56勤
ひたひたと静かな音がする。冷たい大理石に肌が張り付いては離れる音だ。誰かが裸足で歩いている。
寒い。寒くて、真っ暗だ。
真っ暗な廊下に、私は一人で立っていた。
無意識に両手を見る。自分の姿を確認したのか、持ち物を確認したかは分からない。両腕には、それぞれ違う物が嵌まっていた。一つは青い石のついた腕飾り。青石の面は手の甲側だから、掌を見ている今は石が見えない。一つは腕時計。こちらも時計面が手の甲側に回っているから、こっちにはベルトしか見えない。腕の間から見えた自分の足は靴を履いている。
真っ暗なのに、自分の身体ははっきりと見えた。これは夢だ。それは分かる。眠る前の状況も、ルスランと交わした会話も全部覚えている。
だけど、予想していた夢と少し違う。時計を見れば、針が止まっていた。これは役に立たないかもしれない。
立っている場所で、少し足踏みしてみる。足裏の感触はしっかりしていた。固く平らな床、恐らくは人工物だ。でも畳とは違う、土でもないし、敷物も敷かれていないようだ。
一歩踏み出すべきかと悩む。こんなことなら、サバイバルセットを持ってくるんだった。この夢から覚めたら一旦家に帰っていいと言っていたから、家に帰ったら懐中電灯を持ってきたい。コンパスもいるだろうか。後は何がいるだろうか。そんなことを考えていた視界の端を、何かが過った。
ぱっと顔を上げる。
周囲はいつの間にか、ぼんやり明るくなっていた。明るくなったというよりは、目が慣れたのだろう。青と紺を薄く溶かしたような世界に乳白色の闇が混ざり込んでいる。
真夜中色だと、思った。
小学生のとき、新しい色を作ろうという授業があった。だから私は、真夜中色を作った。夜に目が覚めちゃったときの、部屋の色。酷くぼんやりしているのに、世界には明確な色が合った。青で、紺で、けれど決して黒ではない、白みがかった薄らとした闇。
薄い闇の中に私は立っていた。広く延々と続く廊下。玉座の間に続く廊下に似ていたけれど、あの道にあったような光を取り入れるための空間は一切ない。廊下の左右には大量の扉があった。酷く狭い感覚で、ずらりと並んでいる。普通は部屋の感覚分は開くはずなのに、扉と扉の間には掌一枚分の隙間しかない。
「怖くない」
人の気配は一切しない。しんっと静まりかえった薄い闇の中、異様な光景が続く廊下の真ん中に一人で立つ。同じ人気のない場所でも、光と薄闇の中では雰囲気がまるで違う。
「怖くない」
怖くない。そう念じながら、胸元を握りしめる。服がしわくちゃになるけれど、構わない。どうせ現実では服をしわくちゃにしながら寝ているんだ。
それに、しわくちゃになろうが、なるまいが、そんなことはどうでもいいのだ。
怖くない。
怖くない。
怖くない。
怖いと思ったら、止まらなくなる。だから、怖くない。
胸元を握りしめている右手、そこについている腕飾りを左手で握りしめる。大丈夫。怖くない。
真っ暗な廊下を進むことを少し躊躇い、開かないことを覚悟の上で扉に手をかける。予想に反して、扉は開いた。
しかも、少し開いた扉の隙間から光が漏れ出てくる。廊下に光が溢れた。
「誰かいるんですか!?」
暗闇に光が差したことと一人ではなかった喜びで、勢いよく扉を開く。そして、その先にある光景に呆然とした。
そこに建物などなかった。私の目の前には、青空と野原が広がっている。草花の匂いを乗せた風が、私の髪を揺らす。まだ一歩も中に入っていない私の足に、揺れる草の陰が映っている。後ろを見れば、暗い廊下にずらりと並ぶ扉。目の前には晴れ渡った空と野原。
まさかここは玄関? 斬新な建築構造である。
これは夢……いや待てよ。ここは異世界魔法の国。扉を開ければそこは外でしたなんてことがあっても不思議じゃないのでは?
