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白銀王と日帰り王妃  作者: 守野伊音
第三章
52/69

51勤





 机の上には、一度だけ見た教科書が置かれていた。片手で半分ほど持ち上げ、ぱらぱらと落とすようにページをめくる。

 これはコレットが王妃教育を受けていたときに使っていたものだそうだ。親指の腹をくすぐりながら最後まで落ちたページの上に、固い背表紙を乗せる。


 大きく重い本の隣にあるのは、薄くて柔らかいノートだ。ノートには、難しく堅苦しい文言で書かれている教科書の内容が、分かりやすいシンプルな言葉で要点だけを抜き出されている。

 私のために、コレットが作ってくれたのだ。

 まだ途中だから、次の授業までにはもっと書き進めてくると言っていた。だから、次も絶対来なさい、逃げたら承知しないわよと、つんっとそっぽを向いて言った後、「……来るわよね?」と少し不安そうに言ってくれた、可愛くて優しい友達がもっともっと好きになった。



 書きかけのノートを、人差し指と中指の腹で撫でる。前に見たときより沢山ページが増えている。一回目の授業でぼろぼろだった私に呆れていたのに、「そんなことも知らないの!?」と怒りより驚きが勝った声で言っていたのに。一回だけ受けてすぐに、学校の試験があるから一週間ほど来られないと告げるような、この世界だけに集中できない私のために、ずっと準備してくれていたのだ。


 ノートも閉じて、教科書の上に重ねる。振り向けば、天蓋付の大きなベッドがある。昼間は開けられていたというカーテンは、夜の訪れと共に閉められ、部屋の中には絞られた明かりが浮いている。白くぼんやりした明かりは、ベッドの中で眠る美しい少女をやんわりと照らす。





「コレット……」


 長い金髪はいつものように丁寧に梳られ、ベッドの上で金色の川のように流れている。光は何一つ引っかかることなく、なだらかに金の川を流れていった。

 ベッドで眠るコレットは、本当にただ眠っているだけだ。苦悶の表情も浮かべていなければ、青白い顔色もしていない。私の家に来たルスラン達のほうがよほど酷い顔色をしていた。


 それなのに、コレットは目覚めないのだ。

 どれだけ揺さぶろうと、耳元で叫ぼうと、きつい気付けの薬を嗅がせても、つねっても、何をしても瞼一つ動かさないのだという。




 微かな寝息を立てているコレットの頬で動く影を見つめた。視線を上げれば、コレットの頭の上で小さな石がくるくると回っている。生命維持の術がかけられた石だという。水も食事も取れない人のための、生命維持装置。



『私達はあの日、行き止まりに辿り着いてしまったの』


 コレットはあの日、そう言った。



 たった一回しか出来なかった授業の後にも、まるで誰かに聞かれることを恐れているような小さな声で、私に言った。


『レミアムも私達もあの日から……両親を失ったあの日から、一歩も進めなくなってしまったの。……お願い、月子。この国の時間を進めて。あの日止まってしまった私達の時計の針を進めて。私達はもう、自分の力では、あの日から出られなくなってしまったの…………ルスラン様も、兄も、私も、マクシム様も……あの日、王という名の親を殺したレミアムも、もうどこにもいけない……私達はずっと、両親が死んだあの日の中にいるのよ……』


 私は、うんと言った。

 そのために何をすればいいのか、具体的なことは何一つ思い浮かばなかったけれど、頑張ると、約束したのだ。大事な人とはぐれた迷子のような声で俯く友達のために、そしてきっとルスランのためにもなるこの約束を手放さないようにしようと決めた。







「コレット」


 でもそれは、最後の約束ではなかったはずなのに。


 最初の約束だった。友達になって初めての、大事な約束。最後の約束になんてするものか。絶対に、しないから。



 眠るコレットの手を取る。眠っている体温は温かい。死人のように冷え切りもせず、握った人を眠りに誘う柔らかな温かさを纏っている。それなのにどうして、目を覚ましてくれないのだろう。


