65勤
ネルギーさんがどれくらいの腕前かは分からないけれど、エインゼが笑いながらも距離を詰めてこない所を見ると迂闊に踏み出せないくらい強いのだろう。
私の実力は、邪魔をしないでいられたら万々歳といった所である。加勢できたら一番いいのは分かっているけれど、加勢どころか足手纏いになる未来しか見えないので、近づかないほうが無難だろう。
それに、すぐには近づけるとも思えなかった。
青空がぐるぐると回り始めたのだ。幸いと言うべきか、扉があった場所だけは何も変わっていないが、それ以外の全てがぐるぐる回っている。地面は揺れていないはずなのに、視界が回れば脳が錯覚を起こして平衡感覚を失った。地面に膝と手を突き、揺れていないのに揺さぶられる脳に耐えるしかない。
ネルギーさんとエインゼは平然と立っているのに、私だけが地面に座り込んだ。
気がつけば、青空は正しい位置を取り戻していた。ぴたりと止まり、風が吹き抜ける野原を温かく包み込んでいる。
咄嗟に扉のあった場所を見ると、さっきより遠くなっていた。扉の前には、先程と変わらない体勢のネルギーさんとエインゼがいる。戻らなければと立ち上がった私の後ろから、小さな影が走り抜け、追い越していく。
「にいさま、みっけ! かあさまー! にいさまいたー!」
嬉しさを隠さない幼い少女の声が、青空いっぱいに広がった。少女は草の上にぴょんっと倒れ込んだ。その少女をお腹の上に乗せたまま、大きな帽子をかぶった少年が身体を起こす。歳が少し離れているのだろう。少年は少女より十は年上に見えた。
「あはは、見つかっちゃった。コレットは凄いなぁ」
「にいさま、かくれんぼへたね。あおいおぼうしがみえていたわ」
「そうだねぇ。兄様、かくれんぼが下手なんだ。コレットは上手だね。今度兄様に教えておくれね」
「いいよ!」
少女の金髪についた草を取ってやり、その手を繋いで少年は歩き始めた。少女よりうんと大きな少年にもその帽子は大きかったから、きっと大人の物だろう。
コレットと、呼ばれているこの可愛らしい少女には、面影があった。名前だけではない。眠り続ける美しい少女の面影が、そのままある。
そのコレットが兄様と呼ぶこの少年はネルギーさんなのだろう。途中でコレットがネルギーさんの大きな帽子を羨ましがった。ネルギーさんはにこりと笑ってコレットにかぶせてやった。
二人が向かった先は、草が短く平らな場所だった。そこには大きな布の上に、飲み物と食べ物が広げられていた。金髪の女性が、二人を見て柔らかく微笑む。
「ネルギー、コレット、お茶にしましょうか。貴方も……」
女性は、食べ物の隣に既に座っている男性を見てまなじりを吊り上げた。男性は女性の声が聞こえていないのか、手元の書類に釘付けだ。その書類を、女性がひょいっと取り上げる。
「今日はお仕事禁止です。お忙しいのは分かりますけれど、こんな時間にまで仕事を持ち込んで……子ども達に嫌われても、わたくし知りませんからね」
「そ、それは困る」
「でしたら、書類は片付けてくださいな。コレット、お父様のお膝を確保なさい!」
「はーい!」
膝に飛び込んできたコレットを危なげなく抱き留めて、男性は嬉しそうに笑う。大きな帽子をひょいっと取り上げて、自分の頭に乗せる。帽子はぴったりだったので、この人の物だったんだと分かった。
「あーん、かえして。とうさま、それ、コレットの。とっちゃやーだー」
「うーん。ネルギーに取られ、コレットに取られ……どうやら私は今日、帽子をかぶることが許されそうにないなぁ」
「そうですよ、父様。今日はお休みの日だと王も仰っていたではありませんか。父様は働き過ぎだと、王妃様も怒っておいででした。それ、今日やらなくてもいいことではなくって? と伝えるよう申しつかりました」
「ぐっ……子どもを使うとは卑怯千万! ……と、今度申し上げておいてくれ」
「あ・な・た?」
素晴らしい笑顔のわりに随分低くなった女性の声に、男性はびくっと身体を震わせた。コレットを抱く腕に力が入ってしまったらしく、腕の中のコレットが身じろぎした。
