49勤
「お肉とお魚、どっちがいいと思う?」
全力疾走でスーパーに辿り着き、息も絶え絶えな私にかけられたお母さんの第一声がこれである。
「若い子はやっぱりお肉かな。汁物は……ルスラン以外はお味噌汁は食べ慣れてないから、コンソメ味のほうがいいかな。ちょっと月子、一緒に考えてよ」
「な、なん……げほっ……なん、で……」
「唐揚げかなぁ。でも、寝起きに揚げ物ってつらいか……照り焼きか豚の生姜焼きにしようか。お肉見て決めよーっと。後はサラダと……もう何品かいるかな。何がいいと思う?」
「ぜぇ……なんっ、はぁ、なっ……げほっ……」
「ポテトサラダでもつけようか。それともコロッケくらいがっつりいったほうがいいのかな。肉じゃがはどうかな? おひたしは好き嫌い分かれるかな。きんぴらごぼうはいけると思う? ルスランは好きなんだけど、あの子ちょっと甘党だからねぇ。他の人の舌に合うかは分からないよね。まあいいか。駄目そうなら卵焼きとか追加するってことで、とりあえずはこれでいこう」
「なんでこんなことになってるの!? 後、ルスランが食べてる物なら二人とも何でも食べると思うよ!」
息も絶え絶えな娘を放置して、献立が決まっていく。しかも、一応質問形式を取っているように見せかけて、その実私からの答えは全く必要とされていない。私は荒い息しか吐いていないのに、献立は決定したようだ。
なんとか呼吸を整えて立ち直った私に籠を乗せたカートを渡しながら、お母さんはさあねぇとのんびり言った。
「仮眠取らせてくれだって。お布団用意したら全員お礼言ってすぐ寝ちゃったから、詳しい話聞いてないの。疲れてたよー。いま三時だから、六時に起きるみたい。それくらいだったら夕飯にしちゃっても問題ないでしょ?」
「いや、まあ、はい……もういいです……」
駄目だ。お母さんから情報収集するのは諦めよう。この様子だと、お母さんも事情を聞いてはいないのだろう。
私はカートをつきながら、どさどさと籠に入れられていく食料品を眺める。野菜コーナーからスタートしたので、籠には野菜ばっかりだ。さて、夕飯は照り焼きになるのか豚の生姜焼きになるのか。それは神(肉コーナー)のみぞ知る。
ルスランがマクシムさんとロベリアをこっちの世界に連れてきて、こっちで寝た。言葉にすればそれだけである。だけどそれがどれほどのことか私は知っている。
長い付き合いなのに、ルスランがあっちの世界のことを私達の家に持ち込んだことはなかった。必要に迫られて私を王妃に据えた後、行き来が出来るようになってからも、ずっと。
きっぱり線引きされた世界。レミアムのことを持ち込まないと決められた世界が、私達の家だった。
「お母さん」
「ん?」
「マクシムさんもロベリアも、ご両親いないの。友達のコレットも、そうなんだよ」
「そう。だったら余計に、月子はいつも通りにしてなきゃ駄目ね」
「……うん」
お母さんといるときに他の人への態度が変われば、それは気遣いではなく嫌味だとお母さんは言った。私は、いつも通りいようと気合いを入れる。
何かはあった。確実に何かはあったのだ。
何があったかは今の段階では分からないけれど、何も聞かず寝かせてあげたのは、それがお母さんのやり方だからだ。きっとお母さんだって分かっているのだ。だから何もルスランから聞いていないのだろう。ルスランが言うまでは何も。だから私も、私のやり方で彼らを受け入れようと思う。
そうまずは、起きた彼らのエネルギーとなるご飯の材料を買う手伝いをすることである。
そう決意したのはいいが、醤油に砂糖に塩に料理酒にみりんにお酢にだしに味噌に焼き肉のタレにソースにマヨネーズにケチャップに缶詰各種に牛乳に野菜ジュースにヨーグルト大、じゃがいもに人参にカボチャにキャベツに林檎にゴボウに大根にしょうがにニンニク、お買い得洗濯洗剤×2に食器用洗剤×2、肉たくさん、冷凍食品半額お人家族様10袋まで、お父さんのビール六本セットにお母さんのワインに水ペットボトル2リットル×3。
