その1
いつもどおり日が落ち始めてから起床した僕は、ゆっくりと脳と体を覚醒させながら森を歩いていた。
森の向こうに隠れようとしている太陽。春の陽によって運ばれてきたぬくもりが、徐々に夜にさらわれていく。
薄暗くなり始めた東の森。やっと目が覚めてきた。
そこへ、
――コツンッ。
鼻先に何かが当たった。
「いたっ」
衝撃はそこまでではなかったけれど、突然の事に驚いて思わず声が出てしまった。目の前の土に赤い木の実が落ちる。木の上から落ちてきたんだろう。
今日はツイてないな。
なんて思っていると、もう一度。
コツンッ。
今度は頭の上に。落ちてきたのはさっきと同じ赤い実だ。
一度ならまだしも、こんな短時間に二回となると、単に運が悪いだけとは考えづらい。誰かが僕を狙って落としている。
上を見上げてみるけど、夕闇に揺れる枝々に紛れて相手の姿は見えない。意識を集中し、耳を澄ませる。
風を切るかすかな音。
僕が後ろに飛ぶと、目の前を小石がかすめる。危ないところだった。
「ていうか、流石に石はどうかと思うよ?」
木の上を睨みつけて、こちらを狙う犯人に抗議する。
「ごめんごめん。落とすのにちょうどいいものが見つからなくてさ」
彼――リスくんはカラカラと笑いながら軽口を叩く。リスくんはこの森でも、コマドリちゃんとは違った意味で有名人だ。いつも意味もなくいたずらを仕掛けてくるし、ちょっかいばかりかけてくるから皆からは煙たがられている。
「だったら落とさないでよ」
そもそもリスくんは西の森に暮らしているはずだ。こんな時間にこっちいるなんて珍しい。
「大体、何でこんなとこにいるのさ」
「実はね。少し、話を聞いて欲しいんだ」
だったら普通に話しかけてもらいたいんだけど。
そんな僕の不満をよそに、彼はスルスルと木から降りると僕の前までやって来た。
「それで、何の相談?」
先んじて僕が口を開くと、
「あれ、あっさり話を聞いてくれるんだね」
「まあ、聞くだけならタダだし」
「さすが、お人好しのキツネくんだ」
「……誰がそんなことを」
「みんな言ってるよ」
いつの間にそんな不名誉な評判が広がっていたんだろう。
「僕のよりはマシだと思うよ」
いたずら好きのリスくんがなんか言っている。自覚があるならやめればいいのに。
自分の発言で愉快そうに笑った後に、やっと本題を切り出した。
「実は、最近ヘビくんがずっとお腹を空かせているんだ」
「彼がお腹を空かせてるのはいつものことだろ?」
「ヘビくんの胃袋だってブラックホールじゃないんだから。お腹いっぱいになることだってあるよ」
今のはちょっとした比喩だ。誰も一日中腹ペコだとは思ってない。
僕が反論すると、彼は少しムッとしたように言い返してきた。
「だから。最近、ヘビくんは一日中腹ペコなんだよ!」
「え、なんで」
「なんか、ご飯を食べられてないみたいだよ」
「何かあったの?」
「それはわからないけど。とにかく、今のままじゃ僕もいつ食べられちゃうかわかんないよ」
事情はなんとなくわかった。
空腹で見境が無くなっているのなら、この間コマドリちゃんが襲われたのもそれが原因かもしれない。
「けど、何で僕なのさ。アライグマくんにでも頼めばいいのに」
「無理に決まってるよ。ただでさえ暴れん坊なのに、僕なんかがノコノコ出ていったらボコボコにされる」
「普段から余計なことしてるからだろ?」
「仕方ないよ。リスの習性なんだ」
それは他のリスに謝ったほうが良いと思う。
「クマくんじゃ、そもそもオンボロ橋を渡れそうにないし」
「確かに、彼が乗ったら落ちちゃうかもね」
「でしょ?」
そんな得意げな顔されましても。
「だから僕なんだね」
「そういうこと」
「でも、僕にできることも無いと思うけど」
「そんな事言わずにさあ~」
リスくんは頭を下げて、しっぽも地面に付けて言った。ちらりと僕の方に視線を向けると、
「僕が食べられちゃってもいいの?」
それは一向にかまわないけれども。
「ひどいよキツネくん!!」
今度は飛び跳ねながら全身を使ってのアピール。
「君の日頃の行いが悪いからじゃないか」
「明日からいい子になるから!」
子供か。
そのあまりに必死な様子にため息が口を衝いた。
「……はぁ。わかったよ」
「本当に!?」
「このまま放っておいて、君が実際に食べられちゃっても後味悪いからね」
こんなんだから、お人好しだなんて噂されるんだろうな。
「ありがとう!助かるよ!!」
「言っておくけど、どうにか出来るとは限らないからね?」
そう釘を刺したときには、既にリスくんの姿はどこにもなかった。
「……やれやれ」
また面倒なことを引き受けてしまったような気がする。
*
その日は早めに床について、翌朝の日が浅いうちに目を覚ます。ヘビくんは昼間のほうが元気だろうから、明るいうちに西の森に行ったほうが良いだろう。
「ふああああ……」
朝はあまり得意じゃない。
森中に響くコマドリちゃんの歌声を聞きながら眠気を頭から追い出し、オンボロ橋までやってくる。もうしばらく用はないと思っていたんだけどな。
内心でぼやきながらギシギシと橋を渡る。
「さて、ヘビくんに会えればいいけど」
西の森と言っても結構な広さだ。一匹のヘビを見つけるのはそこまで簡単な話でもない。
一縷の不安を抱えながらも森の中に足を踏み入れた僕の頭上から声が響く。
「キツネくん、キツネくん」
ささやくように降ってきたその声に顔をあげると、枝の上からリスくんが飛び降りてくるところだった。
「わぁ……っ」
声を上げかけた僕の口を顔に飛びついた小動物が塞ぐ。
「し……!アライグマくんに見つかったら面倒な事になるよ」
「君が変な登場の仕方するからじゃないか」
抑えた声のリスくんに合わせて小声で言い返す。
「言ったろ?いたずらはリスの性分なんだ」
「『リスの』じゃなくて『君の』だろ」
まったく、面倒な性格をしている。
「それより、本当に来てくれたんだね」
わざわざ頼みに来ておいて疑ってたのか。
「いや、普通来ないでしょ。あんなこと頼まれても」
「だとしたらあの場で断ってるよ」
「僕を追い返すために適当に言ったのかと」
「そんなことしないよ」
「本当に人が良いんだね、キツネくんは」
そうかなぁ……?
釈然としない思いはとりあえずしまっておいて、彼に尋ねる。
「それより、君はどうしてここに?」
まさか、僕が本当にここにやってくるかを見張っていたということは無いだろう。
「キツネくんだけでヘビくんを見つけるのは苦労するかと思って」
「それはありがとう。けれど、リスくんには見つけられるの?」
「というか、もう見つけてあるよ」
「え……?」
ずいぶんと手際が良いな。
「流石にキツネくんに全部任せっきりってわけにもいかないと思ってね」
意外とちゃんとしている。
「君は僕をどんな奴だと思っていたんだい?失礼だなぁ」
そういうセリフは日頃の行いを悔い改めてからの方が良いと思う。