60勤
大事な人を亡くしている。
「たぶんそれが、夢に囚われた人の特徴だよ」
恐らく、夢の最初に見た大量の扉は、眠っている人の数だけあるはずだ。そこに、当人と、当人が亡くしたくなかった大切な人がいる。その大切な人が本物か幻かは、分からないけれど。
いつもの場所で、いつものメンバーを前に、私は全部話した。見た夢、全てを。
おじさんの息子さんに襲われたこと。お婆さんのお孫さんに扉を閉められたこと。凍ったお城のこと。燃えているお城のこと。その理由、全てを。
出来るだけ淡々と話せるよう、感情を保つことを努める。地図を開きながら、今回出た場所の確認をしようとして、動きが止まった。
「…………印が、ある」
夢のロベリアがつけた印が書き込まれている。それを見たルスランは、眉を寄せた。
「月子、お前はもう夢に行くな」
「……駄目だよ。せっかく手がかり見つけたし、目標も決められたのに」
「夢が現実に影響を及ぼし始めたら引き時だ」
「……扉を探して、片っ端から開けて、これは夢だって言って回る。望んでいる人ならともかく、現実を思い出せた人は帰ってこられるかもしれない」
既に自覚し、望んで留まっている人はきっと、そんな私を許しはしないだろうが。
大事な人を亡くすのは、とてもつらいことだ。私はまだ身近な人の死を曾お婆ちゃんでしか経験してないから偉そうなことは言えないが、とても、とてもつらいことは分かる。だけど、それでも。
「お願いルスラン、私、どうしても」
続けようとした私の言葉は、勢いよく立ち上がったネルギーさんによって遮られた。驚いて視線を向ける。ずっと黙ったままだったネルギーさんは、両拳を握りしめていた。その形相に、言葉を失う。
マクシムさんとロベリアがそれぞれの武器に触れるほどの形相で、虚空を睨み続けている。目の下は落ちくぼみ、頬もこけ、疲労と睡眠不足でいつ倒れたっておかしくない。恐らく、気力だけで動いている。それなのに、ぎらぎらと刃物のような瞳だけが光り続けていた。
ネルギーさんは、立ち上がったときと同じくらい唐突に部屋を飛び出した。予備動作のない弾かれたような動きと勢いに、護衛の二人が面食らった顔をするほどだ。二人は一瞬で目配せして、ロベリアが部屋を飛び出していく。
「ネルギーさん!」
私も部屋から飛び出す。私を追って飛び出してきたルスランが呼ぶ声に、今は立ち止まれない。私が行っても邪魔にしかならないことは分かっている。けれど、嫌な予感が止められない。
驚いた顔で立ち尽くす使用人の人達を辿れば、ネルギーさんが進んでいる方向が分かる。ちょっと疲れが出ているからか、頭がクラクラする。目眩もする。だけど、止まれない。だって、ネルギーさんが進んでいる道は、私が何度も通った見覚えのあるものだった。
進行方向に、扉が開けっぱなしになっている部屋が見えた。ああ、やっぱりと思うと同時に中から怒鳴り声と、ロベリアの制止の声が響いてくる。背後のマクシムさんが人払いをしている声が聞きながら、部屋の中に飛び込む。
「ふざけるな、ふざけるなふざけるなっ!」
「ネルギー様! やめてください!」
「ふざけるな!」
ネルギーさんは、眠るコレットの肩を掴み、激しく揺さぶっている。意識のない身体は揺さぶられるがままだ。ロベリアによってネルギーさんが引き剥がされると、コレットの身体がベッドに落ちる。首の据わらない赤ん坊のようにがくんと倒れた首と手が悲しくて、思わず抱きしめた。
温かい。温かく、柔らかく、血の通う命通る身体なのに、意識だけがここにはない。長く美しい金髪が乱れ、可愛らしい口元しか見えない。薄く開いた唇は確かに息をしているのに、あれだけの乱暴を受けても痛み一つ訴えない。
かたやネルギーさんも乱れ方は同じだ。やつれていてもいつもと同じくらいきちんと整えられていた髪は振り乱れ、顔にかかっている。その隙間からぎらぎらとした瞳だけがこっちを睨んでいた。押さえ込まれた影響で服も乱れ、さながら戦場帰りだ。
「起きろ、コレット! 仮にもオレンの娘がそんな軟弱な理由で術にかかるなど恥知らずめ!」
「ネルギー様、落ち着いてください! ネルギー様!」
「離せ! 理由がそんなものならば叩き起こせ! 維持石も外せ! 焼き鏝を当ててでも目をこじ開けろ! ふざけるな、コレット! お前はそれでもオレンの娘か!」
『レミアムはあの日、きっと行き止まりに辿り着いてしまったの』
鬼気迫るネルギーさんの形相と、全てを諦めたかのような静かなコレットの顔が重なる。
