第一話~誕生~
第一話~誕生~
中国古代王朝、漢。
その漢において、常山の王号を擁する劉氏の屋敷では、元気な赤子の産声が響き渡った。すると間もなく、一人の男が妻と赤子がいる部屋へと入ってくる。彼こそが、のちに常山王となる劉暠である。彼はそのまま、赤子を生み落とした女性と生み落とされた赤子の元に早歩きで歩み寄ってきた。
「でかした! よくぞ嫡子を生んでくれた。流石、我が妻である!!」
「はい……ところで、名はもう決めてあるのですか?」
「幼名は阿紿だ!」
阿紿の阿は愛称のような物で、親しみを込めた呼び名である。そして紿だが、意味としては欺くとか偽るというような意味合いがあった。何ゆえにこのような名をつけたのか。それは古代中国において、よき名を持つ子には悪霊が憑くなどと信じられていたからである。そこで、意味が良くない言葉を当てることで、子供に不幸が降り掛からないようにするという意図があったのだ。
ふと目をやると劉暠の正室は、女性としての大戦を終わらせた疲れもあって眠りについている。そんな妻を労わりの目で見つつ、劉暠は生まれたばかりの我が子を抱いていたのである。時は延熹七年(百六十四年)。こうして冀州常山国に生まれた阿紿は、両親より愛情を受けてすくすくと成長したのであった。
阿紿の父親となる劉暠は、息子の育成の為に皇族であるという身分を最大限に利用した。そもそも常山王は、王莽によって簒奪された漢を再興した光武帝の第四子で二代目皇帝となった明帝直系の子孫となる。彼の子供の一人、劉昞が常山王となり、以降は彼の子孫が常山王であったのだ。
劉嵩が息子の師となる人物として招聘するべく人を派遣したのが、盧植である。彼はその時代に名の知れた儒学者であった馬融の高弟として、そして本人も剛毅で節度ある人物として人望があった。その人となりから様々な人物から仕官の誘いは多くあったが、頑なに固辞していたのである。無論、劉嵩からの招聘も固辞していた。しかしそれでも劉暠は諦めず、息子の為と考えて誘いを掛け続けたのである。これにはさしもの盧植もついに折れ、要請に応じたのである。
これが建寧五年(百七十二年)春のことであった。
また、時は少し前後するが、劉暠は武の師として一人の男を招聘している。実は常山国内に、武人として名を馳せていた人物がいたのだ。彼の名は趙伯といい、槍の名手として常山国内でも知られた武人であった。彼は誰にも仕えず今まで過ごしてきたのだが、劉暠より自分の長男の師となって欲しいとの招聘を受けると応じている。無論、これには理由があった。
それというのも、彼には招聘があった時点で既に二人の男児を得ていたからである。子供が一人であればまだしも、流石に二人となると生活の維持が中々に難しくなっていた。そこでどうにかしなければと考えていた矢先、劉暠からの招聘があったというわけである。すると趙伯はこれ幸いにと招聘に応じ、彼は武術指南役として常山王に仕えることになったのであった。
その趙伯だが、弟子となる阿紿に二人の息子を紹介している。すると阿紿は、年齢が近い趙伯の次男と気があったようですぐに意気投合していた。だがこれは、別に長男を嫌ったわけではない。趙伯の長男はこの時点で既に数えで十五才を越えていたことから、流石に遊び友達とは認識できなかったのである。しかしながら、年の離れた兄ぐらいには感じたようであった。
こうして阿紿は幼馴染と共に、盧植と趙伯の教えを受けることになる。二人は劉暠の息子だからと言って特別視することなく、厳しく指導していた。劉暠も彼らに任せたという手前もあって特に口出しするようなことはしなかったので、阿紿は盧植と趙伯らの弟子と共に師からの教えを学んでいた。
因みにこの間、阿紿はもう一人の幼馴染とも呼ぶべき男子とも出会っている。それは誰かと言うと、趙伯に弟子入りした一人の男子であった。やはり年齢が阿紿に近いということもあり、彼はその幼い弟子を劉暠へと紹介している。その男児が名門となる夏侯姓ということもあって、劉嵩は一粒種である息子の傍にあることを了承したのだった。