ラストに米袋を持ってきたお母さんに、私は決意という名のカートを放り出してダッシュで逃げ出した。秒で捕まった。人手を捕まえてここぞとばかりに重たい物ばかりを買いこんだお母さんは、狩人の目をしていた。怖かった。そして重かった。
「おお……ほんとにいる……」
千切れそうなほど酷使した腕を摩りながら、足音を殺してそぉっと自分の部屋に戻ると、ベッドがこんもりと膨らんでいる。
先に情報を聞いていなかったらホラーだったとしみじみ思いながら、そぉっとそぉっとクローゼットを開けて着替えを取り出す。制服のままずっといるわけにもいかないのだ。
まだ明るいけれど、カーテンが閉め切られた部屋の中は薄暗い。カーテンの隙間から漏れ出た光の筋の中で、細かな埃がきらきら舞っている。
着替えだけを持ってこそこそと部屋から出ようとしたら、こんもりの山の形がさっきと変わっていることに気づいた。ちょっと平らになっている布団の隙間から、カーテンの隙間から漏れ出た光みたいにきらきらしている白銀色の髪がはみ出ている。
何気なくその色を視線で辿っていくと、見慣れた顔があった。そこにある見慣れた瞳がうっすら開いている。
「起こしてごめん。着替え取ってただけだから、まだ寝てていいよ」
どこかぼんやりしている瞳に、半分寝てるなと判断して、声を顰めてそぉっと話しかけた。
内緒話のような呼吸に微かな音を乗せただけの言葉を聞いたルスランは、頷く代わりなのか、ゆっくりと瞬きした瞳を柔らかく細め、再び目蓋を閉じた。
「おかえり」
「ただいま。寝ていいってば」
目蓋を閉じたまま喋るルスランに苦笑する。ぐずるように顔を少し振り、枕に擦りつけているので寝ぼけているのかもしれない。
「寝るさ……寝る、けどな……月子」
ちょいちょいと手招きされて、仕方なく顔を近づける。もそもそと動いたルスランの顔が耳に寄り、ぼそぼそと半分以上寝ているのではないかと思う声が言った。
首を傾げつつ、一旦離れて机に向かう。伸ばした指先をちょっと彷徨わせる。青と緑どっちのファイルだったかなと悩み、確か青だと引っ張り出したファイルの中に目的の物を見つけて引っこ抜く。そのままルスランに手渡せば、ルスランは満足そうに頷いてそれを折り目通りに畳み、自分の懐にしまい込んでしまった。
「何か変更するの?」
「うん……」
「変更内容教えてよ?」
「うん……」
結局ろくに返事もしないまま再び寝入ってしまったルスランに力が抜ける。これ、寝ぼけているだけで起きたら全然覚えていなかったらどうしよう。
起こすわけにもいかず、そっと部屋を出る。いつもは後ろ手で適当にぱたんと閉める扉を、最後まで取っ手にこめた力を抜かず、極力音を立てないようふわりと閉める。
任務完了。
ほぉーっと息を吐き力を抜いたら、物置になっている隣の部屋の扉が少し開いていた。薄暗い部屋の中がうっすら見えるその隙間に瞳が見えて、びくっと身体が跳ねる。
だが、よく見るとこれも見知った目だった。
ほっと身体の力を抜く。薄く開いていた扉がもう少し大きく開く。悪い悪いと謝るように手を振るロベリアに、口パクで「おやすみー」と告げると片手で挨拶された後、扉は音もなく閉まった。
護衛って大変だなぁと思って階段のほうを振り向けば、そっちにある両親の寝室の扉もうっすら開いていた。
これまたびくっとなった私に、ロベリアよりも大きく扉を開けたマクシムさんが丁寧な礼をしてくれた後、部屋の中に戻っていった。
これまた音もなく閉まった扉を見た後、身体の力が抜ける。二連続で驚かされた私はバクバクと鳴る心臓を着替えの上から押さえながら、護衛って大変だなぁと改めて思った。
最初に降りてきたのはロベリアだった。眼帯姿の男の子の格好だ。
食器を配膳していた私は、リビングの扉の前に立っているロベリアに気づいて声をかける。
「おはよ、ロベリア。眠れた?」
「ん、まあ。突然ごめんね、王妃様」
