銀杏
目が眩むほどの鮮やかな黄色を、今でも私は覚えている。
大きな手が、私の手を優しく包み込む。私はその風景に圧倒され、目を輝かせながら、その手から離れ、イチョウの葉が舞い散る並木道を駆け出していった。
私を呼ぶ声―――。
その声で振り返ると、そこには優しい笑顔を浮かべた祖父の姿があった。
「杏奈、起きなさい!」
「あと少しだけー」
「それ、何回目だと思ってんの!」
「一回目」
「五回目よっ!いい加減起きなさい!」
いつもと同じ日常が始まる。母に無理矢理掛け布団をはがされ、急に寒さを感じた私は、猫みたいに丸まった。九月も終わり、もうすぐ十月入る。つい最近まで、あんなに暑かったのになぁ。低血圧で寝起きの悪い私は、布団の上でまどろみながら、そんなことを思っていた。ぼんやりとしながら、ふと時計に目を遣った瞬間、一気に目が覚めた。
「いやーーーーーーーー!」
悲鳴が家中に轟く。私は驚異的なスピードで着替えをすますと、階下へと続く階段を乱暴に降りた。無論、これもいつもの日常。居間に行くと、テーブルには、すでに朝食が用意されており、父は新聞の次のページをめくりながら「おはよう」と言った。がっつくようにご飯と味噌汁をかき込み、焼き魚の身を頬張ったところで、ようやく気付いた。いつもと違う日常の一欠片に。
焼き魚の傍に、茶碗蒸しがあった。
出勤する時間が迫ってるのにも関わらず、時間を忘れて、その茶碗蒸しをじっと見つめ、スプーンで中身を掻き回した。視線がつと、仏間の方へといく。
仏壇に飾られた遺影、今は亡き祖父が、あの時と変わらない笑顔で微笑んでいた。
(もう十五年、か)
私は、そっと目を伏せて、銀杏の入ってない茶碗蒸しを食べ始めた。
その茶碗蒸しは、どこか物足りなく感じたのは、もう大人になったからだろうか。それとも―――。
窓越しに見える縁側には、もうあの姿はない。
「おじーちゃん。銀杏食べてー。杏奈、いらない」
そう言って私は茶碗蒸しの中から、銀杏だけを取り出し、祖父の茶碗蒸しにぽとっと落とした。祖父は、そんな孫を愛しそうに見て、相好を崩した。
「杏奈。こんなに美味しい物、嫌いなのかぁ?」
「うん。だって苦いし、なんか変な味がするでしょ」
口を尖がらせ、小さな舌を出す。私は、小さい頃から偏食が激しかった。
あれ嫌い、これ嫌い。よく、母を困らせていたっけ。
「こら、杏奈。好き嫌いしないで、ちゃんと食べなさい!また、おじいちゃんのお皿に銀杏入れて……。ごめんなさい、お義父さん」
そう、こんな風に―――。だけど、そんな時いつも、決まっておじいちゃんがかばってくれるのだ。
「いいや、可奈さん。いいんですよ」
「ほらー。おじーちゃんだって、いいって!」
「杏奈!」
したり顔をした私を、母は厳しい表情で咎めた。
「杏奈は、本当におじいちゃんが大好きなんだなぁ」
そんな様子を見ていた父は、おじいちゃんによく似た笑顔で笑いかけて、そう言った。
「うん。私、おじいちゃんのこと、大好き!」
「そーかそーか。いい子だ、杏奈。こっちおいで」
そう言って、ぱんぱん、とおじいちゃんは自分の膝元を叩いた。私は言われるがままに、おじいちゃんの膝の上に座った。一日の大半を縁側で過ごすおじいちゃんは、いつもお日様の匂いをさせていた。
そんなおじいちゃんが、私は大好きだった。
「お義父さん、あんまり杏奈を甘やかさないで下さいね」
「大丈夫、大丈夫。なー、杏奈」
「ねー」
あの頃は、とても幸せだった。
何も知らない私は、本当に幸せな時間を過ごせたのだから。
元陸上部の足を活かし、全速力で駅まで走ったものの、結局間に合わず、電車を一本逃してしまった。勤め先と家までは、三駅くらい離れている。免許のない私にとって、交通手段は電車しかなかった。しかも、私の家の最寄駅は一時間に一本止まるくらいなので、朝は一分一秒が命がけ。いつもは、間に合うんだけどなぁ。今日に限って、珍しく信号に引っ掛かってしまったのだ。
「あーあ、遅刻決定だぁ」
八時にならないと人がいないため、遅刻の電話もできない。家まで帰るのが、なんとなく億劫だった私は、あのイチョウの並木道へ向かった。
