008 決意の夏
「羽白さん、お疲れ様」
「ん、サンキュー。でもあすかと違って体力づくり程度だから、全然疲れてないけどね」
青々と茂るカクレミノの木陰で涼みながらタオルで汗を拭き一息ついていたみずほへ、富士が冷えたドリンクを手渡しながら同じように芝生へ腰を下ろす。
初回のミーティングから少し時は流れて8月も終盤。ピークを迎えた痛いほどに強い日差しが降り注ぐ中、一同はそれぞれの『準備』に打ち込んでいた。
共通課題の王教授・日下教授の両名による南極講義も着々と進められており、専門的に学んでゆくとの最初の宣言通りその内容は初めから相当な高難度。とはいえ、元々のモチベーションが高いあすかと富士は嬉々として取り組んでいる。
いわゆる夏休み期間である現在は、王教授の海外遠征が多く時間が合わせづらいというのもあって講義形式は若干少なくなり、代わりに肉体面のトレーニングの比重が増えていた。
特に、実際に『ペンギン』として振る舞うこととなるあすかが一番のスパルタ訓練を受けていて、今日もどこぞの海兵隊よろしくオリーブグリーンの軍服(ミニスカート)に身を包んだガッチリムッチリした男に怒号を浴びせられながら、中腰の姿勢のまま走り込みをしている。
この男、なんでも王教授の旧い知り合いだというフィジカルトレーナーらしく、妙にオネェぽい仕草と口調で中々クセのある人物だが、あすかとは妙に波長が合うようで今のところお互い楽しく訓練できているようだ。
あのキックオフミーティングで、日下教授はあすかにスパルタ訓練の必要性について何度も強く語っていた。
「王先生が言う通り、お前の動きは全然『ペンギンになっていない』な。確かにスーツの機能でペンギンのような動きは多少サポートできるが、しかしメカニカルな機能も万全な時ばかりではない。まずお前の体自身が、正解のペンギンの動きを知っていなければならないんだ」
「野生の勘ってよく言うだろ?それに発達した知能が合わさったとしたら、ペンギンたちは小さな違和感に気が付いて大きな不信を抱くかもしれない。そうなったらもう、リトライは難しいだろう」
「お前が本当にペンギンになりたいという情熱があるのなら。覚悟をもってペンギンになるということを体現していこうじゃないか!」
感化されやすいあすかは即座にキラキラと目を輝かせ、燃えに燃えて特訓に取り組みだしたのだった。それはもう、周りが「少しはペース落としたら?」と声をかけるぐらいに。
今も怪しげなトレーナーが何やら長い棒でドンドンと地面を叩きながら、よろけて転んだあすかに向けて激しい檄が飛ばされるが、当の本人のあすかの表情に苦しさは見えない。
「それじゃまるで不細工なオットセイよっ!ほらほらほら、しゃきっとお立ちなさい!……アンタは厳しいアタシを嫌うかもしれない。でもっ、憎めばそれだけ学ぶわ!」
「えー、別に憎んだりなんて」
「シャラップ、おだまりっ!今いいところなんだから!……オホン。いい?アタシは厳しいけど公平よ?人鳥種差別は許さない!エンペラー、アデリー、フィヨルドランドを、アタシは見下さないっ!すべてっ、平等にっ、最高よっ!」
「それもう、ただ褒めてるだけだよね」
「いちいちうるさいわね!さぁ、あの夕日に向かって、走るのよ!」
「まだお昼だけどねー」
「何よその腑抜けた走り、アザラシの赤ん坊のほうがまだ気合入ってるわ!」
「アザラシは走らないと思うなー」
「いいから行くわよ、アタシに続いてっ!」
「おー!」
「ダメダメ!返事は『クェーッ』よ!」
そう叫ぶと、がっちりむっちりした太ももを晒しながら、中腰で軍服のオネェが走り出す。あすかも何だかんだ笑顔で「クェックェーッ!」と声を上げてそれに続いていく。
「……あれは、あれでいいの?」
「まぁ本人たちがノってるみたいだからいいんじゃないかな」
「律響じゃなかったら、不審者としてとっくにつまみ出されているわよ」
「王教授が連れてきたぐらいだから、ああ見えて何かの専門家なんだと思うよ」
