66勤
後ろから抱きしめられ、指が這うように私の腕を伝う。その指は辿り着いた先の腕飾りを、形いい爪で軽くひっかいた。
「これ、外してくれないか?」
「だ、め」
「なあ、月子。お願い」
「だめ……」
「つーきーこーさーん」
いつもと同じなのに。何も変わらない大好きなルスランの声なのに、私が返せるのは弱々しい掠れた声だった。震える手で腕飾りを握りしめ、胸の前で腕ごと抱え込む。
「お願い、ルスランっ……」
怖いわけではない。夢に閉じ込められたのだと分かったのに、どうしても怖くない。ただ、悲しい。悲しくて悲しくて、涙が止まらない。エインゼ相手なら意地でも泣きたくなかったのに、ルスランが相手だと止める術がない。だって、この人が私の泣く理由で、そして涙を止めてくれる特効薬だったのに。
もう一度お願いと呟いた私の肩にルスランの頭が落ちてきた。その重さも、温かさも、匂いも、何も変わらないのに。
「ごめんな、月子」
気がつけばいつもの玉座に戻り、ルスランの足の上に座っていた。そこまでの記憶が曖昧だ。魔術で移動したのか、歩いた記憶を覚えていないのか判断がつかない。
強くなりたかった。しっかりした、強い人になりたかった。ルスランを守るために、どんなことがあっても立ち上がり続けられる、ルスランが倒れても支えられるような、そんな強い人になりたかった。だけど、どんな強さを目指しても、この人を振り払う力なんて得られるはずもない。
帰らなきゃいけない。私はここにはいられない。だけど、ルスランの振り払い方が、分からない。分かるはずがない。分かりたくもない。
「ルスランっ……!」
「ごめん、月子。だけど、お前も迂闊だぞ。お前を失った俺の前にのこのこ現れて、無事に帰れると思っていたんだから。お前はもう少し、俺の執着の在処を自覚すべきだ」
くすぐったいほどに柔らかく絡まってくるルスランの指は、けれど決して道先を譲らず、腕飾りを握りしめた私の指を外してしまう。ルスランの指が、かつん、かつんと青い石を叩く。爪が当たるたび、やけに音が響く。何をする気なのかは分からなかった。だけど、駄目だと思った。だって、身体が勝手に震える。
「やめて、お願い、お願いだから」
「……お前の願いは何でも叶えてやりたかったんだけどな。先に約束を破ったのはお前だから、今回は聞かないことにする」
指が青い石に振り落とされる。かつんと音が鳴り響くと思ったのに、聞こえてきたのは、石が砕ける澄んだ音だった。まるでガラスのような音だ。風鈴を落としてしまったみたいに呆気なく、一度だけ鳴らせる最後の音を響かせ、石が砕け散る。
「あ……」
自分の声とは思えないほど頼りない、寄る辺のない幼子のような声が出た。
震える指で砕け散った石に触れれば、触れた傍から砂になって崩れ落ちる。ルスランがふっと吹いた息で、石の欠片は全て流れて消えた。
後には白銀色の土台だけが残っている。しかし、それもルスランが指を絡めるとするする解けていく。それ以上見ていられなくて、両手で顔を覆う。ぎりぎりと爪を立てた皮膚が痛む。どうしようもないやるせなさをどこかにぶつけたくて、自分の身体に八つ当たりをする。だけどそんな物より余程、胸が痛い。
未来の私は約束を破った。分かっている。ルスランより先に死なないと約束したのに、それを破って、さっさと死んだ。ルスランが怒るのは仕方がない。今の私にそのつけを払わせようとするのも、致し方がないと言うことも出来る。だけど、だけどだけど。
「お願い、ルスラン……私、ルスランとの約束、破りたくないの、お願い、だから……」
私はまだ、私のルスランとの約束を破っていない。破るわけにはいかない。私がいなくなった後、こんな悲しいことになると見せられたのなら尚のこと。何より、離れたくない。いなくなりたくない。一緒にいると、約束したのだ。じゃあこのルスランの手を振り払い逃げ出せるのか。ああ、どっちつかずの、優柔不断の、無知で覚悟も出来ていない馬鹿娘。どっちも出来ないなんて泣き言を許してくれるのは、私のルスランだけなのに。
