第十話~冀州黄巾賊最終戦 一~
第十話~冀州黄巾賊最終戦 一~
中平元年(百八十四年)
広宗で戦後処理を行っていた劉逞であったが、その仕事も大体終わりを見せていた。今後については、鉅鹿郡太守となる郭典へ任せればいいだけである。そんな劉逞の元に、趙燕から張宝に関する情報が入ってきたのだ。
その情報によれば、広宗を辛くも脱出した張宝は、北上し博陵郡へと入っている。しかも張宝は、辺りの山賊を複数率いていた張牛角を味方に引き入れているのである。彼はその兵力を頼りにして、反撃の狼煙を上げたのであった。
まさかの再起であり、これには劉逞も驚く。逃げた張宝の討伐ぐらいだと考えていただけに、その思いは一入であった。しかしてこれは、朝廷も同じである。ゆえに彼らも、この事態に対して何とかしようと思案を巡らせる。そこで思い至ったのが、皇甫嵩を冀州へ再度派遣することであった。
豫州に赴き同僚の朱儁の救出に成功した皇甫嵩が、曹操と孫堅という援軍を得て波才の籠る陽翟を取り囲んだと言うのは前述した通りである。その陽翟に籠った波才であるが、皇甫嵩と彼に救出された朱儁による巧みな攻勢にあい、いよいよ籠城し続けることが難しくなっていた。それでも陽翟の陥落だけは免れていた当たり、非凡な才の持ち主と言えるだろう。しかしながら、漢の軍勢に王允が率いる軍勢が合流したことで、いかな波才と言えもう持ち堪えることができなくなってしまった。情勢の不利を悟った波才は、ついに陽翟を捨てる決断をする。みかたからの損害を出しながらも陽翟からの脱出を成功させると、汝南郡へと落ち延びたのである。そこで波才は、汝南郡の西華にて勢力を誇っていた同じ黄巾賊の彭脱に合流したのであった。
当然ながら皇甫嵩らは、逃げた波才を追い掛けて汝南郡へと進軍する。ここに、皇甫嵩と朱儁と王允と曹操と孫堅が率いる漢の軍勢対波才と彭脱率いる黄巾賊による一大決戦が行われたのであった。
これは兵数もあってかなりの大戦となったが、今回に限って言えば黄巾賊は相手が悪かったと言えるだろう。皇甫嵩と朱儁というだけでも十分手強いにも関わらず、そこに曹操に孫堅。あと一応、王允までもが加わったのである。幾ら波才が黄巾賊でも屈指の将であったとしても、これだけの相手を向こうに回しては手が足りなくなる。彭脱も決して愚将というわけではなかったが、先に挙げた将が率いる軍勢を相手にするにはいささか技量が足らなかった。
但し、兵数だけで言えば黄巾賊の方が上である。その為、最初のうちは兵数の利もあってほぼ互角と言ってよかった。しかし皇甫嵩たちは上手く黄巾賊を誘導し、少しずつ分断していった。いわば、各個撃破のような状況に陥らせたのである。今まで黄巾賊は、全体の兵数で優越しているという利点を最大限に活かして対漢の軍に抗していた。それだけに、その前提が崩れてしまうと手が打てなくなってしまう。黄巾賊は次々と漢軍によって打ち破られていき、彭脱は孫堅によって波才は曹操によってそれぞれ討ち取られてしまったのであった。
ちょうど、劉逞が張角と張梁の首を挙げた直後である。そして命を受けた趙燕が、張宝の行方を必死に探していた時期でもあった。
話を冀州へ戻す。
この張牛角だが、実のところよく分かっていない人物である。彼は博陵郡に存在している山賊の元締めという立場にあり、彼らへ相当の影響力を持っていたのは事実である。だが明白なのはそれぐらいであり、出身地すらも定かではない。ゆえにどうやって張宝が、彼らを引き入れたのかも判別としていなかった。
彼が張宝へと味方した理由は兎も角として、張宝が力を持ち再起したのは事実である。それゆえ朝廷は、これ以上の長期化を嫌って一気に決着をつけるべく皇甫嵩に命が下ったというわけであった。
ここに皇甫嵩は再度、冀州における黄巾等討伐の総大将としての役目が与えられることになる。同時に彼に対して、豫州討伐の尽力に答える形で左車騎将軍の地位が与えられたのであった。
だが現在、冀州における総大将は劉逞が担っている。だからといって、朝廷からの命に逆らうわけにもいかない。無論、彼や彼の家臣たちにも不満はある。確かに張宝を逃したのは失態だが、代わりに黄巾の乱を起こした張角ともう一人の弟である張梁を打っており、両者の首を取り洛陽へ届けているのだ。
これは、形としてだけみれば降格人事といえる。だが、致し方ない側面もあった。冀州へ派遣されてくることとなる皇甫嵩は、左車騎将軍の地位にある。幾ら皇族とはいえ、校尉でしかない劉逞を上位将軍である左車騎将軍となった皇甫嵩の代わりに総大将とするわけにはいかないからだ。
