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背中

 どこかで凧が上がっている。私はそれを追いかけて、コンクリート塀の立ち並ぶ住宅街に迷い込んだのだった。都会人のつもりでいる私は空を見上げることを幼年期に置いてきたのだったが、空に上った凧を見つけることができたのは、言うまでもなく職にありつけずに落ちぶれているためだ。路上に小銭が落ちていないか、自販機に取り忘れた小銭が残っていないか、そんなふうに金を求めれば地面を這いずり回れば済むのだが、あいにく私が欲しいのは職だけなのである。だからせめて気概だけは保とうと、さして高くもない背が曲がりかけているのを、胸を張って歩いてきたのである。

 どこをどう歩いてきたものか分からないが、凧の上げられるような広い場所があるとも思えないその住宅街には覚えがあった。尤も、良い思い出というものではない。思い出しそうなのを意識的にぐっと抑えて忘却の方角へ向けて押し出してみる。それにしても上手いものだ。凧は高度を保って空から私を見下ろしている。ひょっとすると先程からずっと同じところに浮いているのではないかと錯覚してしまいそうなくらいだ。そういえば、この辺りのコンクリート塀はいやに背が高い。おかげで方角が分からずに同じところを行ったり来たりしているようにすら思えてくる。三十分も歩いただろうか、やがて辿り着いたのは、二階建てのとある安アパートだった。

 ああ、そういえばここでなくしたのだったな。いつ、ここで何を、私はなくしたのだろう。不意に浮かんできた想念に足を取られそうになる。力を込めて踏みとどまったのは、理性の働きか、あるいは本能のおかげか。訳の分からないままに、私は二階へ続く階段の手摺に萎びた凧が掛かっているのを見た。それまではまるで気にもならなかったことだが、凧に描かれているのは武者姿の凛々しい若者の表情だった。そこに描かているのは私のような気もしたし、幼い頃に親しくしていた弟の成長した姿のようでもあった。

 ふと、いきなり凧が息を吹き返した。階段から最も離れた一階の角の部屋の中へ凧はするりと入り込んでいく。私はその中に何かが待っていることを予感していなかった。それと知らず、私は足を踏み入れた。玄関の土間で見たものは、背中に武者姿を背負った、どこまでも静謐なる背中だった。

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