「……俺も、破らせたくはなかったよ。お前の俺も、そうだろうな」
言葉の最後の声音がおかしかった。ぐっと唇を噛みしめ、引っかかった理由を知ろうと顔を上げる。瞳には水の膜が張って、視界がぼやけてよく見えない。その熱を、乱暴に拭うことで振り払う。ルスランのことだとすぐに泣いてしまうし、泣きやめない。それが仕方ないのなら、せめてそれを理由にしたくなかった。
私の腕に、腕飾りは既にない。だけど、それを砕き、解いたルスランの長い指には白銀色の糸が繋がっている。その先を、ゆっくり辿っていく。糸はどこまでも続き、階段の下を越えてもきらきら光ってその存在を教えてくれる。
糸の先に影を見つけ、それが何か意識するより早く、自分の顔がぐしゃりと壊れたことが分かった。
「泣かすな」
不機嫌がこれでもかとこめられた声に唇がわななく。名前を呼びたいのに、声はしゃくり上げた吐息に奪われて霧散する。白銀色の糸は、私を抱える人より少しだけ幼い顔をした人に繋がっている。その手にぐるぐる巻き取られた糸は、私を抱えるルスランが一息吹きかけただけで霧散した。
「思っていたより遅かったな。夢を叩き出した段階で割り込んでくると思っていたが」
「夢を払うと同時にこの場を煙に巻いておいてよく言う」
「お前が来ることは分かっていたからな。どうやって来た?」
「他の未来を経由した」
「ほぉ。いい夢は見られたか?」
「酷い、悪夢だった」
「だろうな」
二人のルスランの会話は、未来のルスランのあっさりとした言葉でぶつりと途切れた。お腹に回された腕が上がってきて、私の首と顎を撫でる。その感触にはっとなり、腕から逃れようともがく。だけど、全く苦しくないのにその腕はびくともしない。
「月子を返せ。それは俺の月子だ」
「そして俺の月子でもある」
「あるか、馬鹿か」
ルスランは吐き捨てた。自分と喧嘩しないでほしい。心から好きな人が二人いるって、本当なら浮気なのだろうし、自分の心を疑う場面だが、同じ人間が二人いる場合どうしたらいいのだろう。相変わらず未来のルスランの腕はびくともしなかったけれど、ルスランが見えるだけでほっとした。ほっとした私の顎が掴まれ、無理やり上を向かされる。ルスランが見えなくなってルスランしか見えなくなった。泣けばいいのか頭爆発すればいいのか分からず混乱する。とりあえずどっちの選択も間違いだということだけは分かった。
「離せ」
「このままだと、月子は死ぬぞ」
「……分かっている」
「いいや、分かってない」
動物がすり寄るような動きで互いの頬がぴたりと合わさる。相手がルスランなら嬉しいし照れくさいのに、殺人鬼みたいな顔のルスランがこっちを睨んでいるので幸せを感じきれない。どんなルスランだって好きだけど、どこまでもルスランが出てきて平気なわけじゃない。神様はサービスの仕方を間違っている。
だってルスランはきっと、お互いの相性がすこぶる悪い。最悪なほどに。もし、もしもこの二人が殺し合ったら、私はどちらとの約束もかなぐり捨てて間に挟まり、死んで収めるしかない。それくらい収拾がつかないと初めての体験でも分かる。
「ただ死なせただけなら、まだよかったんだよ……月光石はな、もう一人いるんだ。最古の月光石が生きている。ただし、それがいい加減壊れているから、協会は月子で補充したかったんだ」
私とルスランは顔を見合わせた。最古の月光石というのは、月光石の伝説を作り出した存在ということだろうか。協会が創設された時代に生きた人が、まだ生きているというのか。未来のルスランは、私達の驚きなど気にもとめず、どこかぼんやりと話し続ける。
「月子はな、バラバラになるんだ。協会に捕まり、研究材料にされ、下手に精神力が強いから最後まで折れずに抵抗し、実験は失敗し、月子は粉微塵だ。肉体は肉塊へ、魂は切り離された上に霧散し、虚無へと堕ちた。もう俺の月子はどこにもいない。どこにもいないんだ」