これはあんまり眠れなかったと見た。マクシムさんも同じかもしれないなぁと、もしかしたらもう起きているけれどルスランが二階にいるから降りてこないのかもしれないマクシムさんを思う。
護衛である彼らからすれば、初めて会う人の家で寝ることも、そんな場所で王様であるルスランを寝かせることも、気が休まらないことなのかもしれない。
せめて同じ部屋だったらまだよかったのかもしれないなと、三人が私のベッドでぎゅうぎゅう詰めになっている姿を想像する。あまりにもベッドが可哀想で泣けてきた。
その間も、ロベリアの瞳は忙しなく動いている。さりげなく見ているのだろうが、いつも見慣れた瞳の動き方が違うと意外と分かるものだ。
「ところで、どうしてその姿なの? 珍しいね」
いつもの女の子の姿でないことを不思議に思って聞けば、ロベリアは「あー」と曖昧な声を上げながら頭をがしがし掻いた。
「実は、剣も黄水晶もルスラン様に取り上げられちゃったんだよね」
「え、そうなの?」
「この家に物騒な物持ち込むの禁止、だそうです」
それはさぞかし心許ないだろう。私の家を信用しているか否か以前の問題だ。ロベリアとマクシムさんがぴりぴりしていた理由の大半はこれが原因な気がする。
だからといって、家の中で武器じゃらじゃら持ち歩かれても複雑な気分なので、これに関してはルスランの判断に任せたほうがよさそうだ。
「あー。この国ね、銃刀法違反っていって、武器は持ち歩いちゃ駄目な法律があるんだよ。刃物も、何センチだっけ……正確な大きさ忘れたけど、大きいの駄目なの」
「うわ、物騒! 襲われたらどうやって身を守るんだよ」
「うーん、それややこしい話だから今度にしよう!」
身を守るために武装すれば、襲ってくるほうも武装してくることになる、という論争は未だ答えが出ない難しい話だから、今は措いておいたほうがよさそうだ。
「ロベリア、そこ座ってて。私ルスラン起こしてくる。あ、なんか飲む? おかぁさーん、ロベリア起きたー。私、二階行くねー」
「はいはーい。ロベリア君、お茶がいい? ジュースがいい? 冷蔵庫から好きなの選んでもいいからねー。あ、月子、ルスランにお風呂入っていくか聞いてきて」
「はーい……着替えどうすんの?」
「ふっふっふっ……ルスランがいつ泊まりにきても言いように、パジャマから外着まで完備してるわ。けどスーツは流石に無理だから、今度採寸行くわよ! 遅い成人祝い! 絶対3ピース!」
「それお母さんの趣味だよねー」
ロベリアをソファーに座らせ、後のことはお母さんに任せる。
時刻はちょうど六時だ。そろそろ起こしたほうがいいだろう。マクシムさんがもしまだ寝ていたら、彼を起こす役はルスランに任せよう。
二階に上がると、ルスランの寝ている部屋であり私の部屋の前でマクシムさんが立っていた。廊下に仁王立ちになっている人がいるとわりとびくっとなるんだなと、この先役に立つのか立たないのか分からない知識を得た。
「おはようございます、マクシムさん」
「突然の押しかけた挙げ句、ご迷惑をおかけしてしまい本当に申し訳ございません。本来ならばすぐに事情をお話すべきではありますが、後ほどルスラン様よりご説明頂けますかと」
いつも通りぴしっと背を伸ばした綺麗な姿勢だけれど、何だか違和感があるなと思うのは、腰に大きな剣がないからだろう。いつもと変わらないように見えるのに、心なしか居心地悪そうである。
「分かりました。ルスラン起きてますか?」
「恐らくはまだお休みです」
「じゃあ起こしてきますね。先降りてもらって大丈夫ですよ」
「いえ、私はここで」
生真面目な返事は予想通りだ。何の変哲もないうちの廊下に仁王立ちになっている、いつも通り真面目なマクシムさん。何もかも予想の範疇から飛び出していないのに、凄く不思議な気持ちになってくる。だが、いつも違うこともあるのだ。
私は、マクシムさんの後ろに回り、その背をぐいぐい押した。押されるまま素直に階段へ進んだマクシムさんが不思議そうに振り返ってくる。だが、彼が何か言うより早く畳みかけた。
