003 始まりの氷が鳴る日
『新入生は必ず一度遭難する』と揶揄されるほど広大なキャンパスを有する「律響大学」は、その生徒数もまた厖大だ。
全国でオンライン講義が主流となっている中、ここは実地学習や研究を殊更に重視する方針・理念の為、校舎に通学する生徒が極めて多いという今時珍しい大学である。
そんな多くの生徒が出入りする大学敷地の周りには、いつしか学生向けの店が多く軒を連ねることとなっていた。とりわけ安くて量が多いことを売りにした飲食店が、東・西・南3か所の「門」を中心にそれぞれ激戦区を形成していた。
そして、キャンバス内のメインプロムナードであるプラタナス並木の道を抜けた先の南門。そこから広がる激戦区の最も外周付近に位置する喫茶店を、あすかと富士は目指して歩く。辺りから漂う多種多様・多国籍な良い匂いが二人の腹をぐぅと鳴らすが、なんとか振り払い目的地までたどり着く。
コンクリートのビルばかりが立ち並ぶ一画に、いきなりぽつりと現れる再生木造二階建ての一軒家。外壁や塀にはツタが絡まり放題で、表に出されたメニュースタンドや『喫茶 あるかでぃあ』と書かれた看板がなければうっかり廃墟認定されてしまいそうな怪しい雰囲気だ。しかし二人にとっては通いなれた「行きつけ」である。もちろん躊躇などなく、富士がガチャリと扉を引いて薄明るい店内へと入り、あすかが少し後ろからスキップで続いていく。
すると、チリンチリンとドアベルの音に重なるように「いらっしゃいませ!」とハスキーな女性の声が出迎えてくれた。
「――ってなんだ、あすかとフジじゃん」
「やっほー、みずほちゃんっ! 遊びに来たよ」
「こちとら絶賛仕事中だっての。まぁ手が空いたら顔出すよ。いつもの席、空いてるよ」
「ありがとう、羽白さん」
出迎えた店員――羽白みずほ は、ヒラヒラと手を振りながら金髪のポニーテールを翻して水を取りに行き、二人はこの店でいつも座っているボックス席を目指して店の一番奥へと歩いていく。特に理由があったわけではないが、足しげく通ううちにそこがいつのまにか指定席のようになっているのだ。昼はそれなりに混み合うことが多い店だが夜は大抵空いているし、さらにはシフトによく入っている友人のみずほとマスターも気軽に接してくれ、その居心地の良さでいつもついつい長居してしまう。
二人が着座して間もなくすると、みずほが水の入ったグラスとピッチャーを手に席へとやってきた。おまたせーっと笑顔で声をかけつつ、慣れた動きで水を置いてから伝票とペンをクルリと取り出す。
「えっと、あたしは特製ナポリタンを『ヴィンソン盛り』でっ!」
「僕はホワイトオムライスで。普通盛りで良いよ」
「はいな。あすかは玉ねぎ抜きでしょ?」
「もちろーん。あと、食後にフジ君にコーヒー持ってきてあげて」
「お、りょうかーい。えっと、ホットで良いよね」
「うん、ホットで。ありがとう、あすか。……今日はあすかの奢りらしいんです」
「ほー、そりゃ珍しい。もしかして、あの『写真』のお礼かな?」
「そうそう、そうなの! すっごくない? 映像で見ても本物みたいだけど、実物はもっとやばいよ!」
あすかが目をキラキラと輝かせながら携帯端末を取り出し人差し指でしばらく触れると、先ほど研究室で撮ってきた動画を中空に再生される。鮮明な立体映像で記録された大きな『コウテイペンギン』がくるり回って飛んで跳ねてと陽気に踊り狂う様子が映しだされていく。
見た目は完全にペンギンなだけに、そのあまりにも人間臭い動きは若干の不気味さを感じないでもなかったが、楽しそうな様子だけは十二分に伝わってくる画だった。さらに、そのペンギンが嘴を大きく開くと――
『クエ―クエックエクエッ。ガーガークェッ!』
「うわっこれ、ペンギンの鳴き声? そんなのも流せるんだねぇ」
「ふっふっふー、甘いねみずほちゃん。フジくんのコーヒーぐらい甘いよ!」
「いや、知らんし」
「あすか。アレは脳のリフレッシュとエネルギー補給を兼ねるためにブドウ糖を入れてるんだよ。だから決してーー」
