その1
ひんやりとした空気と土の香り。しっとりとした土に腰を下ろした木々の葉っぱで柔くなった太陽の光が地面にゆらゆらとまだら模様を映している。
今日は天気がいい。
耳に入ってくるのは風で揺れる葉の擦れる音と、サラサラと水の流れる音。そんな穏やかな音に包まれた空間に、よく通るキレイな歌声が響く。自然のどんな音にも埋もれていないのに、どんな音とも混じり合っているような高く澄んだ声はこの森に住む誰もが知っている。
「やあ、コマドリちゃん」
僕は透き通った水の池が見渡せる一本の木に歩み寄って、気持ちよさそうに風と唄う彼女に声をかけた。
彼女は小さな体で森中に歌を届ける素敵なコマドリ。僕の知る限り、この森に彼女を嫌うものはいない。みんなのアイドルってやつだ。
木の下から自分を見上げる存在に気がついた彼女は歌うのを止めると、こちらに視線を移す。可愛らしく小首を傾げて挨拶を返してきた。
「あら、こんにちは。キツネさん」
かくいう僕はいわゆるキツネ。友達は多い方では無いけれど、いないと言うほど少なくもない。良い意味でも悪い意味でも目立たない、どこにでもいる普通のキツネである。
「ゴキゲンみたいだね」
「ええ。今日はとっても良く晴れているんだもの。お池の水もキラキラ光ってキレイでしょ?」
「ああ、本当だね。こんな朝も悪くない」
コマドリちゃんが目線を投げた先で、暖かい日光を受けて輝く水面。ドングリを投げ込んでお願いをするとそれが叶うって噂もあるけど、こんな日ならそんな噂話にも不思議と説得力があるような気がしてくる。
「それで、用事っていうのは何なの?」
そう。僕がここにやって来て彼女に話しかけているのは、他でもない彼女自身に呼ばれていたからだ。
「ずいぶんあっさりしてるのね。世間話も出来ないとモテないわよ」
「えっと……ごめん」
「別に良いけどね」
横に首を振ってから、本題を切り出す。
「オンボロ橋の向こう側に行きたいの」
この森には大きな川がある。森を東西に二分するその川にかかった唯一の吊橋がオンボロ橋。今にも落ちてしまいそうな頼りない外見から、みんなにはそう呼ばれている。
ちなみにこちらが『東の森』、あちらが『西の森』だ。
だけど、コマドリちゃんならあの橋を渡らなくても飛んでいけば良いはずだ。彼女にはそれが出来る翼がある。
浮かんだ疑問をそのまま伝えた。
「確かに、森の向こう側に渡るだけならそれで問題ないんだけど。わざわざ向こうに行くって言うんだから、そこでやりたいことがあるのよ」
「つまり、僕に手伝ってほしいのはそっちの方ってこと?」
「そう。お願いできないかしら」
「それは構わないけれど、僕は何をすれば良いのかな?」
「傍にいてくれるだけで良いわ」
首を傾げた僕に、彼女は続けて言った。
「あっちにはアライグマさんの縄張りがあるでしょ?それに、あのヘビさんもいるし」
「なるほどね」
『アライグマさん』、と言うのはこの森でも有名な暴れん坊のことだ。特に、虫の居所が悪い時に出くわしたら意味もなく追いかけ回されるって話だ。そして、『ヘビさん』はいつもお腹をすかせていて、何でも食べてしまうと聞いている。体の小さな動物たちには恐れられているし、もちろんコマドリちゃんだって丸呑みにされてしまうだろう。
つまり僕の仕事は、彼女を守るボディーガードってわけだ。
*
ごうごうと低い唸り声が深い谷に反響して耳に届く。この森を縦断する大きな川、その上に僕たちはいた。
「でも、どうして僕なんだい?」
コマドリちゃんを頭の上に載せてオンボロ橋を歩きながら、改めてそう問いかける。
「僕よりも護衛向きの動物がたくさんいるだろうに」
「それは、そうかもね」
曖昧な返事ではぐらかすように答える。
ギシギシと軋む木の板を踏みながら、別の言葉を投げかけてみる。
「君のためなら何だってやるような奴はいくらでもいるんじゃない?」
「まあ、私って人気者だからね」
臆面もなく僕の頭の上でさえずる。それが紛れもなく事実であるってこともあるだろうけど、彼女がこういうことを言っても嫌味な感じが全くしないから不思議だ。
「けど、それじゃ駄目なのよ。彼らは文字通り、私が望んだことならきっと何でもやるわ。私が危険を冒そうとしたら自分を犠牲にしてでも私を守るし、やっちゃいけないようなことを頼んでも迷ったりしない」
「僕は、そうじゃない?」
「だって、キツネさんは私に好かれたいとは思っていないんでしょ?」
僕は板が無くなって歯抜けになっている部分をジャンプで飛び越える。着地の衝撃でオンボロ橋がグラグラ揺れた。
じっとして、揺れが収まるのを待つ。
「私のファンたちは、私に好かれるために何でも言うことを聞いてくれる。けど、キツネさんは私が危ないことや間違ったことをしようとしたら止めてくれそうだから」
「……そうかな?」
「そうよ」
返ってきた声を聞いて、再び足を前へ進める。
彼女が言ったこと全てに納得したわけじゃない。別に、僕は自分のことを義理や人情に富んだ方だとは思っていないし、正義感あふれる男でもない。
ただ、一つだけ正しいと思えることもあった。
コマドリちゃんの言う通り、僕はこの娘に好かれたいとは思ってない。というか、誰かに好かれたいとは思っていない。誰もに好かれるなんてことは不可能だ。だから、別に好かれなくても構わない。自分が生き辛くならないように、誰にも嫌われさえしなければ良い。そうやって生きてきた。
彼女はそんな、僕の一面を見抜いていたのかもしれない。薄っぺらい僕の表の顔なんて、簡単に見透かされているのかもしれない。
そんな事を考えながら、対岸の土に足跡を刻んだ。
「着いたよ」
そう言えば、一番肝心なことを聞いていなかった。
「コマドリちゃんはここで何をしたいんだい?」
「少し、捜し物をね」
「何かなくしたの?」
「ううん、そういうわけじゃ無いんだけど」
さっきから何だか歯切れが悪い。
「何を探したいのか教えてくれたら、僕も少しは護衛以上の役に立てると思うんだ」
僕の頭の上で少し逡巡するような素振りを見せてから、おもむろに口を開いた。
「ドングリを探してるの」
「ドングリ?……この季節に?」
秋や冬ならばまだしも、今は春先だ。とてもドングリが落ちているとは思えない。
「秋に落ちたドングリが全部誰かに拾われてしまうわけじゃないわ。ちゃんと土に埋められなかったドングリの中には、乾燥してしまって芽を出さなかったものがあるかもしれない」
「でも、そんな都合よく見つかるかな?」
仮に春まで残っていたとしても、他の動物に食べられてしまっている可能性の方が高い。
「森の向こう側は全部探して回ったけれど、見つけられなかった。だから、せっかく付き合ってもらって悪いんだけど、こっちでも見つかるとは限らないわ」
「どうして、そこまでして?」
「…………」
彼女は言葉を続けようとはしなかった。
「いいよ。探しに行こう」
「え、でも……」
「どうしても必要なんでしょ?だったら見つかると信じて探すしか無いよ」
地上に降り立ったコマドリちゃんは、僕の顔をまっすぐ見て微笑んだ。
「ありがとう、キツネさん。優しいのね」
そう言った彼女に、首を横に振って応えた。
「僕はちょっと、お人好しなだけさ」