「ルスランは私が引っ張っていきますから、お客様はさっさと下にどうぞ。夕飯食べていきますよね?」
「は? いえ、そこまでご迷惑は」
「もう作っちゃってるんで、とにかく下行ってください。お母さんが張り切っちゃって」
ここはルスランのお城ではなく、我らが春野家のお城である。家主の意向は強いのだ。
ぐいぐい階段まで押すと、何度か躊躇っていたマクシムさんは諦めてくれた。最後にちらりと私の部屋と私を見て、小さく息を吐く。
「それでは……お願い致します」
「はーい。マクシムさん顔色悪いんで、とりあえず温かいお茶飲んでてください。おかぁさーん! マクシムさん追加ー!」
「はいはーい」
一階に向けて叫べば、すぐに返事が返ってきた。マクシムさんはまだ少し躊躇っていたけれど、階段の上で仁王立ちしている私を見て、諦めて降りていった。すぐに下から食器が醸し出すかちゃかちゃとした音と水音が聞こえてきた。
それを聞きながら、自分の部屋にそぉっと入る。
扉を閉めれば、階下から聞こえてくる音は遮断される。しんっと静まりかえった部屋は、着替えを取りに来たときと変わっていない。ルスランが眠っている体勢も変わっていないので、かなり深く眠っているようだ。
寝かせてあげたいのはやまやまだけれど、寝かせた間の後始末をつけてあげられないので心を鬼にして起こすしかない。
容赦なく電気をつけると突然の眩しさで呻いたルスランが寝返りを打つ。暗闇を求めて潜っていく逃げ場所を奪うため、掛け布団を引っ張り落とす。
「おはよー、六時だよー」
「……………………………………ああ」
「お母さんが夕飯作ってるから起きて。ロベリアとマクシムさんは先に行ってるから。後はルスランだけだよ」
しばし沈黙が落ちる。まだ俯いたままだから顔は見えない。やんごとなき幼馴染みの顔が埋もれているせいで、普段使っている私の枕が高級品に見えてきた。
「………………そこまで、迷惑かけるつもりは、ない、ぞ」
「ほら起きて。もう作ってるよ。食べてもらえないとめっちゃくちゃ重い買い物袋持って帰った私も報われないから、時間あるなら食べてって。三人とも顔色悪いし。ご飯ちゃんと食べてる?」
ルスランはしばし沈黙し、俯いたままぐっと伸びた。がんっと音がして、伸びた身体がぐたりと沈む。壁かベッドかに手足が当たったようだ。王様御用達ベッドのつもりで伸びたら、そりゃ市民御用達ベッドでは幅が狭かろう。手足を打ち付けて痛みに悶えている格好悪い人の髪で遊びながら、ベッドの端に腰掛ける。
「大丈夫?」
「…………三つ編みにするな。この後も仕事だから」
「はーい」
きつく編んでないので指を離すだけでするりと解けた髪を解放する。視線を落とせば、ルスランは寝転んだまま私を見上げていた。
「月子」
「うん?」
その手が伸びてきて、私の頬に触れる。寝起きでいつもより温かい掌が心地よい。触れるか触れないかの距離で生まれるくすぐったさではなく、押しつけられて頬が潰れるほどでもなく、丁寧に触れられた感触が心地いい。
飼い主に撫でられて心地よさげに目を細める動物達はこんな気分なのかなと何となく思う。好きな人の温度は心地よい。それが柔らかく触れているのだから、尚更だ。
触れられているのは私なのに、何故かルスランのほうが軽く目を細めた。
「……お前に、手伝ってほしいんだ」
「うん」
「危険だ」
「うん」
「だけど、やってくれるか」
このとき私は、自分がどんな顔をしたのか分からなかった。
私の顔に現れたものは、胸の中に湧き上がった火傷しそうなほどの歓喜か、何故か泣き出してしまいそうな切なさか、笑い出したいほどの愉快さか、今更だとの憤慨か。
視線を上げて、開きっぱなしの鏡台を確認すれば自分の表情はすぐに確認できるだろう。ルスランが繋がなければあれはただの鏡なのだ。けれど、そんなことをする必要はなかった。
だって、私を見てくしゃりと泣き出しそうな顔で嬉しそうに笑ったルスランさえ知っていれば、他には何も要らないのだから。