「とうさまいや! にいさまー!」
「父様! コレット、兄様のお膝においで」
じたばたもがいで男性の腕から抜け出したコレットを、女性の横に座っていたネルギーさんが抱き留める。可愛い息子と娘に見捨てられた男性は最初しょんぼりしていたが、すぐに幸せそうに目を細めた。
ぐるりと青空が回り、どす黒く染まった空が現れる。空と一緒に、情景も変わっていた。
雨が降る。大粒の雨が絶え間なく降り注ぎ、黒い傘を差した黒服の集団を覆う。重厚な黒い棺が二つ埋められていく光景を、泣きじゃくるコレットを抱きしめたネルギーさんがじっと見つめている。
「王と王妃、オレンの夫妻まで……これからレミアムはどうするんだ」
「協会にたてついたりするから……」
「王子を渡したくないとわがままを押し通したが為に……あの方々は王族の自覚がなかった」
「それを言うのならオレンもそうだろう。宰相はもっと道理が分かる男だったはずなのに……己に子が出来て腐抜けたか。政務より情を取るからこういうことになる」
親を亡くした子どもを、どこからともなく聞こえてくる大人の声が囲んだ。声は四方八方から聞こえてくるのに、子どもに差し伸べられる手はない。
「王子はどうせ協会へ引き渡されるだろう。ならば、次はオレンが立つのが妥当か?」
「オレンの息子も王子と変わらぬ子どもだ。宰相に兄弟はいなかったはずだ。では誰が後ろ盾に立つ?」
「ノガータ殿が名乗り出たそうだ。オレンの娘を娶るつもりでいるようだ」
「あの男もつくづく強欲であるな。孫ほども年の離れた娘を娶るのか」
「だが、奴ならばオレンを維持することは可能であろう。宰相の息子はまだ幼すぎる。ただの後ろ盾ではオレンの子らに跡継ぎが出来れば立場が弱るからな。……奴の趣味でもあるが」
真っ暗な家を、コレットを抱えたネルギーさんが一人で歩く。
精神が弱って食事もまともに取れなくなり、痩せ細ったコレットの背を撫で、子守歌を歌いながら、夜の屋敷を歩き続ける。小さく掠れた咳をしたコレットの乾いた唇に、瞳から零れた滴が伝い落ちる。
「泣かないで、コレット、そんなに泣いたら体力がもたなくなる……お願い、泣かないで……大丈夫、怖くないよ、大丈夫。僕がいるから、僕が、守るから…………オレンも、レミアムも、王子も……お前も、絶対、僕が死なせない……コレット、死なないでおくれ。僕を置いていかないでくれ……コレット、お願い、お願いだから、僕を一人にしないで…………父様、母様、コレットを守って、お願い、父様、母様ぁ……」
私は一つ、思い違いをしていた。
大人になれば何でも出来ると思っていた。理性的に、いつでも最善の道を選び、子ども達を教え守り、生きていけるのだと。そんなことはあり得ないと分かっていたつもりだったのに、どこかでそう思っていた。それは、まだ自分がなれていない大人への憧憬もあったのだろう。
だけど、違う。大人だって間違え、傷つき、悲しみ、涙を流す。対処の幅が広がり、我慢が効くようになるだけで、感じるものは子どもと同じだ。癒えない傷を抱えたまま、泣き叫ぶ己を上手に覆ってしまえるだけなのだ。
両親の棺を見つめる虚ろな瞳をした少年と、淡々と話すネルギーさんが重なる。
他に道があったかもしれない。けれど、それを選べるほど器用にも小賢しくも生きられなかったのだ。強い人間ほど、上手に生きられない。優しい人間ほど、悲しい道を選ぶ。逃げ出す道も投げ出す道も選べず、地獄へとひた進む。先が地獄と分かっていても、一人でなんて逃げられないのだ。一人でなら逃げられる道を、一人で逃げても意味がないと振り払う。そして、悲しみの当事者である以上、連鎖を止めることも出来ない。
あの日から一歩も動けない。コレットはそう言った。あの日が終わらない。時が担い、癒やしてくれたはずの傷すら治らない。それなのに、守らなくてはならないのか。誰かを、大勢を、国を、守って、守って、守り続けて。
いつになれば終わるのだ。いつになれば進むのだ。彼らの心はいつまで経っても取り残されているのに、身体だけが大きくなり、背負わなければならない物は増え続ける。