『私達はずっと、両親が死んだあの日の中にいるのよ……』
ルスランの世界が全て裏返ったあの日。世界が終わった子どもは、一人じゃなかった。
酷いことを言っている。ネルギーさんは、耳を塞ぎたくなるような惨いことをコレットに吐き捨てていた。それは分かっている。そのことを許すわけではない。だけど。
「ネルギーさん」
「……どいて頂けませんか、月子様。その娘はオレン家の娘。在り方は、当主である私が決定権を持っています」
「ネルギーさん」
「貴女が王妃であろうともこれはオレン家の問題です。……ああ、貴女がオレン家に入ってくださるというのであれば口を出す権利も発生しますが、その心づもりで?」
ロベリアに押さえ込まれているからか、一応は丁寧な物言いをしているからか、先程までの形相は一見鳴りを潜めたように見える。だけど自分を押さえ込むロベリアの腕を握りしめている強さを見るに、全く落ち着いていない。私は、コレットを抱きかかえたままネルギーさんを見る。
「ネルギーさん、私には、コレットが望んで夢の中にいるとは思えないんです」
だから私は、ルスランに無理を言ってでもコレットを迎えに行きたいのだ。
私の言葉に、ネルギーさんは一瞬虚を突かれたような顔をした。けれどその顔は、すぐに嘲笑に変わる。吐き捨てられた感情が嘲りの笑みを浮かべた。
「この娘は、いつまで経っても国の為と割り切れず、個人の情で考える浅はかな娘です。もうとっくの昔に死んだ人間に縋りつく愚かさを不思議には思えませんが?」
「コレットは、ここを行き止まりだって言いました。皆、あの日の中にいるって、あの日から一歩も進めていないんだって……私も、そう思います。ネルギーさん、コレットは国に仕えることと王家を蔑ろにすることは同義じゃないって、そう言ってました。あなたが、頑なになっているとも」
「……この私に国に仕える何たるかを説くおつもりか。それとも、同情ですか? 我々の現状を憂えているとでも言うつもりか。それほどの侮辱を、私は知りません」
嘲りを浮かべていた瞳が、明確な熱を灯した。それは、怒りを通り越した、殺意とも思える激情だった。
一人称すら変わっている。ひゅっと自分の喉が鳴ったのが分かった。
コレットを抱きしめる腕は震えていて、力をこめたつもりだったのに全然入らなくて、コレットの身体がずるりと落ちる。
ルスランが何かを言おうと口を開いたのが見えた。それを遮る形で、先に話す。たぶん、今はチャンスなのだ。ろくに寝ていなくて、休めていなくて、精神も肉体も極限状態まで酷使されて自制心が崩れかけている今しか、ない。
「コレットは、夢の中に行ってしまったりしません。だってコレットは、あなたが大切なんです。あなたを心配していました。あなたに幸せになってほしいって、言ってたんですよ!」
コレットは私に、期待していると言った。私に期待していると、この現状を変える風になってくれるのではないかと。だけど、その瞳は揺れていた。言いはしなかった。顔にもほとんど出していなかった。
けれど本当は、助けてと、泣いていたのだ。
それでも、ここではないどこかに行きたいとは一言も言わなかった。逃げ出したいとも、言っていない。
「ルスランにも私にも、感情があります。だから、利があるからってそう簡単に他の人と結婚なんてできません。それと同じく、コレットだって感情があります。あなたがよく言う、オレン家の人だって、感情があるのは当たり前です。それを踏まえた上で言っているのならともかく、どうしてそれを否定することが前提なんですか。誰にだって感情や意思はありますよ。あなたにだって、あるのが当たり前なんです」
感情だけで仕事は出来ない。そんなことは学生の私にだって分かっている。だけど、仕事でも生活でも感情全てを擲たないと何も出来ないなんて、馬鹿な話が合って堪るものか。
「ルスランの意思をもぎ取ろうとしなくても、レミアムのために出来ることはあるんじゃないんですか。……あなたは、私なんかと結婚しようがしまいが、レミアムを大事にすることは出来ますよ。レミアムを大事にすることと、人の意思を奪うことは一緒じゃありません。人は人の意思を持ったまま働くんです。それが出来ないような国は、国のほうに欠陥があります。手を入れる場所は人の意思じゃなくて、制度とか在り方とか、そういうものじゃないんですか」
「詭弁であり、政治を知らない小娘の言い分ですね。そんな甘さが通用するのであれば、そもそもレミアムは追い詰められたりなぞしなかったのです」