それにしたって、と曲がり角へ消えていく二人の背中を見送りながら、みずほは手渡されたドリンクを口につけた。流れ込む液体が熱くなっていた口内を一瞬にして冷やしていく。爽やかな甘みと酸味、若干の塩味と魚臭さが炭酸で弾けて鼻に抜ける。思わず顔をしかめてパッケージを見やると、下手な手書きイラストの青魚に「SABAサイダー」の文字。
「――相変わらず不味いわね」
「おかしいな?この間も言われたから、甘味料や酸味料を調整したんだけどなぁ」
「そもそものコンセプトが間違ってるんだって。……まぁでも、あんたらはすごいわ」
ひと際深いため息をついて、みずほは天を仰ぐ。もっとも、頭上にはカクレミノの葉が鬱蒼と茂っており、空の青は僅かな隙間から覗ける程度だったが。辺りに響いているのは蝉の音ばかりで、せめて他の生徒の楽しそうな雑音や聴き慣れた爆発音などがあればもう少し気持ちも紛れるのに。
「……話、聞こうか?」
「ん」
かけられた富士の声はあすかとペンギンさえ絡まなければ大抵落ち着いたトーンだが、いつもよりさらに柔らかい気遣っているような声音になっていた。
みずほは密かに歯噛みする。この不意に向けられる優しさが苦しく、しかし正直ありがたかった。どのみち夏休みが明ける前には決めなければならないと思っていたのだ。
だから、みずほは意を決するように鯖サイダーを地面に置いて、口を開く。富士の方を向く勇気までは、出なかった。
「私さ、考えてたんだよね。『あるかでぃあ』で当然のように誘ってくれたあの日から、ずっと」
「自分が必要かって?」
「うーん。ぶっちゃけそれは折り合い付いたんだよね、私の中では。そこじゃなくてさ――」
脳裏にここ二か月ほどの光景が浮かぶ。
日々厳しくなるトレーニングに全力で打ち込むあすか、濃い隈を作りながらも夜ごとペンギンスーツの改良に勤しむ富士、海外を飛び回りながらも資料をきっちり用意して完璧な講義をする王教授、飄々としながらもペンギン語翻訳の精度について熱弁する日下教授。
プロジェクトメンバーそれぞれが、目標に向かって前のめりに取り組んでいる。常に走り続けるような忙しい毎日ながら充実していて、皆笑顔だった。
もちろんみずほ自身も心から楽しんでいるし、できる限りの全力をもって取り組んでいる自負もある。講義や訓練以外にもイメージトレーニングも兼ねて、あすかから貸してもらった『ペンギンとあそぼうVR|(おっきなおともだち用・コンプリートボックス)』も観て、それなりに楽しみにもなってきた。当初の悩みだった役割としての必要性についても、自分なりにちゃんとした理由を見つけられてもいた。
それなのに、どこかノりきれない感覚がどうしても拭い去れずにいる。
「あんたたちは本当にすごいよ。こんな、普通の人なら思いついただけで諦めるような事に真剣に取り組んでさ」
「羽白さんも、一緒にやってるじゃん」
「一緒にやってる『だけ』だよ。あんたたちについていくのは本当に楽しい。いつもいつも、私ひとりだったら踏み出せないところへ簡単に進んでいく。手ぶらで藪の中へ飛び込んでいく。私は、その獣道を後ろからついていくだけ」
「……そう、かな」
「そうなの。今回は自分なりにできるかな、初めて隣に行けるかなって、思ったんだけど」
みずほがふぅと長いため息をつく。膝を抱えた体育座りのまま、ほんの少しだけ富士の方へ顔を向ける。正面は、まだ向けない。
大きな葉が落とす影のせいで、富士からみずほの表情全てを窺うことはできなかった。でもなんとなく、ターコイズブルーのマニキュアにペンギンのシルエットが躍るネイルが、抱えた膝へ強めに食い込んでいるように見えた。
「ここまで、一緒に走ってみてわかったんだ。やっぱりあんたたちはすごい。心から信頼できて心から尊敬できる、最高の友達だなって。だからその分……私は、私が許せなってるんだと思う。結局、他人の夢を借りてるだけの自分が情けなくて、悔しくてさ」
「……うん」
「あすかはさ、入学式で初めて会った時からあんな感じだった。ずっとペンギンになるんだって言っててさ。普通だったらドン引きされて、奇異の眼で見られたり下手したらいじめられたりして、心折れちゃうと思う。でも、みんなあすかを好きになる。私もすぐ好きになっちゃった。ほんとに、ほんとにあの子はすごい」