十五年経っても、何ら変わらないイチョウの並木道を見て、感慨深く溜め息をついた。今年も綺麗だなぁ。実は毎年この時期になると、このイチョウ並木を見に来ていた。このイチョウ並木は、私とおじいちゃんが最後に見た、風景だからだ。鮮やかな黄色に色づいた葉、刈安色のイチョウの絨毯。時折、降ってくるイチョウの葉をつかまえようと、一生懸命に追いかけたあの秋の日。
私は、あの日を一生忘れない。
「ごらん?あれが、じいちゃんの好きな銀杏が成る、イチョウの木だよ」
「ふーん。あんな不味いのに、こんなに綺麗なんだね」
「ははは、杏奈も銀杏が美味しいと思う日が来るさ」
そんな私の台詞に、からからと楽しそうに笑うおじいちゃん。
「えー。そんな日なんて、来なくていいよぉ」
「杏奈は、どんな大人になるんだろうなぁ。何か、将来の夢はあるかい?」
遠い目をしながら、私の未来に思いを馳せていた。
きっと、おじいちゃんは分かっていたんだ。私が大人になった時、そこに自分がいないってことを……。
「先生になりたい!」
「そーかそーか。教師になりたいのか」
「うん。でね、おじいちゃんみたいな優しい校長先生になるの」
そう、それが私の夢だった。小さい頃から、ずっと決めていた夢。
「うんうん。頑張りなさい、杏奈。たった一度きりの人生だ。
思う存分、楽しむんだぞ」
「はーい」
無邪気な笑顔を浮かべ、私は、そう返事をした。
その日の夜、おじいちゃんは帰らぬ人となった。真夜中の近所に響いた救急車のサイレン音。血のように赤いランプが、回転する。号泣する母親。必死に涙を堪えている父の姿。白い布を被って、ぴくりとも動かない祖父の身体が、布団の上に横たわる。私は泣くこともなく、ただただ「死」というものを、いつまでも受け止められずにいた。
一陣の風が私の頬を叩く。
気が付いて時計を見ると、次の電車の時間が近付いていた。私は、今度こそ電車を乗り過ごさないようにと、慌てて駅へと足を急いだ。駅の構内に入ると、何故か周囲がざわついており、いつもの様子と違っていた。何かが変だと感じ、私は忙しそうに飛び回っていた駅員をつかまえた。
「何の騒ぎですか?」
「列車の脱線事故が発生いたしまして、運転を見合わせているんです。どうやら多数の死傷者も出たとか。すみません、ちょっと急ぎますので」
「え……」
そう言って、走り去っていく駅員。それは、私が乗ろうとしていた列車だった。力が抜けて、ぺたんと冷たい床に座り込む。一気に恐怖感が押し寄せてきた。
もし、あの電車に乗ってたら―――。
両肩を両手で抱いて、唇を震わせる。すると、バッグの中の携帯電話が鳴った。家からだった。
『あ、杏奈!ニュース見たわよ、大丈夫?』
「うん……電車乗り過ごしちゃって」
『良かった、無事で。今日に限って、電車乗り過ごして良かったわね』
「……違うよ、お母さん」
『え?』
「……おじいちゃんだよ。おじいちゃんが、守ってくれたんだよ」
今日はおじいちゃんの命日。毎年、おじいちゃんの命日には、食卓に茶碗蒸しが出る。きっと、おじいちゃんが、私を守ってくれたんだ。そうじゃなきゃ、今頃、生死の境を彷徨っていたはずだ。止め処なく流れる涙を拭おうとせず、私は子供のように泣いた。
バッグの隙間から、国語の教科書と授業で使う漢字テストが覗いている。
私はそれを見て、ふっと笑った。
おじいちゃんに伝えたい事がある。
―――おじいちゃん。私ね、国語の教師になったんだよ。
その国語の教科書をバッグから取り出し、裏を見た。
そこには、おじいちゃんの名前がかかれていた。校長になる前、おじいちゃんは国語の教師だった。その時、使っていた教科書を形見としてもらった。
私は名前をそっと指でなぞり、ぎゅっと教科書を抱きしめた。
―――ありがとう、おじいちゃん。
END
このお話は、すごく、思い入れのある作品で、私にしては上手くまとめられた短編かなって思います。人生で一度は、身内の「死」に直面してしまいます。
これを読んで、何か感じてもらえたら嬉しいです。