何はともあれ、左車騎将軍位に着いた皇甫嵩が改めて冀州へ派遣されることとなったのであった。
因みに朱儁であるが、彼には南陽郡への派兵が命じられている。朱儁は孫堅と共に宛城に籠っている黄巾賊を討つべく、荊州刺史に就任している徐璆と協力して相対することになっているのであった。
朝廷からの命を受けた皇甫嵩は、駐屯していた西華から北上して兗州を抜けると冀州の広宗へと直行している。そこで彼の軍勢は、劉逞の出迎えを受けていた。劉逞と皇甫嵩が過去に直接会ったのは、皇甫嵩が広宗より離れるただ一回だけである。とはいえ、僅か数か月前の話しかない。流石に、お互いの顔を忘れる筈もなかった。
その上、皇甫嵩自身は漢の重臣としても有名であり今さらどうこう言う必要はない人物である。しかし、曹操はその限りではない。何せ、劉逞も曹操も初対面であるからだ。
もっとも、今まで全く出会う機会がなかったとは言わない。特に劉逞は、旅の空にあった際、洛陽にまで出向いたことがある。その頃に曹操は、議郎として洛陽いたので、面会を申し込めば会えたかもしれないのだ。しかしながら、当時はお互いに面識すらもない。だから劉逞にも曹操にも取り分けて会う理由などもなく、わざわざ面会する機会などを求めなかった。だが今は、同じ軍に所属している。それゆえ、お互いを紹介するのは当然の仕儀であるといえた。
「我は、曹孟徳と申します。左車騎将軍隷下、騎都尉として所属しております」
「丁寧な挨拶、痛み入る。我は、劉常剛と申す」
「騎都尉に続き千人督校尉へのご出世、将軍より伺っております」
「それは、家臣のお陰である」
曹操からの言葉に劉逞は、そう返答したのであった。
劉逞と曹操だが、実は曹操の方が年上である。しかし劉逞は校尉であり、都尉の曹操より上位の官職となる。それゆえ、年上の曹操が年下の劉逞に対して礼を以て対応しているのだ。
しかしてこの校尉と都尉の関係だが、必ず校尉が上になるとは限らない。逆に校尉の方が、都尉の下にくることもあるのだ。しかし劉逞と曹操の場合で見れば、その限りではない。しかも皇族ということもあって、間違いなく劉逞の方が上位であった。
「さて、その辺でよかろう。常剛様」
「これは、申し訳ない将軍。では、こちらへ」
その後、劉逞が自ら案内して二人を含めた将を天幕へと連れていく。そこで、ささやかながらも宴席で持て成していた。実はこれも、盧植からの進言により用意したものである。気付けなかった劉逞も、まだまだ人付き合いという点では学ぶことが多いという証明であった。
明けて翌日、主だった者を集めた軍議が開かれる。そこで劉逞は張宝と張牛角、そして彼らが率いる兵について判明していること全てを余すことなく開示している。するとその情報を聞いた曹操は、驚きを現していた。
兵法書である孫子でも、用間篇にて情報の重要性を説いている。そして曹操も、その考えには同意していた。だが、自分以外にも情報の重要性をここまで意識している人物がいたとは思ってもみなかったのである。とはいえ、劉逞が初めから情報について重要視していたわけではない。これは正に盧植の、師からの教えの賜物であった。
一方で皇甫嵩だが、特に不満は見えない。元々、皇甫嵩がまだ冀州で軍を率いていた頃でも、劉逞から情報は送られていたからだ。その彼から齎される情報だが、かなり正鵠を得ていたのである。だから今回についても、間違っているとは思っていないのだ。
それに皇甫嵩も、手の者を使って敵について調べさせている。そこから得られた情報と比肩しても、殆ど違いはない。寧ろ、劉逞の開示した情報の方が上であった。
「たいしたものよ」
「これも、師の教えのお陰ゆえ」
「流石は子幹殿よ。のう」
皇甫嵩から手放しで褒められた盧植だが、彼は頭を下げるだけであった。
果たして軍議の結果であるが、進軍して博陵郡にて黄巾賊を討ちそこで決着をつけることで合意を見ている。博陵郡にて蜂起した彼らは、冀州に残ったいわば最後の黄巾賊一大勢力である。小さいものならまだ幾つか存在しているが、それぐらいならば冀州各郡の太守でも対応できる。そして豫州は皇甫嵩や朱儁らの尽力によって鎮定されているので、あとはこの冀州の黄巾賊と南陽郡の宛に籠っている黄巾賊を撃破できれば、蜂起した黄巾賊の勢力はかなり激減することになる。それだけに、負けは許されないとも言えた。
「では、進軍!」