「うん」
「私、大学に入るまで正直結構な自信があってさ。こう見えて色々器用にこなせるし、人より頑張れるし。でもあんな眩しさは……初めてだったなぁ」
あの時『ちょっと変わった子の隣で器用に立ち回る私』をやろうとしていたことは、きっと自惚れた潜在意識にあったんだろうと思う。それも言いかけたが、さすがに言えず飲み込んだ。
「――うん」
「フジは、さ。どうしてそんなに前だけを見ていられるの?あすかが好きだから?あすかのことを振り向かせたいから?」
感情的な質問をしながら、我ながらなんて意地悪なんだろうとみずほは自己嫌悪に陥る。
富士は、答えない。視界の端の表情も変わっていなさそうに見えた。
「……私の無駄におっきなカバンの中にはさ、八十点の答案用紙がぎっしり入ってるの。色んなところで色んな人から必死になって貰ってきた、たくさんの八十点。そりゃ時々は六十点が混ざるけど、ほとんどは八十点。でもね、百点は一個もないの」
離れたところからは、あすかを叱咤する野太いオネェの声と、「クエッ!」と答えるあすかの声が聞こえてくる。
それをかき消すように、振り払うように、みずほは話を続ける。
「あすかやアンタは違うよね。手ぶらで、ポケットに百点の答案だけを詰めてる。私みたいに有象無象からかき集めた八十点なんかじゃなくてさ、自分で選んで勝ち取った正真正銘の百点。すごいよ、ほんとに」
あはは、とみずほの乾いた笑いと生ぬるい風が芝生を揺らす。
考えれば考えるほど、みずほは自分がひどく不誠実な気がしていた。少数精鋭のチーム?笑わせる。その中に自分がいてもいなくても同じではないか、と。一方で、二人のそばに居続けたいという二律背反の願いを消すこともできない。二人のそばにいることでこそ自分の価値を証明できると、思ってしまう。
とめどない思考がぐるぐると螺旋を描いて、気持ちごと深い海の底にでも沈んでいきそうになった時。
「……僕はさ」
富士が、静かにゆっくりと口を開く。
「宇宙ステーションになろうって思ったんだよね」
「……は?」
「宇宙ステーション。地球からきたロケットを受け止めて、月まで飛んでいっちゃいそうなところを係留させて、ゆったりと地球の周りを回る。そして、しっかりと安全に地球へ帰っていけるようアシストしてみまもる。そんなのになろうかなって」
いきなりの話題の転換に、みずほは思わず富士の顔を見る。相変わらず穏やかなままだったが、ほんの少しだけ寂しそうな表情のようにも見えた。
「ある日、ふと思ったんだ。ロケットは宇宙に行きたかっただけで、ステーションに行きたい訳ではないんじゃないかなって。それに、ロケットが宇宙の景色に満足して地球に帰っちゃった後、僕はまだ宇宙ステーションでいたいと思えるのかなって」
「それって――」
「本当の僕の願いは、一緒に宇宙飛行士になることだったんだよ、たぶんね。宇宙で泳ぐ気持ちを共有したかった、傍観者になりたくなかった、ただそれだけ。でも僕はもう、宇宙ステーションになりかかっている。だからもう、なるしかないなって……まぁ、そんな感じだよ」
それきり富士はまた、黙ってしまった。次の言葉に迷っている風ではなく、言い切って満足したという感じで。
でも、みずほには何となく富士の言わんとすることが分かった。
夢を実現してしまえば、『彼女』はこちらを見る理由がなくなってしまう。しかも同時に、彼は夢を失ってしまう。あんなに頑張っているのに、最後の最後は空っぽになってしまう。
ああ。そうか。
みずほは納得する。追いかける夢がない自分と、結局行きつくところは同じだと、もしかしたら彼はそう言いたいのかもしれない。
でも同じだからこそ、自分との距離の遠さを実感してしまった。それこそ、地球と宇宙ぐらいに。
やっぱり敵わないなと思いつつも、おかげでようやく心がまとまった気がした。
みずほは短く息を吐き、掌のようなカクレミノの葉をやんわりと払いのけながら立ち上がる。鯖ソーダの残りを一気に飲み干し、空いたボトルをくしゃりと潰して、眼下に座る富士を顔を見る。
