精華 (2020/05/11)
それは二人が望んだ別れではなかった。別れというものは元来そのようなものであるのだが、この場合は特別な意味合いを持っていた。
彼が涙ながらに別れを切り出すと、彼女もまた涙を流しながら頷くことしかできない。厳冬の埠頭に停めた車内には、外の空気には似つかわしくない湿り気がある。いっそのこと、このままペダルを強く踏み込んでやりたい気持ちにすらなっている。しかし、律儀な彼はサイドブレーキを引いていて、そのことが外部から理性の砦を支えていた。もちろんサイドブレーキを解除するのは簡単なことだが、彼女がその動きに気付けばどんな反応を示すものかと考えると、恐ろしいものがある。もし、もしも彼女がその動きを止めることなく、これまでよりも強く頷きでもすれば、全ては本当にここで終わってしまいかねない。それが恐ろしいのだ。
若い二人には未来があった。お互いの将来を考えての別れであるはずだから、ここで終わってしまっては全てが水の泡である。彼は欲望を抑え込むことができた。
それでもこのまま終わってほしくはないのだった。彼はハンカチを取り出して、彼女に手渡す。彼女がそこに瞳を伏せると、色気のないハンカチに何やら精気が吹き込まれたように思えた。彼は、ある提案をした。君の涙の色と、お気に入りの香水の匂いが欲しいのだ、と。
彼女は頷いた。それは彼女にとってはある種の儀式だった。彼女には分かっているのだ、ここで泣きじゃくっている自分もいずれは立ち直り、他の道を歩んでいくようになることを。そうした強かさがあるからこそ、二人は恋に落ちたのだ。彼女は涙を含ませたハンカチに、香水を垂らした。その香水は彼女が好きな匂いのうち、彼が最も好んでいるものだった。その甘ったるい匂いを、彼はいつからか彼女の体臭のように感じている。もちろん彼女が意識的にそうしたのだ。だからこのとき、車内に広がる匂いとハンカチが吸い取っていく匂いとは等しく、彼は一種の灯火のような宝物をやや性急にしまった。
それは精華であり、身代わりであった。もう一人の彼女が誕生した以上、本物と偽物との区別なく、どちらかは消えねばならなかった。そして物質的な次元に閉じ込められた彼女は、彼との精神的な紐帯を失いつつあった。本当の別れは、すぐそこまで近づいてきている。