 この部屋には今、私とロベリアしかいない。ネルギーさんはこの部屋に立ち入っていないと聞く。コレットが眠りに落ちてから一度も。

 それに思うところがないわけではないけれど、この状況は、最初の約束を交わした日に似ているから、今はそれでよしと思おう。


「コレット、立会人がまたロベリアだけだけど、新しい約束させてね。私、絶対コレットのこと起こすから。待ってて、コレット。絶対に起こすから、だから、王妃下手っぴな私をまた叱ってね。私達、これからもっと仲良くなれると思うんだ。いつかは喧嘩もするだろうけど、そうしたら仲直りしようね。いっぱいお喋りしようね。いっぱい遊ぼうね。いっぱい笑おうね。困ったら相談してね、私もさせてね。泣きたくなったらぎゃんぎゃん泣こうね。そしたらまた笑おうね……ねえ、コレット。私達まだなんにもしてないよ。だから、早く起きてコレット」


 ぎゅっと手を握りしめても、手は握り替えされることも振りほどかれることもない。ただ温かく柔らかなままここにあるだけだ。






「王妃様」


 扉の前にいたはずなのに、いつの間にかすぐ後ろに移動していたロベリアに呼ばれて振り向く。そこには、マクシムさんが開けた扉からルスランが入ってきたところだった。


「どうだ?」


 端的な問いに、首を振って答える。


「他の人とおんなじで、何も分かんない。ただ眠ってるようにしか見えない」


 ロベリアは生命維持の石の点検が入っていたため、それを待っている間、お城にいる同じ症状の人を確認した。お城で働いている人で症状が出ている人は七人。年齢も性別も立場も様々だった。

 私は医者ではないし、魔術士でもない。魔力の見方も分からない。ただ、変な光が見えないか視線でなぞるしか出来ない。そうやって見ただけになるけれど、異常は見られなかったように思う。明るい光の下で見ればまた変わるかもしれないから、次は夜が明けてからもう一度確認する予定だ。

 ルスランは、ふぅと小さく息を吐いた。

「じゃあ、頼めるか」

「ん、分かった! じゃあコレット、行ってくるね! 帰ってきたときまた寄るから、その時までに起きててくれてもいいからね!」


 握っていた手を布団の中に入れ、その隙間もきちんと閉じる。瞼が震えもせず、小さな寝息を立てるだけの呼吸は近づかなければ聞こえない。

 職人が丹精こめて作り上げた人形のように美しい姿だ。整った眉に、瞳に、鼻に、口。本当に綺麗だ。だけど私は、この完璧な瞳が吊り上がったほうが好きだ。この唇がぐわっと開き、私を叱ってくれるほうが好きだ。瞳は、閉じられているより、開いているほうが大変好みである。



 見て分からなかった以上、中から確認するしかない。他からの介入でこうなっているのなら、何かしらの痕跡があるはずだ。だけどそれを検査する機会もなければ、見られる目を持つ人も私しかいない。だから、私が眠って直接確認できたら一番いい。


 ロベリアが開けてくれた扉から廊下へと出る。瞬時におどおどびくびくした態度へと変化させたロベリアは、いつもながら凄い。凄いと思うのは変わらないのに、どこからどう見てもびくびくしながら口調は普段のまま喋る奇妙な状況に、私もすっかり慣れてしまった。


「王妃様、ほんと無茶だけはすんなよ。俺、護衛任務それなりに経験あるけど、傍につけなくて不安になるの初めてだよ。王妃様、何やらかすか全く想像つかねぇのがほんと怖い」