「――フジ」
「うん」
「私、南極行くのやめるわ」
「…………そっか」
「あんた達や先生方には悪いけど。なんかその方が良いって、今やっとはっきりそう思えたわ。その方が――私は、ちゃんと『好き』でいられると思う」
みずほはグッと伸びをして、軽く肩を回す。
『行くのをやめる』そう口に出してみたら、不思議と悲しいぐらいにスッキリしていた。視界が一気に開け、空が青くなった気がした。
試しに、笑顔を作ってみる。こちらも上手くいきそうだった。
「うん、そう。私は、ココから私なりにあんた達を全力で応援する」
「思いつき、じゃなさそうだね」
「当たり前でしょ?やりかけで放り出すの、ホントは大嫌いなんだから。あ、もちろんこれまで通りプロジェクトの事は誰にも言わないから安心して」
「うん。……大丈夫、心配してないよ」
「心配してない、か」
「うん」
「こうなる事、わかってた?」
「いや?今、心底びっくりしてるよ」
「そう。そっか。なら、良かった。――おーい、あすかっ!ごめーん、ちょっと話あるんだけど!」
キャンパスを一周でもしてきたのか、汗だくになりながらちょうど帰ってきたあすかに向けて、みずほは晴れやかに手を振って声を掛ける。
南極に行かないと決めたからには、ちゃんと宇宙ステーションに打ち上げてやるぐらいの仕事はしなくては。
次いで隣の富士にも声を掛ける。
「フジ!」
「なに?」
「とりあえず、気にせず『宇宙』に行けばいいんだよ。あんたはもう宇宙に行けるんだからさ」
「南極に行くプロジェクトなのに、変な感じだね」
「ばーか。学生で南極へ本気で行こうってやつの方がよっぽど『変』だって」
「……ははは。そりゃそうか」
「そうよ!」
話しているうちに、みずほに呼ばれていたあすかが、ふらつきながらも二人の所へたどり着く。
「はぁ、はぁ……この暑さの中あのトレーニングは、マジヤバいって」
「お疲れ、あすか」
「ふふ。まぁ、楽しそうだったしいいじゃない」
「まーね。それでみずほちゃん、何?」
「そうそう。私ね――」
そうして真夏の空に、あすかの驚愕の声が響き渡ることになった。
■■■■
――2125年10月
客が来ない暇な喫茶店で、エプロン姿のみずほは頬杖をつきながら携帯端末を操作する。ターコイズブルーのネイルがひらりひらりと揺れるたび、メッセージが相手へと送られていく。ネイル上に描かれた男女の横顔シルエットも合わせて一緒に揺れ、まるで激しく頷いているようでもある。
画面に表示された相手の名前は『あすか』。あちらも長い船旅のなか暇を持て余しているようで、返信はすぐに返ってくる。
今は南極に出発する前に贈った餞別についての話題なのだが、どうやら無事に気に入ってもらえたらしくテンションが高い感想が次々と飛び込んでくるのだ。
そういった類のものを一切見たことがないとのことだったが、それも幼少から愛好していたみずほにとっては驚愕だった。どうやら、今まで本当に興味がなかったらしい。
「――ま、せいぜい頑張んなよ」
チリンと鳴ったドアベルの音をうけて携帯端末をポケットに滑り込ませ、みずほは満面に笑う。
「いらっしゃいませ!お好きな席どうぞっ!」
あすか専属のフィジカルトレーナー「馬瀬 蘭」。本名は「馬瀬 圭史」。本名のほうで呼ぶとブチ切れるので注意が必要。
王教授の伝手という事もあって、類にもれず中々のペンギン狂い。主にペンギンの骨格や筋肉など体の作りに詳しい専門家。
形から入るタイプなので、今回は某鬼軍曹を意識したコスプレで気合を入れている。なおミニスカートはいつでも標準装備。だって女の子だもん!
筋骨隆々な図体に反して意外と小心者で繊細なので、コスプレで自己暗示をかけていたりする。
「うぉおぉい誰だ、今ケイシーって呼んだ奴?!アザラシぶつけんぞ!!」
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お待たせしましたが、短い幕間を挟んでいよいよ次回は南極へ!!