私を抱える腕の力が急速に強くなっていく。さっきまで苦しさを感じなかったのに、今では痛みで息が詰まるほどだ。ルスランは私を抱きしめたまま、くつくつと笑った。
「分かるか、俺が取り返せた月子は爪先一つ分の肉塊だぞ。骨すらない、肉の破片だ。……それなのに、お父さんもお母さんも、俺を責めやしなかった。一言だって責めず、俺を案じた。そんな二人は、月子の葬式帰りに事故に遭って死んだ……死んだんだよ。誰も彼もが死んだ。リュスティナ様の血が絶えた以上、レミアム王家の血は俺で最後だ。だったらもう壊れてもいいだろう。全部、全部壊れて、死んで、凍り、燃えて、世界ごと熔け堕ちて、そうして滅びればいい。そうでなければ、もう、俺が生まれた意味がないじゃないか。復讐は誰の為でもない。俺の為の鎮魂歌だ。おかげで、俺はやっと平穏を手に入れた。こんなに心が凪いでいることなど、随分久しぶりなんだ」
「……私が死ななかったら、この未来は無かったことになる?」
「そうだな。ここは所詮、あり得たかもしれない未来の一端だ。時が進み、ここに追いつき、この場を過去にすれば、ここはあり得なかった未来として確定し、消えるだろう……ああ、月子。そんなに泣かないでくれ。今の俺には、お前の泣き顔ですら心躍ってしまうんだ。お前がいるなら、それが魂だけであっても嬉しくて堪らない。二度と触れられなくてもいい。二度と出会えなくてもいい。だけど、このままだとそれすらも叶わないから」
だから。
そう言って、ルスランは見たこともないほど穏やかに笑う。これを穏やかと呼んでいいのか、私には分からないけれど。
「魂まで壊される前に、ここで俺と一緒に朽ちてくれ」
こんな顔をするくらいなら、いっそ泣いてくれたらよかったのに。
私の腕は、無意識のうちにルスランを抱きしめようと動いていた。その腕を止めたのは、私のルスランの声だった。
「月子がいる」
私のルスランの言葉の意味がさっぱり分からない。それは未来のルスランも同じだったようで、眉を寄せた。けれど、私のルスランは構わず続けた。
「俺達が未来視の場を過去にするまで、あり得たかもしれない未来は残ったままだ。ここで月子を失えば、現在存在する未来視が未来として残ってしまう。それでは、困る」
「何の話だ」
ルスランは話しながら歩を進めた。
「未来を一つ経由したと言っただろう」
「他の未来も、同じようなものだったはずだ。俺は他の未来を確認しようと何度も潜ったが、結果は同じだった。月子は死ぬ。それだけだ」
「じゃあ、俺が経由した未来はかなり特殊だったんだな……酷い悪夢だったが、見る価値はあったんだ」
一気に距離を詰めたりせず、一歩ずつ歩いてくる。ついに階段に辿り着いたルスランは、そこもゆっくりと上がり始めた。未来のルスランはいぶかしげな顔をしつつも、それを止めるつもりは無いらしい。話の内容が気になるのだろう。
「月子が生き残っていたのか?」
「月子だけが、生き残っていた」
言葉の並びだけ見ればほんの些細な違いだ。だが、その意味に気がついたとき、私の胸は凍りついた。息が止まるほどの衝撃で、胸の中が冷たく痛む。私を抱くルスランの目が、見開かれた。
「な、に……?」
「俺が先に死に、日本へ帰れなくなったんだ。レミアム最後の王は、月子だった。誰もいなかった。今のお前みたいに、玉座に一人で座っていた…………月子は、送り出してくれたぞ。助けも求めず、こんな未来にしないでくれと俺を送り出してくれたぞ! あんな形を永遠に残したまま、お前は自分だけ満足して死ぬつもりか!」
階段を上がりきったルスランは、まっすぐに未来のルスランを見下ろした。
「俺はあんな未来の形、絶対に許さない。絶対に消してやる。そう、約束した。月子と、約束した…………お前は、どうするんだ。あんな月子を、永遠に未来の中に取り残すつもりか。月子を、俺が、俺の手で、不幸にするのか」
ルスランの手が、私に触れた。手を引かれ、立ち上がる。私を抱えていたルスランの手は、私の身体に添って滑り落ち、膝の上に落ちた。