「必要なことだと思ったのなら無理は止めない、だけど無謀だけはするなってお母さん達に散々言われたから大丈夫。しない。たぶん」

「最後がなきゃ完璧だったんじゃねぇかな」

「だって、何が無謀かやってみないと分かんないんだよー!」

「うわぁ……王妃様、ほんっっっっっっと無茶だけはしないでくれよ!? 流石の俺も、夢の中まで護衛したことねぇからな!?」


 そりゃそうだ。おはようからおやすみまで見守ってくれる全ての存在も、夢の中は管轄外であろう。私はキリッとした顔で答えた。


「努力義務は果たします」

「王妃様……」


 ロベリアも負けじと真面目な顔でキリッと答えた。


「努力義務じゃなくて、実刑判決でるやつだかんな」

「嘘ぉ!?」

「ほんと。破ったら牢屋な」

「寝ながら!?」

「寝ながら」


 レミアムの刑罰厳しい。むしろロベリア法が厳しすぎる。しかし、「ロベリアは厳しいねー」とルスランに振ってしまったのは私の今世紀最大のミスだったと思う。これからやらなきゃいけない仕事に緊張していたのかもしれない。

 そして聞かされるルスラン法の厳しさたるや。極寒の地でももう少し温かいと思える判決に、私はロベリア法が適用されるロベリア司法の国への亡命を考えた。考えただけでルスランにばれてチョップを食らった。ルスラン司法の法治国家、厳しい。






 ロベリアとマクシムさんは廊下へと出て行ったため、部屋の中には私とルスランだけが残っている。見慣れたルスランの寝室は、不思議な雰囲気に様変わりしていた。壁の四隅に大きな石があり、その石を繋ぐように小さな石が一直線に浮いている。明かりが絞られた部屋の中は、壁の石のぼんやりとした明かりだけが光源だ。ゆらゆらとゆらめく光の中心にベッドが置かれている。この幻想的な光の中心で私は眠るのだ。

 ……どう見ても生け贄の儀式にしか見えない。眠るために羊を数えることは吝かではないが、生け贄の羊になるつもりはさらさらないのになんてことだ。



「この石なに?」

「色々」

「色々……」


 それは何の説明にもなっていないけど、突っ込んでいいものか。

 こっちで着替えたドレスより格段に動きやすい服の襟を開ける。これから眠るのに襟が締まっていると寝苦しい。

 自前の服にも動きやすい服はいっぱいあったけれど、夢の中の状態が分からない以上、異国の服を着てうろつくのはやめたほうがいいと言われたのだ。髪はどうしようかなと悩んだけれど、とりあえず解いたままにする。髪をひっつめて眠ることに慣れていないのだ。


 促されて、ベッドに座る。その私の横にルスランも座った。部屋には明かりがついていない。用途色々の石が浮かべるほんのりとした明かりだけが光源だ。


「お前に介入があろうがなかろうが、三時間経ったら起こす。その後、休憩を挟んで睡眠を繰り返してもらう」

「うん、分かった」

「腕を出せ」


 言葉も抑揚も少ない声で喋るルスランは、王様をやっているルスランみたいだ。言われたとおり両手を差し出せば、片手でいいと右手はペしりと叩き落とされた。無情である。


「逮捕でもされる気か、お前は」

「罪状に心当たりがありすぎて……」

「レミアム王を誑かした罪か。大罪だな」

「レミアム王のたくわん一枚ちょろまかして私の分にした罪かな……おいしかったです!」

「…………道理で俺の分が少なかったわけだ」


 正直に罪を告白した私の腕を、かしゃんと音を立てた何かが覆った。逮捕か手錠かと視線を落とせば、私の左手に綺麗な腕輪がついていた。楕円形の大きな青い石を細い糸のような銀色が編み込むように覆っている。銀色のレースみたいだ。


「これ、何?」

「俺とお前を繋ぐ目印だ。絶対に外すな。俺はこれを頼りにお前を夢の中から引きずり出す。たとえ介入があったとしても、最初から命綱を渡しておけば引っ張り出せるはずだ」

「ふーん……よく分からないけどよろしく!」


 自分に出来ないことを人任せにすることには全く抵抗がないので、躊躇なくルスラン任せにする。ルスランは苦笑しながら、青い石を指先で突いた。その腕には、私と同じ腕輪が嵌まっていた。