師の方針もあって劉氏の一族と言う割には市井に慣れ親しみながら、阿紿は成長する。やがて阿紿は少し早いが成人して、劉逞常剛と名乗るようになったのである。とはいえ、何ゆえに早めの成人を向かえたのか。それは、彼が師である二人、即ち盧植と趙伯を伴って父親へある提案をしていた為であった。
「……今一度、言ってみなさい」
「父上。我は諸州を周遊して、見聞を広めたい」
「まさか! 一人でいくのか!?」
「いえ。子龍と、衛統も一緒です」
子龍とは幼馴染みの一人であり、名を趙雲子龍と言う。そして衛統とはもう一人の幼馴染であり、名を夏侯蘭衛統といった。年齢としては劉逞と趙雲が同年齢となり、夏侯蘭は一つ年下となる。前述の通り成人前の頃よりの仲であり、兄弟同然に育った間柄であった。
「子幹(盧植)に勲圭(趙伯)よ。そなたらも、賛同しているのか?」
「はい。若いうちに、世間の厳しさを教えておきたく存じます。無論、我も共に参ります」
劉嵩の問いに対して答えた盧植の隣で、趙伯もまた頷いていた。
「…………わかった。息子は、そなたらに任せたのだ。だが、行くのならば勲圭。そなたのもう一人の息子、飛膺も同行させよ。それが条件だ」
飛膺とは、趙伯の長男となる趙翊のことであった。
だが、劉嵩がなぜにもう一人、同行者を増やしたのか。それは勿論、息子を心配してであった。息子に武術を教えた趙伯に関しては、心配していない。しかし盧植は、そうとは言えなかった。盧植は実質、文武両道と言えるのだが、武人としてみた場合は明らかに趙伯の方が上となる。つまり個人の武は、趙伯の方が上なのだ。
ただ、これはあくまで武人としてみた場合でしかない。仮に兵を率いて戦うという条件ならば、二人の関係は全くの逆となる。軍勢を率いて戦うのであれば、盧植の方が遥かに上であるのだ。盧植も、その点は十分認識している。だからこそ彼は、劉嵩からの提案を受け入れていたのであった。
可愛い子には旅をさせろというわけでもないのだろうが、劉逞は遊学とも修行とも取れる旅の許可を父親から得ることに成功する。だがまだ若いこともあり、少なくとも武の師である趙伯からお墨付きを得るまでは待たされることとなった。
だが、その思いは確かなものであったのだろう。それから二年後、劉逞は趙伯から認可されたのである。なおこの時、二人の幼馴染も認可を得ていた。その証なのか、それとも記念なのかは分からない。だが、劉逞と趙雲と夏侯蘭は、劉嵩から武器を与えられている。劉逞は十文字槍を、そして趙雲は涯角槍を、最後に夏候蘭は鷹頭刀を与えられていた。
その後、劉逞は父親に宣言した通り二人の幼馴染みと劉嵩が付けた幾許かの供と共に常山国より旅立ったのであった。
なおこの旅の間に劉逞一行が訪れたのは、かなりのものである。地元となる冀州を皮切りして青洲へ向かい、そこから徐州に続いて兗州、そして豫州の西部から司隷東部(洛陽周辺地域)へと入っている。さらにそこから并州とむかうという、実に広範囲に渡っていたのであった。
さらに付け加えるとすれば、この旅で巡った各地で友誼を結んだ者たちと知り合いになったことは、のちに劉逞に取りありがたいこととなったのである。
因みにこの旅だが、移動した範囲が広いこともあって相応に年月も長くなる。実に数年に渡り漢の各州を旅した劉逞たちは、ついに光和六年(百八十三年)になって旅を終えて常山国へ帰還したのであった。
新連載、始めました。
古代中国、漢後期からの歴史ものとなります。
連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」も併せてよろしくお願いします。
ご一読いただき、ありがとうございました。
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