コレットを抱いて静かに涙を流すネルギーさんの姿が、目の前で切り裂かれた。そこに現れたのは、無表情に短剣を構える今のネルギーさんだ。
「同情したら、たとえ王に殺されようとも、貴女を殺します」
「……同情なんてしません。だってコレットは、あの日を終わらせたいって言ったんです。進むために、同情は邪魔です。私、引き留めたいんじゃないんです。一緒に進みたいんです」
過去の自分達を躊躇いなく切り裂いた返す刃で、エインゼからの攻撃を受け止める。二人とも、魔術を使っているようには見えない。
もしかして、この中では魔術が使えないのだろうか。エインゼは体中を走る激痛と引き換えに他の人が魔術を使えない状態でも魔術を使えるけれど、肉弾戦の中で激痛を発生させるのは都合がよくないあろう。
ならば私は、絶対にエインゼに捕まるわけにはいかない。この拮抗を私のせいでやぶらせてなるものか。
「貴方も難儀なお方ですねぇ。王に傀儡になれと要求する代わりに、己もレミアムの傀儡になるとは。呆れた忠義に自制心。道理でこの扉も内側から見つけられるわけでございますねぇ。哀れな人だなぁ」
けらけら笑いながら、エインゼが現れる。こんな、人形みたいな動きをする人だっただろうか。繰り人形のような歪な動きと、ピエロのような甲高い声。
「……私は、貴様こそを哀れに思うぞ、協会の犬」
「その通り。わたくし、世界一不幸な協会の犬でございますれば」
がくんと首が傾く。引き攣った悲鳴が出る。一瞬、落ちたのかと思ったほどおかしな動きだった。
「僕は、生き残ってしまったから……痛い、痛いんだ、月光石。俺を救ってくれ。月光石、痛みをとってくれ。傍にいるだけでいいんだ。そうすれば、僕はもう痛くないんだ……お願いだよ、わたくしを救ってくださいませ」
か細い声が、私を呼ぶ。悲痛な声で救いを求める。己が定まらないバラバラな声音が、同じ意味を繰り返す。私は何度、この手を振り払えばいいのだろう。何度彼を見捨てれば。
軋む心をぐっと飲みこみ、否定の言葉を発そうとした私の髪を、風が揺らした。いつのまにか世界は赤く凍り付いていた。ネルギーさんが息を呑み、私の腕を引き自分の背後に隠す。
けれど、彼が警戒を向けたエインゼ自身も妙な顔をしていた。かくんと首を倒し、周囲を見回す。その足が震えている。
しかし、それは違った。エインゼの足は、凍り付いていた。無理やり引き抜こうとした軋みが震えを生み出している。
「――ここが巣か」
聞き慣れた声。聞き慣れぬ声音。酷く乾いた声が近づいてくると同時に、どんどん世界が凍り付く。屋敷も、野原も、青空も、夜も、炎も、風も、全てが氷に閉ざされる。
「ありがとう、月子。お前の案内のおかげで見つけやすかったよ」
「…………王?」
呆然としたネルギーさんの声に、未来のルスランは軽く笑った。
気がつけば、その笑みを真下から見ていた。ルスランの腕の中にいる。移動した覚えもなければ、風すら感じなかったのに。
「王よ、お待ちください! その方は現在のレミアム王妃です!」
酷く焦った様子のネルギーさんに向けてルスランは掌を開いた。ぐっとネルギーさんが言葉を飲みこみ、動きを止める。
「月子の願い通り、この夢を閉ざしてお前達を返す。それ以上はお前の関知する所ではない……帰れ、ネルギー。私の宰相は、もう死んだんだ」
「ルスラン様!」
一振りだった。虫でも払うかのようにルスランの手が周囲を薙げば、世界が剥ぎ取られる。髪を捲るように剥ぎ取られた世界は、ぐしゃぐしゃにはならず、剥がれた傍から消えていく。あり得るかもしれない未来の中に巣くった夢は、いま、この未来の正当な主の手によってあっさりと追い出された。
それなのに。
呆然と、広い廊下に立つ。左右はぎゅうぎゅう詰めの扉ではなくなり、普通の間隔で扉が存在している。吹き抜けの屋根から入ってくる赤い光と、乳白色に霞む景色。人の気配すらない、痛いほどの静寂が支配する城。
立ち尽くす私の手を取り、恭しくその手に口づけたルスランはにこりと微笑んだ。
「おはよう、月子」
私の夢だけ、覚めない。