた祖茂による攻勢を受けてしまう。しかしてその攻勢は、董越にとって実に嫌な時節であった、それはちょうど、軍勢を立て直しかけた直後だったからである。これで耐えることができると希望が生まれ掛けた正にその時であり、それだけに仇となり混乱の度合いが深まってしまったのだ。しかもその時、追い打ちをかける様に孫堅の命を受けた黄蓋からの一撃が止めとばかりに差し込まれてしまう。この度重なる攻勢と味方の混乱によって、ついに士気の崩壊が始まってしまった。もはや軍勢として維持することは難しくなってしまったばかりか、逃げ出す者や敵味方構わずに攻撃を仕掛ける者まで出てきてしまったのである。つい先ほどまで優勢であった軍の姿など、もうそこにはない。董越以下、彼らは討たれないように動きながら臨晋へ戻るしか生き残る手立てはなかった。
「ひけー!」
一応でも軍勢の総大将である董越は、全軍撤退の掛け声を一言だけ上げると臨晋へと戻っていく。その様に引き始めた敵勢を追って、孫堅旗下の兵が追撃を仕掛ける。その為に被害が大きくなったが、その被害があったからこそは臨晋まで引くことができたのだった。
命からがら臨晋へと引いた董越は、籠城の構えを見せる。そして孫堅はと言うと、関羽や徐晃と共に臨晋を取り囲んでいた。するとそこに、劉逞から命を受けた張郃が軍勢と共に現れる。彼は孫堅や関羽や徐晃の軍勢と合流すると、臨晋包囲の一角を務めることになったのだった。
「……これは一体、どういうことか……」
わずか数日前までは、戦力にさほどの差がなかった。しかし一戦。
そう。
ただ一戦に敗れただけで、これほどまでに戦力差が出るとは思いもよらなかった。まるで、図ったかのような時期に現れた敵の増援。この増援が、決定的だったと言えるだろう。先の負け戦に寄る兵の削減と敵の増援によって、籠城戦の維持すらも難しくなってしまったのだ。こうなれば、自身も援軍を募る必要がある。とは言うものの、近郊にそれだけの軍勢が存在していないことも事実だ。いや。正確に言えば一つだけある。それは言うまでもなく、段煨が率いている軍勢である。しかしながら、彼らに援軍を頼むのは難しい。その理由は、董越の元にも函谷関から皇甫嵩が出陣したとの情報が届けられていたからだ。
「いかな忠明殿とて、相手はあの皇甫嵩。こちらに兵を割ける余裕など、まずあるまいて」
もしかしたら既に勝ちを収めており、僅かに援軍が来訪する可能性があるのかも知れないが、現状においてそのような不確実な事態に頼ることなどできはしない。そうなると彼が取れる選択肢としては長安に、具体的には董卓へ援軍を頼むしかなかった。間違いなく董卓から不興を買うこととなるだろうが、それでも臨晋を攻め落とされるよりはましである。董越はすぐに密使を複数立てると、長安に向けて放ったのだった。しかし彼ら密使が、董卓の元まで辿り着くことはなかったのである。それは大抵の密使が、孫堅や張郃の囲みを抜けられなかったからだ。それでも例外的に囲みを突破できた者もいるにはいたのだが、彼もまた長安へ辿り着くことができなかったのである。あろうことか、皇甫嵩が差し向けた公孫瓚と徐栄と遭遇してしまったからだ。当然の様に密使は捕らえられてしまい、逆に臨晋の状況を彼らに提供することとなってしまう。当然、公孫瓚と徐栄は進軍を早めることとなり、彼らもまた臨晋の包囲に加わることとなったのであった。つまり 援軍を求めた結果、敵が増えたという董越にとって理解しがたい事態が発生したのである。これによって臨晋では、ある重大な事案が巻き起こることとなってしまった。果たしてその事案とは、士気の急落である。だが、それも当然であろう。救援の密使を仕立てたにもかかわらず、いまだ持って味方が臨晋へ来訪する様子などが全くないのだ。この事態に臨んで味方の士気を保てるのであれば、それこそ当代屈指の名将であろう。しかし董越は、名将というほどの力量は持ち合わせていない。その様な彼に、この様な状況で味方の士気を保てるわけがなかったのだ。有効な手を打てないまま士気は落ちるところまで落ち、もはや手の施しようがない。もはや敵から何か一手でも齎されれば、それがいかなる規模の物であろうとも、崩壊することは誰の目にも明らかであった。
「もはや、どうにもならぬというのか……だが、しかし……」
しかしながら、ただ一人だけ事態を理解しないばかりか把握していない男がいる。それは他でもない、董越であった。
いや。
もしかしたら理解はしているが、受け入れられないだけなのか知れない。遠縁とはいえ董家の一族である彼であり、ここで負けるということは、捕らえられるばかりか命すらも取られかねないからだ。追い込まれている彼は、その様な考えに捕らわれていたのだ。しかし、周りからすれば迷惑以外の何物でもない。何より、董越の勝手な思い込みに巻き込まれてしまってはたまらない。その様なことなど、まっぴらご免であった。
「な、何をするか!」
「降伏する。その手土産といったところか」
「馬鹿なことを! 許されると思うているのか」
「あなたと違うから、問題はないだろう」
確かに遠縁であろうとも董家の一族である董越とでは、扱いが違うことになることは間違いない。その点で言えば、的外れな考えではなかった。それは董越も、理解している。だからこそ彼は、この様な事態になったにも関わらず降伏を躊躇っていたのだ。