軍議から数日後、いよいよ進軍が開始された。彼らは冀州黄巾賊と雌雄を決するべく、広宗から博陵郡に向けて出陣したのである。やがて彼らは博陵郡へと到着したが、そこですぐに攻めることはしなかった。先も述べたように、負けることなど許されない戦である。それだけに、慎重に慎重を重ねていたのだ。
それを証明するように皇甫嵩は、少しでも勝率を上げる為に徹底的ともいえるぐらい念入りに周辺調査を改めて行ったの。その結果、彼は苦虫を纏めて噛み潰したかのような表情を浮かべることになってしまう。その理由は、言うまでもなく張宝や張牛角が籠る地形にあった。
張牛角は、そもそもからして山賊である。しかも拠点を置いているのは、彼らの庭とも言える山域なのだ。ここに迂闊に攻め込めば、手酷い反撃を受けるのは確実である。とはいえ、攻めないという選択肢もあり得ない。そこで皇甫嵩は、まず一当てして様子を見ることにした。
いわば、威力偵察に当たるだろう。しかしこれは、地の利が敵にあることをまざまざと見せつけられることとなった。皇甫嵩から、決して弱くはない部隊にこの任務を与えていたのだが、得られた結果は無残な負け戦である。部隊を率いた将が討たれるといった事態にはならなかったものの、威力偵察として出した部隊の半数近くが討たれてしまったのだ。この尋常ならざる実情に、皇甫嵩は本格的に腰を据えることとなる。決して侮れない相手だとして、覚悟して当たる決断をしたのだ。
そもそも皇甫嵩は、年内に冀州の黄巾賊主力を撃滅するつもりでいたの。しかし、現実はそうとはならない。実質の大将である張牛角が頑強に抵抗したこともあり、年が変わっても撃破にまでは至っていなかったのである。それでも幾らかは敵を討ちある程度は戦功を上げていたが、まだまだ侮れない数を敵は有していたのだ。
このように中々思うような戦果を挙げられない理由は、地の利もさることながら敵の戦い方がある。張牛角は戦場が自身の庭であるという点を生かし、皇甫嵩率いる漢軍に対して不正規戦を挑んでいたのだ。要は、山域を利用したゲリラ戦である。このような戦など、いかに歴戦の将である皇甫嵩であっても経験は乏しい。それだけに、有効な対抗策を打てずにいたのだ。
これは皇甫嵩だけでなく、曹操などほかの将であっても同じである。彼らも、手を拱いていたのだ。その中にあって、劉逞だけは少し違っている。勿論、彼も思うようにいかない戦況に対して、苛立ちを覚えているのは他の将と同じである。しかし同時に劉逞は、このような戦い方もあるのかと敵から学んでいたのだ。
それはそれとして、いつまでもこのままというわけにもいかないのもまた事実である。それにこのままてこずっていると、洛陽にいる十常侍が何を言いだすか分からないのだ。実際、洛陽ではそういった雰囲気が伝えられているのである。しかし、ことは遠い洛陽でのことであり、冀州にいる皇甫嵩たちではどうしようもない。それだけに歯痒くもあったが、手の打ちようがなかった。
「どうする、子幹。このままだと彼奴らが、何を言いだすか分からぬぞ。何か手はないか?」
「ない……わけではありません。ですが、将軍が受け入れるかは分かりません」
「あるのか! ならば教えてくれ!!」
「分かりました」
その後、盧植は劉逞へ策を伝える。その内容は確かに皇甫嵩が、いや皇甫嵩だけでなく他の者も受け入れるかは分からないような策であった。しかもこの策は、朝廷も巻き込むことを前提としている。その点だけでも、受け入れてくれるかが分からない。しかしながら、成功するかについては別にして、膠着状態とも言える現状を一気に動かせることが可能な策でもあった。
盧植の策を黙って聞いていた劉逞であったが、聞き終えても腕を組んで瞑目し続けている。それは吟味しているとも、考え込んでいるとも取れる仕草であった。やがて閉じていた目を開くと、劉逞は立ち上がって天幕より出て行く。そのあとを、慌てて盧植や趙雲や夏侯蘭などが追い掛けたのだった。
「常剛様。いかがされますのか」
「子幹。我は、将軍のもとに向かう」
「では」
「ああ。その方が齎した策を、将軍に進言する。さすれば、現状を打破することができるかも知れない。ただ内容が内容だけに、採用されるかは分からないが」
そう盧植へ答えたあと劉逞は、皇甫嵩の元へと移動したのであった。
連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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ご一読いただき、ありがとうございました。