「しゃらっぷ! ……うぉっほん。これは、ただペンギンの声を再生してる訳では無いのだよ」
かけてもいない眼鏡を上げる仕草と共に、得意気な表情であすかは語ろうとしたが
「羽白さん、珈琲を2番テーブルにお願いします」
「あ。マスター、すんません今行きまーす! ……というわけで、また後でね。休憩の時来るよ」
「ごめんごめん、頑張ってね!」
にかっと八重歯をのぞかせて笑い、みずほはパタパタと忙しなく声の主の居るカウンターの方へと駆けていった。
露を帯びたグラスとピッチャーが残された机の上では再生されたままの動画の中で相変わらず『ペンギン』が躍動しており、そういえば写真はあの後何度も見返していたのに、動画での確認はしていなかったな――とあすかはマジマジと目の前の映像を眺める。富士が問いかける言葉に対してぎこちない動きをしながら『クエーッ』と返答する光景はある種のコントのようでもあったが、自分が中に入って真剣に動かしていると思うと感慨深かった。
「ねぇねぇ。これさ、本当にちゃんとしたペンギン語に翻訳できてるのかな?」
「日下教授は自信満々だったけど、こればっかりは本物に試してみないと何とも、だね」
「だよねぇ。ヒゲセン、胡散臭いんだよなー。あの感じ、あたしは好きだけど」
『クエックク、クエーッ!』
歌うように鳴き声を上げる動画の中のペンギン姿と、それを観ながらうーんと唸るあすかを見て、彼女に「胡散臭い」と言われたまさに怪しい風貌の日下教授のことを富士は思い起こす。
確かに普通の人から見れば彼の発言は至極いい加減に聞こえるし、常にヨレヨレでボロボロな服装は信用度を下げるのに十分だ。しかし、実はその発言は意外と芯だけを捉えていることが多く、さらに自らの研究分野にのみ興味のほとんどを費やしているからこその風体であることを知ると、その辺りの評価もある種の尊敬に変わる。
彼は間違いなく天才であり、律響大学の異文化交流学部を代表する『音』によるコミュニケーションの第一人者だ。
そもそも、完全なコウテイペンギンになることを目指す『ペンギンスーツ・プロジェクト』には、広い分野の深い知識と技術が必要不可欠。富士も小学生時代からこの為だけに、得意の工学系分野をはじめとしたありとあらゆる知識を積み上げる覚悟があったが、それでもなお理想は遥か遠い頂にあった。
そこで、富士が完成までのロードマップを一緒に作成してくれた父親を頼ったところ、伝手をたどり紹介してくれたのが「王教授」と「日下教授」だった。あの二人の天才がいなければ、そもそも人間の言葉を『ペンギンの鳴き声に翻訳する』なんていう奇想天外なアプローチは発想すらしなかっただろう。
「息子よ。父さんは惚れた女のために死力を尽くすお前を誇りに思う。全面的に応援するぞ!」
機械工学の師でもある父も目尻に涙を浮かべながら満面の笑みでそんなこと言い、途方に暮れていた富士少年の背中を押してくれた。
――その時に両手で抱えていた物が、『誕生花だから』と自信満々で買ってきたが母に突き返されてしまったウツボカズラの鉢植えでなければ、胸をはる姿を不覚にもカッコイイと思ったかもしれない。
目の前で再生されている動画も不肖の息子の成果と言って見せれば、また泣きながら喜んでくれることだろう。
そう富士が思いつつグラスに手を掛けたところで、「おまちどうさまー」とみずほの声がかけられた。
「……いやぁ、いつ見てもすごい盛りだね」
「これを注文するのも、あすかだけになっちゃったけどね。よい、しょっと」
「えっへっへ、これこれ! ありがと、みずほちゃん」
いかにも重たそうな音でテーブルに置かれた、ステンレスの平皿にうず高く『山』のように盛られた具沢山のナポリタン。この店の裏名物であり、あすかが注文した『ヴィンソン盛り』の威容だ。元々客寄せ用のチャレンジメニューであったが、注文客はふるわず品書きからもひっそりと消え、今では実質あすか専用となっている。
ちなみに、あすかがこの店を気に入った最初の理由がコレである。
「そんで、こっちがフジのね。はいどうぞ。」
「……あれ? みずほちゃん、これから休憩?」