「待て! 援軍さえくれば、勝てるのだぞ」
「今さらだ。援軍どころか、敵が増えただけだ」
「ぐぅ……」
事実の前には、董越の言葉も力を持たない。それどころか彼は、二の句を告げないでいる。もはや董越には、自身を取り囲んでいる元味方を睨みつけることしかできないでいた。そんな董越に対して、無情にも捕らえる様にと告げる。間もなく彼は、捕縛されてしまう。ここに臨晋へ籠った兵は降伏し、臨晋は孫堅らの手に落ちたのであった。
明けて翌日、臨晋へと入った孫堅は、即座に掌握に動く。首尾よく臨晋を押さえた孫堅だが、彼も皇甫嵩と同様に周囲の治安を安定させるべく臨晋に残ると、与力となる関羽や徐晃を派遣している。そしてこれまた皇甫嵩と同様に、彼は援軍であった張郃に報告を託していたのである。
「常剛様へよしなに頼む」
「お任せあれ文台殿」
張郃はそう孫堅に答えると、踵を返して出ていく。彼が視界から消えるまで見送ったあと、孫堅は公孫瓚と徐栄に対して労いと礼の言葉を掛けていた。張郃の援軍だけでも充分であったと思っているが、だからといって皇甫嵩の配慮が迷惑というわけではない。それに何より、公孫瓚と徐栄と兵力も、勝利には貢献しているのだ。だが流石に、まだその点については把握してはいないが。
「義真殿へ我が感謝していたとお伝えくだされ」
「承知しました」
ここに公孫瓚と徐栄も、臨晋から皇甫嵩がいる鄭へと軍勢を率いて向かったのであった。
長安を押さえ、函谷関と臨晋を鎮定したことで、残る戦線はあと一つとなった。即ち、郭汜と李傕と李粛が派遣された北方である。劉逞の司隷侵攻と合わせる形で侵攻した於夫羅であるが、その侵攻は嫌がらせ程度では済まなかった。今まであれば、国境近くを荒らしながら略奪し、郭汜と李傕と李粛の何れかが率いている迎撃の軍勢が現地へ到着する前に引くということを繰り返していた。しかしながら今回に限って言えば本格的であり、それだけに迎撃に出た李傕は面を食らってしまう。だが、彼とて董卓配下の将として幾つもの戦を経験してきた猛者である。すぐに気持ちを立て直すと、撃退するべく攻撃を仕掛けていた。しかしながら、今回に限って言えば悪手であったと言えるだろう。それは、戦場の地形にあった。前述した様に於夫羅による本格的な侵攻であり、当然ながら彼らは自分たちにとって有利な場所を選んでいたのである。於夫羅が、侵攻する際に選んだ地形は草原であった。遊牧民族である匈奴の兵は、それこそ手足を操るがごとく馬を乗りこなす。そんな生粋の騎馬武者である彼らが、自分たちの技能を最大限に発揮できる戦場として草原を選んでの進軍である。たとえ猛将の李傕と言え、場所と相手が悪かった。それこそ縦横無尽に戦場を駆け回り、李傕の兵を翻弄しながら損害を与えて来るのだから堪らない。時間の経過とともに、どんどん押されていった。
「このままでは、味方の被害が増えるだけになりかねぬな……ひけー」
いたずらに味方の被害を増やすのは得策ではないと判断した李傕は、軍の態勢を立て直す為に後方へ下がる決断をする。当然ながら追撃をする於夫羅であるが、思いもよらない巧みな用兵を見せつけられる結果となってしまった。とは言え、敗戦自体は違いない李傕であり、彼もまた相応の損害を被りながら撤退したのである。やがて城へと辿り着くと、籠城しつつ郭汜と李粛へ援軍の要請を行う。しかしながら、その願いが叶うことはなかったのであった。
果たして李傕が頼みとした郭汜と李粛であるが、彼らもまた戦端を開いていたのである。彼らが相対しているのは、劉逞が送り出した呂布が率いる軍勢であった。その軍勢で大将を務めるのは言うまでもなく呂布なのであるが、彼は軍勢を率いていない。何と呂布は、軍勢の軍権を高順に預けていたのである。そして自身はというと、張遼と共に魏越や成廉などを引き連れて突撃していた。名声こそ劉逞に落ちるとはいえ、その強さは劉逞の軍勢で一位となる呂布である。彼はその力を十分に発揮して、前線で暴れ回っていたのだ。
「……ば、ばけもの……化け物だー!!」
郭汜と李粛の兵は、味方などものともせずに暴れ回る呂布たちへ、畏怖どころか相対する恐怖を受け付けられついには耐えきれなくなる。恐れながら逃走を図るも、そう簡単に逃げられるならばそもそもそこまで追い詰められはしなかっただろう。逃走を図ったものは勿論、相対する者も討たれていき、次々と屍を戦場に晒していくことになる。その事実がさらなる恐怖を呼び込むこととなり、郭汜と李粛が率いる旗下の兵はもはや軍としての体を成していなかった。
「このままでは、全滅しかねん……なれば、撤収するしかない!」
このまま戦場に留まれば命はないと考えた郭汜は、撤収と言う名の逃走を図る決断をする。だがしかし、その決断は少し遅きに失していたと言えるだろう。馬首を返し逃げ様とした郭汜であったが、その前に立ちはだかられてしまったのであった。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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