「ちなみにこの中に入っている、俺とお前の絆は何でしょう」

「たくわん?」

「………………どうしてそれが絆になると思った? お前本当に色気も何もないな。答えは契約書だ」

「契約書に色気ある!? たくわんとどっちもどっちじゃない!?」

「俺とお前しか関わらず、俺とお前だけで構成され、俺とお前だけで完結する物と、切り分けられて食ったら終わりのたくわんを一緒にするな」


 色気的にはどっちもどっちだと思う。



 私は青い石をまじまじと見つめる。てっきり寝ぼけて回収されたと思っていた契約書が、まさかこんな所で役立つとは。あの紙が何をどうやったらこの青い石になるのかはさっぱり分からないけれど、それはどうでもいいことだろうなと流すことにした。


 しかし、私はそれを流したのに、ルスランからは契約書は簡単に人に渡すな、内容を変更する際は一緒に確認しろ、そもそも既にサインを入れた契約書を変更する場合は新しく用意された物に改めてサインしろ、その際にはしっかり日付を確認しろと念を押しまくられた。

 全く流してくれないルスランにくどくどお説教を受けながら、逃げるようにベッドへ潜り込む。急いで潜り込んだので、靴を揃える余裕がなく足だけで脱いだ靴はベッドの下へと落下した。ぼとぼとと靴が落ちた間抜けな音が聞こえる。

 ルスランのベッドはやっぱり大きくて、端っこに入るだけで充分なスペースが確保できる。真ん中まで行くには気力と体力が必要だ。据わりのいい場所を探して身体を落ち着かせ、ルスランを見上げる。


「お説教を子守歌にしたら悪夢見そう」

「魘されたら起こしてやる」

「お説教止めるって選択肢は!?」


 ルスランはちょっと考え「まあ、今回はこの辺にしておくか」と不吉なことを言って締めた。

 次回に続くのかとげっそりした私の頬を、ルスランの両手が挟み込む。この人、手大きいなとしみじみ思う。眠っていたときの子どものような熱が籠もった温かさはなく、少し冷えた手に頬を挟まれ、視線を動かせなくなる。元より動かすつもりはないので、固定してくれてちょうどいい感じで楽だ。

 見上げた先で、ルスランの唇が薄く開く。けれどすぐに閉じられた。何かを言おうとしてやめた。そんな感じだ。結局、ぐっと何かを飲みこんだ後、話し始めた。その流暢な様子を見るに、最初に飲みこんだ言葉とは違うんだろうなと気づいたけれど、私は何も言わなかった。



「月子、無茶だけは本当にしないでくれ。まずいと思ったらすぐに俺の名前を呼べ」

「特に変なことのない普通の夢だったらどうしようね」

「それが一番いいと思ってしまう辺りが、俺の駄目なところなんだろうな」


 苦笑した顔が近づいてくる。額が合わさり、少しの重さと掌よりは温かな温度がじわりと移った。頬を包む掌の温度が低いのは、緊張からだと気づく。

 私はルスランの手を縫うようにその頬へと手を伸ばす。されているのと同じようにルスランの頬を包む。私の腕にある命綱と、その先であるルスランの青い石がうっすらと光る。


「この件が見事解決したら、私はちょっとくらいは役立つ日帰り王妃になれますか」

「英雄だな」

「格好いい二つ名つけてね」

「日帰りの月子」

「ただの定時退社!」


 後頭部に力を入れて枕を潰し、ちょっと出来た額同士の隙間をごつりと埋める。威力極小の頭突きを受けたルスランは笑うだけだ。ルスランの長い髪に遮られて、周りはよく見えない。虫除けの蚊帳みたいだ。この蚊帳は本体が強靱すぎて、蚊を阻むどころか消滅させられる優れものだ。


「ちゃんとおはようって言うから、頑張れって言ってほしい」

「…………頑張れ月子……頼んだぞ」

「うん! おやすみルスラン!」

「おやすみ、月子」


 額に落ちた唇の感触を最後に、私の意識はすぅっと落ちていった。









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