「うん。っていうか、今日はもう上がり。マスターが、お客さん少ないからもういいよーって」
「わーい、お疲れ!」
「お疲れ様」
「ありがとっ」
富士の前にホワイトソースとチーズがたっぷりとかけられたオムライスの皿を置き、いつの間にか制服から私服に着替えたみずほがあすかの隣へと腰を下ろす。そして、ついでに持ってきた分厚いまかないサンドイッチにかぶり付く。トーストしてあるパンのカリっと良い音、続くたっぷりと挟まれた卵とエビが口いっぱいに広がる口福。みずほは思わず目尻を下げて、仕事の疲れと共にゴクリと飲み込んだ。
「いっただきまーす!」
「いただきます」
後に続くように、二人も互いの皿の攻略に取り掛かる。そのまましばらくは店内BGMのジャズと食器の音だけがボックス席で響く。食べるときは目の前の皿のみに一点集中するあすか、アルバイト上がりの一息を満喫するみずほ、そして元々自分から盛り上げるタイプではない富士が集まる三人の会食は、いつもこんな感じに静かだ。特にそうしようと決めたわけではなかったが、気が付いたら自然とそうなっていた。
そして十五分ほど経った時。三者三様の「ごちそうさま」で空となった皿をみずほが下げ、湯気が立つ3つのコーヒーカップをテーブルに並べる。
「マスターがサービスだってさ」
「いつもすみません」
「マスター、ありがとー!」
これもいつもながら、マスターの反応はない。カウンターの向こう側に実際いるのはマスターが遠隔操作で動かす調理ロボットなのだが、声は聞こえてるはず。彼もまた寡黙で照れ屋な性質なのだ。しかしその腕は確かな証拠に、富士がズズと珈琲をすすると口から鼻へ抜けるように。ふくよかで繊細な香りがいっぱいに広がる。
「それで。結局のところなんなの? あの見せてくれた『ペンギン』は。あすかがなったっていうのは聞いたけど」
「すごいでしょ!あれはねぇ――」
「ちょっと待った、あすか。丁度三人集まった所だから、僕から話しておきたいことがあるんだ」
「ん?」
急に真剣な表情となった富士に、二人が目を見合わせた。工学馬鹿な富士が急に難しいことを言うのは良くあるが、この三人が集まる場では控えていることが多い。
「『ペンギンスーツ』の詳しいことは、また後でちゃんと説明するよ。というか、羽白さんにもでも一つ言えるのは、これで本当にあすかがペンギンになるという夢が具体的に見えてきたということ」
「ものすごく今更だけど、本当意味わからない夢よね」
「えへへ、照れるよぉ」
「……いや、どこから『褒め』を拾ってきたのかわからないけど。まぁ、続けて?」
「確かにアレは完璧に近い出来だよ。すべての機能も今の所完全にかわい……じゃなくて、予定通り作動している。でも、このまま研究室の中にいるだけじゃ本当の意味での達成は永遠にできないと、僕はずっと思ってたんだ。だから王教授には入学した時から相談していて、もう行くための具体的な道筋はつけた。スポンサーも、見つけてある。父の伝手ではあるけど、国内のさる有名企業の重役にも気に入ってもらえていて――」
「ちょ、ちょっとちょっとストップ! ごめん、全然わからないんだけど」
「えっどういうこと? どういうこと?」
いきなり珈琲の湯気が吹き飛ぶほどの早口でまくし立てる富士に置いていかれた二人が、慌てふためいて富士を制する。
「……ごめんごめん。僕としたことが、自分で思ってたよりも興奮しているみたいだ」
「うん、そのバグってる感じは割といつも通りだから大丈夫よ。……じゃなくて、脈絡がないって言ってんの!」
「つまり、この途方もない『夢』を完全に実現するために。みんなで、行こう」
一度珈琲をすすって、息を大きく吸い込んで、富士が意を決したように口を開く。
その瞳は爛々と燃え盛り、釣られて二人もゴクリと唾を飲み込んだ。
「ペンギン達の楽園――南極大陸に!」
カラン。グラスの中で溶けた氷が今、始まりの鐘の音を鳴らした。
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