目の前に広がる光景がこの世界での常識なのか非常識なのかが分からない。一歩踏み出していいのか悪いのかも分からない。
少し寒さを感じるほどの廊下とは違い、扉の中から流れてくる風は心地よい温かさを纏っている。出来るなら一歩踏み出したい。だが、いいのか悪いのか。この光景が常識なのか不思議なのかが分からないと踏み出しようがない。
悩んでいると、野原の向こうから声がした。甲高い子どもの声だ。
驚いて視線を向けると、赤毛の可愛らしい女の子がくるくる回りながら走っている。跳ねているように転がり、私に背を向けてその向こうにいる誰かを呼んでいる。小高い丘になっているようで、少女のいる場所が一番高い場所なのだろう。
少し待てば、両親と思われる男女が寄り添いながら歩いてきた。少女によく似た赤毛の女性と、優しそうな顔の茶髪の男性だ。男性は足下に抱きついてきた少女を抱き上げ、嬉しそうに笑う。女性も少女の頬に手を当て、柔らかく微笑んでいる。
どこからどう見ても幸せな家族の光景だ。問題は、どうして扉の中の野原で一家団欒が繰り広げられているかということである。ここは外なのか、それとも建物の中なのか。一所懸命考えていると、少女を嬉しそうに見つめていた男性と目が合った。
最初彼は、ぽかんとしていた。呆然と私を見ている。彼から見たら私はどう映っているのだろう。野原の中にぽつんと扉があり、薄暗い中に立つ私? それは怖い。呆然とする。今すぐ妻子を連れて下がっていくだろう。といっても、たぶん妻子、であるが。
「って、ちょっと待ってください!」
急に険しい顔になった男性は、妻子を連れて野原の奥に戻っていく。未だ踏み出していいのか判断がつかない私は、この場で足踏みするしかない。制止を求める私の声は綺麗さっぱり無視された。切ない。
と思っていたら、男性が凄い勢いで走ってくる。妻子は奥で待っているのだろう。確かに制止を求めたが、そんな凄まじい勢いで走ってきてほしいなんて言ってない。
男性の勢いは若干恐ろしかったが、何か有力な話を聞けるならと踏みとどまった私は、男性が手に持っている物を見て凄い勢いで扉を閉めた。
閉めた扉から飛び退き、転がりながら後ずさる。
男性の手には、光る刃物が握られていた。
どっどっと鳴り響く心臓を音と振動を全身で感じながら、扉から離れた位置でさっき閉めた扉をじっと見つめる。だが、激しく動揺していて視線がぶれる上に、冷や汗までかき瞬きが増えたせいか、しばらくするとさっきの扉がどれだったか正直自信がなくなってきた。
「なん、だったの?」
どきどきしながらも少し落ち着いてくると、いま背中を貼り付けている場所も扉だったと思い出す。一応、こっちも確認しておこう。さっきの扉があった辺りを警戒しつつ、一番近い扉に手をかける。
さっきの教訓を生かし、そぉっとそぉっと隙間を広げていく。今度はオレンジの光だ。
ゆっくりと広げていく隙間から中を覗くと、どうやら室内のようだ。だとすると、やっぱりさっきの扉はおかしかったのだろうか。玄関でもない限り。
ゆっくりと開けた先には、おもちゃがあった。椅子の上には大きなぬいぐるみが座り、その足下には様々な形の木のブロックが転がっている。その向こうには、母親と思わしき女性の膝に座り、絵本を読んでもらっている子どもがいた。
今度こそまともに話せるだろうかとどきどきしながら話しかけようとすると、子どもと目が合った。瞳がまん丸になって私を見ている。そうだ、ノックだ。ノックが必要だったとこのときようやく気がついた。だがもう遅い。開けてしまった事実は変わらない。
「あのー……勝手に開けて済みません。えーと、王城から調査に来た者です」
子どもから目線を外して、優しそうなお母さんに話しかける。だが、お母さんは私を見ていない。絵本から顔を逸らした子どもを不思議そうに見て、頭を撫でる。
「どうしたの? あなたの大好きなご本なのに」
くすくす笑って髪を直してやっている姿が、変だ。
だって、私みたいな変な女がノックもなしに扉から現れたのに、こっちを見てもいないのだ。耳が聞こえないのかと思ったが、その予測も女性がこっちを見たことで外れる。女性は子どもの視線を追って私を見た。見たのに、何事もなかったかのように視線を外して子どもに戻す。
「別のご本にしましょうか。次はどれがいい?」
「うん!」
舌っ足らずな声で返事をした子どもは、お母さんの膝からよいしょよいしょと降りた。そのまま彼なりの精一杯の速度で私の前まで走ってくる。小さな子どもだけれど彼となら話が出来そうだ。私はほっとして、彼の目線に合わせてしゃがんだ。
子どもは、にぱっと笑った。私も笑った。子どもはふくふくとした両手を私に伸ばし、「ばいばいね」。ぱたんと扉を閉めた。
「…………………………え!?」
可愛い笑顔に締め出しをくらった。切ない。そして何で!?
