その1
穏やかな気候の昼下がり。いつものように穴ぐらで眠っていた僕の耳を刺すように甲高い悲鳴が響いた。
「きゃああああっ!」
この声には聞き覚えがある。
夢の中をさまよっていた意識が一瞬にして現実に引き戻される。
「……コマドリちゃん?」
あまり遠い場所からではないようだ。今の声は明らかに尋常ではない。
巣穴から抜け出した僕は、声がしたと思われる方角を目指して走り出した。太い根っこを飛び越え、木々の隙間をすり抜けながら森を駆け抜ける。
森の隙間にコマドリちゃんの姿を見つけて一安心したのもつかの間、地に足を付けた彼女とそれを睨みつけるようにする獣。その間にはクマくんが彼女をかばうように2本の後ろ足で立っていた。彼らが対峙しているのは逆さ虹の森の暴れん坊、アライグマくんだ。
いつもは西の森にいるはずの彼が、どうしてここに?
とっさに木の陰に身を隠した僕に、三匹の会話が聞こえてくる。
「あ、アライグマさん……。どうしてここに?」
「お前こそ、どうして最近西の森に来ないんだ?」
尋ねたコマドリちゃんに質問で返すアライグマくん。
「それは、羽を怪我してしまって。まだ……長い距離は飛べないのよ」
彼女は怯えながらも言葉を返す。
「歌いに来ないと思って来てみれば、あんな臆病者のクマ野郎と仲良くしあがって!」
「彼は……いい人よ」
「いい人だと?そいつは、俺を怖がって逃げ出した臆病者だぞ!?」
「強さだけが全てじゃないでしょ!?」
じっと口を開かないクマくんの代わりにコマドリちゃんが声を張り上げている。
「臆病者の後ろに隠れながら、よくもそんなことが言えるな」
続ける言葉を見つけられなくなったコマドリちゃんを置いて、目の前のクマくんに視線を移す。
「……そこをどけ、臆病者。あいつが飛べないってんなら、俺が連れて行ってやるよ」
「どかない。彼女は嫌がってるじゃないか」
対するクマくんはアライグマくんを真っ直ぐに睨み返して言葉を放った。
「だったら、力ずくでも連れて行くだけだ」
感情を体の中に抑え込むように重々しく言って、体勢を低く構える。土を蹴り上げながら前へ出たアライグマくんはまっすぐとクマくんの体に突っ込んだ。
「ぐ……っ」
ぶつけられた怒りを両腕で受け止める。
体を翻して地面に降り立ったアライグマくんはさらに吠える。
「打ち返してこないのか、臆病者!?……いや、逃げ出したりしないだけまだマシか?」
答えない相手に、続けてもう一度体当たり。着地してすぐに今度は鋭い爪を突き立てた。
「痛……!?」
痛みに顔を歪めるクマくん。それでも殴り返そうとはしない。
「いつまでそうやって耐えていられるつもりだ?」
言いながらもアライグマくんは攻撃を止めない。体当たりも、爪も避けることすらしようとしないでひたすら受け止める。腕に噛みつかれても、振り払おうともしなかった。
「クマさん、もう止めて!!」
「大丈夫、大丈夫……だから」
悲痛な叫びを上げるコマドリちゃんに、ふらつきながらも言葉を返すクマくん。
僕としても彼には助けられた恩があるし、まだ傷の癒えないコマドリちゃんを無理やり連れて行かせるわけにも行かない。
何か、出来ることがあれば良いんだけど……。
「強がるのも大概にしろ!」
握りしめた拳で殴りかかる。そのまま続けて何度もクマくんの体を叩きつける。
僕としても助けに出たいけれど、アライグマくん相手に正面から挑んでも勝ち目があるとは思えない。コマドリちゃんを連れて逃げることくらいなら出来るかもしれないが、クマくんを置いていくというのもマズいだろう。それに、出来れば僕がアライグマくんに目を付けられるようなことも避けたいし。
「ほら!どうだ!?殴り返してみろ!!」
「……ない」
「ああ!?」
「なぐら、ない」
痛みを抱え込みながらも未だに折れないその態度に、アライグマくんは忌々しげに舌打ちをした。
「善人振りやがって……!この、意気地無しがぁ!!」
勢いよく飛びかかった全力の体当たりに、さすがのクマくんも後ずさる。
クマくんの方がアライグマくんより体もずっと大きい。彼が本気を出せば、どちらが勝つかなんて考えるまでもない。それでもクマくんが一切手を出さないのは、彼が弱虫だからでも怖がりだからでもない。
誰よりも痛みを知ってるからだ。
殴られれば痛いことを知ってるからだ。自分が相手を殴れば、どれだけ痛い思いをするかを知っているからだ。
「どうして……。どうして、こんなことが出来るの!?」
まだ痛むであろう翼を羽ばたかせながらクマくんの肩に乗ったコマドリちゃんがアライグマくんに声をぶつける。
「無抵抗な相手に、何でこんな一方的に暴力を振るえるの!?あなたなんかより、クマさんの方がずっとずっと強いわよ!!」
彼女の言うとおりだ。
どれだけ力が強くても、誰かを傷つけるようなことを平気でするようなことが許される訳がない。そんなのは、本当の強さではない。
大きな力を持っているのに、他人を傷つけるのを嫌って、こんなにボロボロになっても絶対に手を出さない。そんな異常なまでの『優しさ』。それは紛れもなく彼の強さだ。
それが、簡単に踏みにじられて良い訳がない。
「それなのに……ッ」
「黙れぇええええ!!」
コマドリちゃんの声を遮るように振るわれた拳がクマくんの体を揺さぶり、バランスを崩して落ちた小さな体は地面に叩きつけられる。
「きゃ……ぁっ」
「コマドリちゃん!!」
自分の体を顧みるより先に、背後に転がる彼女を振り返るクマくん。無防備になったお腹に容赦なく攻撃が放り込まれた。
「ッ……!」
声を発する事もできず体をくの字に折る。
「もう諦めろ。お前じゃあいつは守れない」
「ま……だ……ッ」
「だったら、その拳で俺を殴ってみろ!戦う気が無いなら、とっとと尻尾巻いて逃げやがれ!!」
アライグマくんが一歩踏み込んで、渾身の力を乗せた拳を、両手を使って受け止める。ジリリと土の上を滑ったクマくんの足元から舞い上がった砂埃を、吹き抜けた風が連れ去っていった。
これ以上はいくら何でもクマくんが持たない。勝算は薄いけど、いつまでも迷ってる暇はない。