002 形になるということ
「コウテイペンギンになることが出来るんだっ!!」
研究室内に高らかに響き渡る、ビシっとポーズを決めた富士の宣言。
あすかは一瞬意味が理解できず、彼と「ペンギンスーツ」を素早く何度か視線を往復して見比べた。
「あたしが?」
「そう、あすかが」
「この、えっと『ペンギンくん』を、着て?」
「うん。これを着る。サイズはばっちりなはず」
「そしたら……ペンギンに、なれるの?」
「ああ。どこからどう見てもコウテイペンギンに、だ」
訪れる、沈黙。ペンギンスーツを見つめたまま二人は完全に動きを止め、王先生が静かに茶を啜る音だけが研究室内に響く。
そうしてしばらく経った後。ギギと音がしそうな固い動きでようやくあすかが首をもたげ、大きく息を吸い込む。グッと両の拳を握りしめ超新星の如き煌めく瞳を見開いて、今度はあすかが全力で叫ぶ。
「――や」
「や?」
「やっっったああああぁあ、ふっじくん最っ高!! ありがとう、マジでマジでマジでありがとう!! え、なになに本当にあたしペンギンになれるの?! もう、ペンギンになれるなら何っでもするよ!! あっ、とりあえずまず写真撮って良い? みずほちゃんに送らなきゃ! でもコレ、本物過ぎて写真じゃわからないかも! て、ていうか、どどどどどうやって着るの? こう、下から被ればいい? ファスナーか何かあるのかな? あ、そっかまず服脱がないとダメかな。ちょっと待ってすぐ脱ぐから」
「ちょっ、ストップストップ! あすかっ、ストーップ!!」
富士が慌てて叫びながらあすかの肩を掴んで、勢いのままブーツを乱暴に脱ぎ捨てスカートのホックへと手を掛ける彼女を何とか制する。何度か強めに頭をシェイクした所で、あすかはようやくハッと我に返った。
「はぁ……はぁ……!」
「落ち着いてっ、ちゃんと説明するから! あと、写真送るのはまだ羽白さんだけにしておいてね」
「ふぅ……あ、みずほちゃんには良いんだ? じゃあ送っちゃおー、えいえいっ」
「ほっほっほ。元気があっていいことだ」
「先生もちゃんと止めてくださいよ……」
もう一度王教授が淹れなおした熱いお茶を飲み、各員がようやく落ち着いた所で「じゃあ改めて」と富士は切り出した。富士がソファに座ったまま細く長い指で端末を操作すると、目の前のテーブル上にホログラムで資料が数枚表示される。見るからに難解な文字列の羅列と意味不明なグラフ達の合間に、細かな注釈が加えられたスーツの詳細画像も載せられており、どうやらマニュアルか何かのようだった。
「ごほん。この『ペンギンスーツくん一号』は、ただ見た目が完璧なだけじゃないんだ。ちゃんと人が中に入った上で本物のペンギンのように動くことができるようサポートしてくれるんだ」
「ふーん。えっと……?」
「あぁ、その説明書はまだ読まなくていいよ。とりあえず僕から概要を説明するから。それに、あすかは実際に動かしながらの方が覚えやすいだろうしね」
「お、さっすが。わかってるじゃん」
「でもちょっとずつ読んでもらうからね」
「はいはい」
「じゃあまず――」
気持ちが入っていなさそうなあすかの適当な返事にも、富士は気にしない。彼女がスーツを着た「先」のことに興味が行きすぎていることが原因だと、目に見えてわかっていたからだ。事実、実際の操作説明が始まってしまえば、むしろ食い入るように聞き入り熱心に質問をするぐらいである。
対する富士も目の下の隈が蒸発したのではと思わせるぐらいの熱量で、時には手元端末とマニュアルを細かく操作し、時には実際にペンギンスーツに触れさせながら粛々と説明を行なっていく。
