その3
一通り僕の推理を聞いたアライグマくんは、フッと体の力を抜くと言葉を零した。
「ああ、てめぇの言うとおりだよ」
彼があんなにもクマくんに固執していたのはそういうことだったのか。
「けど、何でだ?」
続けて投げかけられた質問に、僕は首を傾げる。
「何でてめぇは、そんな話をした?」
なるほど、そういう意味か。
僕がアライグマくんから逃げるだけならば、こんなことを言う必要は無かった。根っこに捕まったアライグマくんが抜け出す前に、遠くへ逃げてしまったほうが良かったに決まっている。
「まさか、俺の弱みを握って優位に立とうってわけでもねーだろう?」
「違うよ、そんなんじゃない」
アライグマくんがクマくんに負けて逃げ出した。その情報は、彼のプライドを傷つけるには充分だろうけど、だからと言ってアライグマくんの力の強さが変わるわけじゃない。『逆さ虹の森最強』の地位を揺るがすに足るものではない。
「……これは、僕の想像だけど」
さっきまでとは異なり、何の根拠もない。推理とも呼べない代物。
「君とクマくんは、友達だったんじゃない?」
「…………………」
「クマくんは優しい。そんな優しい彼は、友達を傷つけてしまったことで責任を感じている。そして、互いを避けるようになった」
「だったら……何だ?」
僕の言葉を遮る彼には、気のせいかいつもより勢いがない。
「わかってるよ。ただのお節介だっていうのは」
「あ?」
「けどね。アライグマくんのやり方じゃ、クマくんと友達に戻るのは無理だよ」
ピクリと耳が怒りに震える。徐々に雨脚を強める冷たい雫が僕たちの背中を打ちつける。完全に日の落ちた森には月明かりもなく、お互いの顔さえよく見えない。
「関係ねぇだろ、てめぇにはよぉ……ッ」
「あるんだよ」
僕は、自分のためにならないことはしない。僕の行動は、自分が生きやすくなるための行動だ。
「君が『最強』に拘るのを止めてくれれば、この森はもう少し安全になるだろ?」
少なくとも、彼に僕が殴られる可能性は低くなる。
「そんな訳にはいかねぇんだ。俺は、『最強』じゃないと駄目なんだよ」
降りしきる雨の向こうで、アライグマくんが言葉を投げる。
「あれは、一年くらい前のことだ」
そんな滑り出しで自らの過去を語り始めた。
「何のことは無い。ただのじゃれ合いみたいなもんだった。それなのに……」
アライグマくんは過去の痛みを噛みしめるように俯いて、もう一度顔をあげる。
「あいつがちょっと引っ掻いただけだった。たったそれだけで、俺の体にはでけぇ傷が出来た。その場から逃げ出すしか出来なかったよ。俺が弱かったばかりに、俺はあいつとはいられなかった」
抱え込んだ傷を吐き出すように、自分を責めるセリフを並べ立てる。
「俺が、もっと強ければ……ッ」
彼らしくもない。いや、これが本来のアライグマくんなんだろう。仮初の『強さ』の裏に隠した、本当の『弱さ』なんだろう。
「だから、君は『逆さ虹の森最強』の座に拘ってるんだね?」
誰もが認める、並び立つもののない『最強』。そうであれば、クマくんも安心して接することが出来る、とそう思っているんだろう。
「そうだ」
「……駄目だよ、それじゃ」
眼の前の相手の考えを否定する。
「もっとちゃんと、クマくんと向き合わないと」
「今の俺は、あいつと向き合ってないと言いたいのか?」
「そうだよ。君はまだ、逃げてる」
「てめぇ……!」
殴りかかろうとするアライグマくんの足を、地面から突出した根がしっかり掴んで離さない。本当は、彼も心のどこかでは分かっているはずだ。
「君と同じように、彼もまた心に傷を抱えてる。その傷と、しっかり向き合わなきゃ何も解決しない」
返ってきたのは、沈黙。僕は続けて言う。
「クマくんが頑なに暴力を嫌う理由、君になら分かってるよね?」
あの時、僕はあれが彼の『優しさ』故だと思っていた。あれが彼の『強さ』なんだと。それはある種間違いじゃないけど、一面でしか無かった。何があっても力を振るわないクマくんの『強さ』は、同時に彼の『弱さ』でもあったんだ。
「君がいくら強くなろうと、クマくんが君にしてしまったことが消えてなくなるわけじゃない」
「言っただろ?あれは事故みたいなもんだった。何なら、先に仕掛けたのは俺の方だ」
「だとしても、だよ」
厳しい口調は僕のキャラじゃないんだけどな。体を冷やす雨の冷たさのせいかな。
「当のクマくんはそう思っていない。彼はその手でアライグマくんを傷つけてしまった」
「んなことは、俺も分かってる」
「だから、この前はあんなことしたんだね?」
アライグマくんはしきりにクマくんの戦意を煽っていた。『俺を殴ってみろ』……『あの時みたいに』。
「もう一度、自分を殴らせることで過去のトラウマを乗り越えさせようとした」
あまりにも、荒療治だ。やり方が不器用すぎる。
「そんな方法じゃあ傷口を抉るだけだ」
例の一件の後の彼のつらそうな顔は今でも頭を離れない。クマくんにとって、それは忘れ去りたい過去だったんだ。
「だったら、どうすりゃ良いってんだ?」
「……もっと、素直でいいんじゃないかな?」
忘れたくても、いや、忘れてしまいたいからこそ忘れ去れない記憶。生きていく中で重くのしかかる過去。無くしてしまうことが出来ないなら、その重さを少しでも軽くしてやることが大事なんじゃないだろうか。『忘れてしまいたい過去』を『苦い思い出』程度の物に変えることくらいなら可能なはずだ。
「君の気持ちを、クマくんにまっすぐ伝えてみれば良いんじゃない?」
とある出来事が二人を過去に縛りつける。だけど、過去よりも重要なのは現在だ。
昔に何があったのか、よりも、それを経て今どう思っているのか。お互いに自分を責め続ける彼らを許してあげられるのは、やっぱりお互いでしか無いんじゃないだろうか。
「伝えて、どうなる?」
「そうすればきっと、クマくんも自分の思っていることを話してくれるんじゃないかな?」
すぐに解決出来る問題ではないかもしれない。
けれど、どちらかが歩み寄らなければ、これから二人は平行線を辿ることになってしまう。
「クマくんだってきっと、君と仲良くしたい思ってるから」
アライグマくんは、いつの間にか降り止んだ雨の雫を体から振り落としながら悪態を吐く。
「ふん、分かったような口利き上がって」
絡みついていた木の根から足を引き抜く。
言われるまでもねぇ、と。
「いい加減逃げるのは終わりだ。何たって俺は『逆さ虹の森最強』、なんだからよ」
雲間から差し込んだ月明かりに照らされた彼の顔は、遠く、何かを見つめていた。