閉じられた扉を前にしばし呆然としてしまった。一応ちらちら男の人が襲いかかってきた扉の辺りの注意は忘れない。ただし、もうどれか分からない。
全て何一つ変わらない扉達だ。さっきの扉に印でもつけておけばよかったと思うけど、近寄るのも躊躇われる。
扉の前で刃物を振りかぶったまま待機していて、近づいた途端扉を開けて斬りかかってきたらと思うと、近寄る気にはなれない。
とりあえず、子どもがいた扉を開けて中を確認しよう。気を取り直してもう一度扉を開けようとした私の耳に、ひたりと、足音が聞こえた。
ひた、ひた、ひた。人がゆっくりと歩く音がする。視線を向けた先、暗い廊下の奥に人影が見えた。
怖くない。
今度の呟きは音に出せなかった。口を動かし、吐息と変わらない言葉を紡いだだけだ。それでも、自分への鼓舞となる。誤魔化しでいい。最後まで保てば、誤魔化しも虚勢も空元気も、全部真実だ。怖くない怖くない怖くない。心の中で繰り返す。
薄闇の中でも一際闇が濃く見えるのは、ここから少し距離があるからか、それとも彼女らの髪が黒だからか。
そう、彼女だ。二人の女性が歩いている。
一人は足下までつきそうな長い黒髪、もう一人は腰まである長い黒髪だ。足下まで髪のある女性のほうが少し背が高いようだ。低いほうは、奇妙に揺れている。
その理由はすぐに分かった。背の高い女性が、低い女性の手を引いて歩いているのだ。最初は手を繋いでいると思ったけれど、よく見れば手を握っているのは前にいる女性だけで、少し後ろを歩いている女性は指をだらりと垂れたまま引かれるに任せて歩いている。
響く足音は彼女たちから発生していた。素足で廊下を歩いていく二人を追いかけるべきか迷う。ここはどこなのだろう。建物はお城のようにも見えるけれど、扉の数が尋常ではない。それに、人がいる。ルスランとロベリアしかいない昼のお城とは夢が違うのだろうか。
だったら今回は普通の夢なのだろうか。でも、それにしては眠る前の状態をそのまま持ち込めているのはおかしくないだろうか。新しくつけたばかりの時計だってちゃんとある。
分からない。誰もいないのは、困った。けれど、誰かいるほうがまずいのだと気づいたのは今だった。
気づくのが遅い。馬鹿。考えなし。自分を罵ったって何も解決しないと分かっているのに、しないではいられない。
あれは敵? 味方? 人? 分からない。分からない。
怖、くないっ!
「待って!」
距離は充分ある。もしも敵だったら、人では、なかったら、すぐにルスランに助けてもらう。私は腕飾りをぎゅっと握り、叫んだ。
ぴたりと、手を引かれていた女性の足が止まった。前を歩いている女性はそれでも前に進もうとしていたけれど、後ろの女性は身体を折り曲げて引っ張られる手に抵抗している。女性があまりに暴れるからか、前を向いていた女性が振り向き、暴れる女性の腕を両手で掴んだ。
二人の長い髪が大きく波打つのに、声は一切聞こえない。
これはもしかして誘拐か。気づくのが遅れた。
私が慌てて走り出したのと、後ろの女性が手を振り払ってこっちに駆けだしたのは同時だった。転びかけた身体を何とか支え、前のめりになりながら走ってくる女性に、手を振りほどかれた女性が何事かを叫ぶ。目元は髪で見えないが、大きく開いた口が見えた。それなのに、声は何も聞こえない。こっちに駆けだしてきた女性も、何事かを叫びながら私に向け手を伸ばした瞬間、世界は文字通り色を変えた。