これは、あすかにとっては幼少の頃からからずっと憧れ続けてきた、そして富士にとってもずっと隣で見つめてきた、夢への大いなる一歩である。疲れなど気にならないほど興奮するのは当たり前だった。
前言通り、口頭とマニュアルでの説明は最低限の操作や安全上の必要な部分のみの20分ほどで済ませ、あとはスーツを着込んでの実働試験へと移っていく。いつも以上に興奮しているあすかはもちろん、普段はある程度で彼女にストップを掛けようとする富士さえも今日ばかりは一緒になって燃え上がっていた。唯一、今度こそ着替えを専用ブースで行う事だけは強く諭して。
30分ほどかけて苦労しながらもスーツを着終えてから、二人の集中はさらに凄まじかった。多種多様な大型機械のせいでさほど広くない自由に動けるスペースはさほど広くなかったが、少しずつ様々な「ペンギンらしい」動きを次々に試しつつデータを細かに観測し、そして動画や写真をこれでもかと撮影していく。
「うわすっごい! 本当に自分の手を動かすみたいに翼が使えるよ!」
「うん、さすが慣れるのも早いね。あ、足の方はどう?」
「大丈夫そう。確かに、この姿勢が長く続くとどうかなーって思うけど、何とかなると思う」
「じゃあ、姿勢制御と骨格のバイラテラルサポートを少し調整してみようか」
「逆に、激しい動きをしてる分には気にならないよ。ほらっ! よいっとほいっと!」
「何その動き可愛……ごほん。えっと、転ばないように気を付けてね」
「うわあ、でもちょっと視覚カメラの方の、追従が……酔うか、も……うっぷ」
「わー! あすか、一旦座って! えっとバケツバケツっ!」
ソファーで茶を静かに啜る王教授も、そんな熱心な様子の二人をいち教育者として、あるいは若者を見守る大人として、いつも通りの柔らかな笑みで見つめていた。
そうしていつしか日も沈み、黄色い満月が街を煌々と照らし始めた頃。
「さてさて、ご両名。今日はそこまでにしなさい」
王教授の穏やかながらハッキリとした一声が響き、ようやく二人が作業の手を止める。他の事を忘れるような深い集中でずっと休むことなく動き続けていた彼らだったが、ふとひと呼吸おいても良いかもしれないと脳裏によぎるような絶妙な間で掛けられた言葉のおかげで、不完全燃焼感は無く素直に「また明日にしよう」と思うことができた。
そういう「人をよく見ている」辺り、講義内容自体はニッチな割に王教授が多くの生徒に慕われ尊敬される所以なのかもしれない。などと改めて思いながら、あすかは今度こそ用意された更衣ブースでスーツを脱いでいく。驚くほどぴったりなサイズ感のスーツを着ながら激しく動いていた割には汗をかいていないことに驚きつつ、下着姿のまま鏡の前でくるっと回ってみた。当たり前だが、見慣れた「人間の少女」がにやけ顔のまま楽しそうに踊った姿が映るだけである。
「えへへ。ほんと、嘘みたい……」
ふわふわ浮いたように感じる足取りは、長い時間ヒレ足をつけていただけではなさそうだ。つい先ほどまで自分が「コウテイペンギン」になっていたことが信じられず、今はちゃんと五本指のついた掌で頭から腰までペタペタと触り感覚を確かめてもみる。周りの景色こそ殺風景で無機質な見慣れた研究室だが、気持ちだけはもう憧れの南極に行けたようにすら思えた。
そして、完璧主義者で職人肌の富士がこれだけの完成度の物を作り上げるのにどれだけの時間と労力を費やしたのか。あすかには余りにも計り知れず、この感謝の気持ちをどうやったら百パーセント伝えられるか、パッとは浮かばなかった。
とりあえずはいつも通り素直に言えるだけ言葉にしてみよう、とブラウスを着たところで――
「……えっと大丈夫、あすか? もうそろそろ戸締りして出ないと」
「あ、ごめんごめーん! すぐに行くっ」