「だから、義務だけで動くべきだって言うんですか?」
私の問いへの返答まで、一拍を要した。その一拍でネルギーさんは、覚悟を決めていたわけでも、考え込んでいたわけでも、虚を突かれたわけでもない。私を射殺さんばかりに強い憎悪をこめるまでの時間だった。
「当然でしょう」
苛立たしげにロベリアの手を振りはらったネルギーさんは、もうコレットに掴みかかろうとはしていなかった。ただ、疲れ切った老人のような、たった今人を殺してきたばかりの猛獣のような、そんなやつれ果てた顔で私を見ている。
「かつてレミアム王家は、協会の要求を断った。それは、レミアムの利を考えた結果ではない、ただ子を渡したくなかった個人の利です。ただでさえ他国より多かった黄水晶の上納量を更に増やす契約を結ぶ予定だったのですから。その結果、どうなりました。国は荒れ、滅亡の形すら見えていた。世代交代を終えず先達は消え、残されたのはまだ学びも経験も足らぬ者ばかり。あのとき、どれほどの国益が損なわれたと思っておいでか。益どころか、損害ばかりが積み重なった。国より個をとった結果がそれです。だからこそ、一度滅びに瀕した我々は、もう二度と同じ愚行を犯すわけにはいかないのです」
淡々と、恐ろしいほどに切々と、惑いなく彼は言い続ける。言い含めるでも言い募るでもなく、それ以外の選択肢はないのだと宣言するかのように。
「王は国のためにある存在です。国を繁栄させ、永続させるために存在している。国という巨大な生き物を生きながらえさせる歯車に過ぎません。歯車は、自己の意思など持たない。脈々と動き続ける歴史に沿って回り続け、いずれその役割を終え、その場に次なる歯車を据えるだけの存在です。ですが、その歯車がなければ国は回らない。王の存在は必須であり、必然だ。王は国を回し、国は王を回す。そうして歴史は紡がれてきた。その王が、国の流れに逆らって枠組みから外れるが為に、歴史は度々悲劇に見舞われる。ならば、王は意思など持ってはならないのです。そうすれば、国は恙なく回り続けるのですから」
その言い分を、ルスランは黙って聞いていた。そこに怒りも諦めもない。悲しみすらなかった。
人形のような瞳でネルギーさんを……いや、何も見てはいない。肯定も否定もなく、ただそこに立っている。
何を考えているのか分からないことは、それなりにある。いくら長い付き合いでも私達は違う人間だから、何を考えているかまでは読み取れない。だけど、何を想っているかは分かる。いくら違う人間でも長い付き合いなのだから、何を想っているかくらいは読み取れる。それでも今は、何を考えているのかも、何を想っているのかも分からない。
でも、別に淋しくはない。じっと見ていれば、その瞳は私に気づき、こっちを向いてくれる。それだけで充分だ。もし向いてくれなかったら、駆け寄っていて飛びつくので何も問題ない。
ネルギーさんの言葉を聞いても、誰も感情を浮かべていない。ルスランもマクシムさんも、まるで能面みたいだ。
誰も彼もが真っ正面からぶつかることなく、ずっと同じ場所に立ち続けている。ぶつかって押し合いへし合いする気力も余裕もなく、されどこの場を去ることもせず。落ちていくわけでもなく、進んでいるわけでもなく、落ちないようしがみついているわけでもなく。
ずっと同じ場所で同じ傷を負い続けている。
この人達は、子どもの頃からこんな関係を続けてきたのだ。
それに、ネルギーさんの言い分が何か気になった。認める認めないは絶対認めないのでそれはともかくとして、だ。何が気になったのだろうと考える。
「……その理屈だと、意思を持っちゃ駄目なのは王様だけじゃないんですか?」
王は歯車で、歯車は意思を持ってはならない。断じてその考えは認めないけれど、だったら王じゃないネルギーさん達は意思を持つことは許されるんじゃないだろうか。
単なる疑問だった。そんな言い分私は認めないぞと言うより早くぽろりと出てしまったのは、何だか酷く奇妙に思えたからだ。そしてどうやら、その勘は当たったらしい。
ネルギーさんは凄い顔をした。目をかっと見開き、何故か弾かれたようにルスランを見たのだ。寝不足で落ちくぼんだ目が飛び出しそうなほど開かれた目が、ちょっと怖い。見られたルスランがちょっと怯むくらいの勢いである。はっとなったネルギーさんは、軽く頭を振って視線を私に戻した。だけど、何かがおかしい。