「慌てて転ばないでくださいね」
「はーい。すみませーん」
パーティション越しに投げかけられた言葉で無理やり頭を切り替え、あすかは急いで支度をする。脱いだスーツは言われた通り専用のボックスに放り込んだ。ちょっと重たいボックスの蓋を閉じる時、ひとまずの仕事を終えクタリとしたスーツの頭部と目が合った気がした。
「……ありがとう、また明日ね」
自動で施錠される小さな機械の駆動音の返事を背に、あすかは小走りで二人に合流し研究室を後にする。研究棟は富士以外にも寝食を忘れて何かに打ち込む人が多いためか、夜にも拘わらず未だ人の気配がちらほらと感じられた。もはや住んでるといっても過言ではない人々も少なくない、との噂にも頷ける。
忙しそうに荷物を運ぶ人、何やら云々と唸りながらキーボード叩く人、今にも死にそうな顔色でカップラーメンをすする人。様々な人がいるが、あすかからは誰も彼も楽しそうに見えた。
「ここの皆は、充実してるんだね」
「そうだろうね。僕も結構、日々刺激を受けてるよ」
「フジ君も、充実してた?」
「そりゃあ、充実してるよ。でもまだまだ、ここからやっとスタートだよ」
隣を歩く富士を見上げれば、彼の顔もまた疲労以上に満ち足りた顔をしているように思えた。
「本当にありがとう、フジ君。あたし、最高に楽しい。すっごく嬉しい。めちゃくちゃワクワクする。全部フジ君のおかげだね」
「そんなこと……いや、うん。喜んでもらえたなら僕も嬉しいよ」
でも、と富士は天井の方を見上げながら続ける。
「あすかのおかげだよ。僕だけじゃ、こんな所にたどり着けなかった。行こうともしなかった。絶対に」
「でも――」
「僕はさ、本当に心の底からやりたくてやってるんだよ。今、僕も最高にワクワクしてる。これから先の事を考えると、もっとやりたい事とその為にやるべき事がどんどんどんどん……ビッグバンみたいに広がって膨らんでいくんだ。ドキドキして、寝てなんかいられないよ。――いやいや、もちろん例えだよ? 本当に寝ないと、母さんがすごく怒るから」
それは誰かに言われなければ寝ないという事なんじゃないだろうか。と思い浮かぶが、本当に楽しそうに喋る富士の表情を見て、あすかはもうそれ以上何も言わなかった。
互いに無言のまま研究棟を出て、構内のメタセコイア並木の長い道を歩く。いつの間にか、王教授は姿を消していた。教授もあのスーツ開発には多大なる貢献をしていただろうことは想像に難くなく、あすかとしてももう一度ちゃんと挨拶ぐらいはしたかったが、きっと二人の「祭帰り」な様子を見て意図的にフェードアウトしたのだろう。
「フジ君、『あるかでぃあ』寄ってかない? 今日ならみずほちゃんも居るし、あたし何でも奢るよ!」
「奢りなんて……まぁでも、流石に朝から何も食べてないからね。行こうか」
「ええっ? 朝から食べてないの?! 良く今まで持ったね」
「集中してるとつい、ね。悪い癖だとは思うんだけど」
「じゃあもう決まり、行こう行こう! ナポリタン『ヴィンソン盛り』にしても良いから! ね!」
「いやいや食べきれないから。ていうかあすかは、よくアレを食べきれるよね……」
「うーん、食べた分だけ背が伸びればいいのになぁ」
「ペンギンっぽくていいじゃないか。それに、もうその背丈じゃないとあすかっぽくないよ」
「もうそうやってさー、自分はデカいからっていつも上から目線でさぁ!」
「ははは、ごめんって」
楽しそうに喋りながらゆったりと歩く凸凹姿を、月と外灯の光が長く伸ばした影が優しく後押しをしていった。
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