視線が揺れている。焦点が合わないのだ。彼を真っ正面から見ているのは私だけだから、他の人は気づいていない。その意味に気づいたと同時に、ぐらりとネルギーさんの身体が傾ぐ。
「ルスラン!」
私の金切り声に、ルスランは素早く反応した。前のめりに蹲るように倒れ込んだネルギーさんの身体を抱え、部屋に戻ると叫んで消えた。マクシムさんが素早く部屋から駆けだしていく。恐らく、ルスランを追って寝室に向かったのだろう。
ネルギーさんになぎ倒された家具や小物で荒れた部屋には、私とロベリアとコレットが残された。
一瞬で起こったことを飲みこみきれず、私の心臓はどきどきと跳ねたままだ。困ったときは思わず呼んでしまう名前を叫んだっきり、一言も発することが出来ない。
これは、まずいのではないだろうか。
ぎゅっとコレットを抱きしめたまま、身動きが取れない。ネルギーさんの意識が、途切れた。この世界で、途切れてしまった。ネルギーさんはコレットのお兄さんだ。つまり、コレットが両親を失っている以上、彼も両親を失っている。夢に、囚われたかもしれない。
ルスランはすぐに私の家にネルギーさんを連れていってくれたはずだ。だけど、目覚めるのだろうか。
「王妃様、大丈夫か?」
床に落ちた物を器用にひょいひょいと避けながら、ロベリアが近づいてくる。さっきの騒動で部屋と同じくらい荒れてしまった髪を直していた。
「私は、何も、ないし」
「顔色が悪い。休んだほうがいいと思うぜ。ここも、今は人払いが解かれてないから人が入ってこないだけで、解けばすぐに騒がしくなる。氷の宰相様ご乱心って初めてで目立つからなー」
軽く笑いながら私の腕の中からコレットを抱え上げたロベリアは、元と同じ状態に横たわらせる。幸い散らかった物はベッドの上に乗っていなかったからすぐに寝かせることができた。私も慌てて場所を譲り、物を踏まないよう気をつけながらコレットに掛け布団を掛ける。乱れてしまった髪を綺麗に整えることは出来なかったけれど、顔にかかってしまった分は払っておく。
あれだけの騒動があったにもかかわらず、コレットは眉一つ顰めない。ごめん、コレット。私、あなたのお兄さんに大変なことをしてしまった。俯いたまま顔を上げられない。
「……私、ネルギーさんに酷いことした」
「いやぁ、あれは突かれないと思ってたところずっかずっか突かれて動揺したからで本人のせいだと思うけどなー。あの方も動揺することってあるんだな。新鮮だった。それに、ありゃあ遅かれ早かれ倒れてたと思うぜー」
「ネルギーさん、起きなかったら、どうしよう」
「そんときゃそんときだ。王妃様、人のことあんまり真剣になりすぎないほうがいいぜ。大事な物は少なければ少ないほうがいいんだ。そうでなきゃ、なくしたとき復讐が中途半端になる」
その言葉は、酷く静かに放たれた。ロベリアは私を見てはいなかった。荒れた床に転がっている、少し欠けてしまった少女の陶器像を見つめている。
その横顔には、何の表情も浮かんでいない。この世界に来て、人の顔からふっと表情が抜け落ちる瞬間を何度も見てきた。ルスランも、ふとしたとき、こんな顔になる。それはいつも、過去を思い出したときだった。
私の視線に気づいたロベリアは、表情をくるりと入れ替え、いつものように笑った。ああ、ルスランと同じだと思ったが、口に出す必要がない言葉は飲みこむ。
「さて、早いとこ戻ろうぜ。ネルギー様の様子も聞きたいし、何にせよ王妃様は一回休まないとまずい」
「……そんな酷い?」
「死にそう」
「そりゃまずい」
そういや鏡見てなかったなと思い、コレットの鏡台をちょっと借りて覗き込む。そこにはゾンビがいた。これなら腐良学園ゾンビッビに出演できる。三回眠っただけ。それなのに何日も寝ていない人に負けないくらいやつれている。これは、ルスランがよく三回目を許してくれたなと苦笑するしかない。以前のルスランなら、絶対許してくれなかっただろう。
コレットの部屋を出たら、少し離れた場所に人だかりが出来ていた。流石にここで働いている人ばかりだったけれど、いつもは静かなこの廊下にこれだけの人がひしめき合っている光景は珍しい。
部屋から出てきた私達に、彼らは慌てて道を譲って頭を下げた。私は軽く頭を下げ、ロベリアはいつも通りびくびくしながらその間を通り過ぎる。その中に、コレットの生命維持石を交換している人を見つけた。
「今日も、コレットをよろしくお願いします」
「畏まりました」
当たり前のことだと言わんばかりにきっぱり言い切ってくれた人に改めて頭を下げて、その場を後にした。




