45勤
好きな人と向かい合い抱き合えたら、それはきっと、とても幸せな時間となるだろう。
そう思っていた時期が、私にもありました。
「無理無理無理無理無理! 高い! 怖い! あと明るくなってきた!」
「だから明るく成りきる前に早く島に戻るぞ! 明るくなってきたら逆に見えにくいんだろ!?」
「そうだけど怖いってこれ!」
怖すぎてテンションが振り切れた私と同じくらいの音量でルスランが叫ぶ。。異世界的感覚に慣れてきたはずだったけれど、遙か下方に地面が見える状況には未だに慣れない。それも、足がぷらぷらしている状態に慣れるなんて絶対無理だ不可能だ。
私達はいま、空にいた。比喩でも詩的な表現でも夢見る少女でもない、文字通り空である。
ルスランに抱えられた私は、島の周りを旋回していた。
さっきは映像で見ていた光景が目の前にある。映像で見ていたときより何倍も大きく見えるし、千倍は高く思えた。私の命綱はルスランの腕二本、たまに一本、と、その首に縋りつく己の腕二本、と、たまに両足だ。全力全身を使い、手足全てでルスランにしがみついていたら、身動きがとれないからせめて足は外せと言われたのだ。足は予想外だった、とも。
「見えるか!?」
「見えるけど怖いー!」
「手元にある映像に印をつけ終わったらすぐ上に戻してやるから頑張れ!」
「頑張るー!」
海の上だからか、それとも単に上空だからか、風が強いのもまた恐怖を煽る。髪がばたばたとなびき、顔に当たるたびに痛みをもたらす。私より長い髪のルスランの髪は、風で暴れ回っても美しく広がっているのに、私の髪は大暴れで落ち武者状態である。
どうでもいいけれど、河童って実は落ち武者を指していたんだと授業の雑談で聞いたんだけど、本当なのだろうか。
ひときわ大きな風が吹き、髪の束が私の顔面をべしりと叩いた。しなりがあって美しい白銀色だから、ルスランの髪だ。今なら先日のロベリアに言える。髪は充分武器になる。さっきのルスランの髪なんてまるで鞭だった。めちゃくち痛い!
「お前は自分と同質の魔力なら見えるらしいな!」
「ルスランの魔力が見えなくて逆によかった気がしてきた!」
「どうしてだ!?」
「凄く眩しい!」
ルスランの首に縋りついているから、顔面をかばうことも出来ず、痛みに呻きながら前方を見る。
やっぱり、間近で見ても石は光っていた。ここだけまるで昼のようだ。懐中電灯で顔を照らされているくらい眩しい。その石から、細い線が延びている。映像で見たときよりは太く見えるけれど、綱引きの縄より断然細い。遠目で見たら糸に見えるはずだ。蜘蛛の糸は名作だけど、この糸には何が上ってくるのだろう。
「糸の位置は大体真下で合ってるか!?」
「うん! 真下ー!」
「どこか他の方向に伸びているものは!?」
「無いー!」
渦巻く風の音が大きすぎて、こんなに密着しているのにお互いの声が聞き取りづらい。耳の中に風が入ってしまったみたいに、すぐ間近でごおごおと風の音が聞こえる。
「本当に無いな!?」
「無い……無い!」
どの光もほぼ真下に向けて伸びていて、例外は無い。周囲はまだ日が昇っていないから暗いけれど、この島の周辺だけが明るい。一足早くに現れた太陽のようだ。島の表層部も明るいし、底面も煌々と輝いている。
だけど底面に関しては私にだけ明るいらしい。光に紛れて見えにくい光の線を必死に辿り、返事をし直す。
ルスランは一つ頷いて、町中を走り回ったときのように空中に土台を作り、勢いをつけて島の上にまで飛び上がった。
「っ――!」
胃の中が空っぽでよかった。臓器が、特に胃が口から飛び出しそうだ。
島の上に戻ったら、ロベリアとマクシムさんが駆け寄ってきた。私はかなりそっと地面に下ろしてもらったのに、グロッキー状態から抜け出せない。
目が、回る。吐きそう。おえ。足が震える。こけそう。どべしゃ。自分の思考を一個一個丁寧に頭の中に思い浮かべて、ようやく落ち着いてくる。
「ロベリア、マクシム。月子につけ」
「畏まりました」
同じ言葉が二人分重なった。私の背中を摩ってくれているロベリアの手が、一旦止まる。次いで頭に降ってきて、ぼさぼさになった髪を直すように梳いているよく知った手に、青ざめた顔を上げる。
「寒かったか。ごめんな」
「寒さをいま思い出した……」
「そうか」
ルスランは一度膝をつき、自分が羽織っていた上着を私に掛けた。
「ありがとう」
「ああ、じゃあ行ってくる」
そんな、駅の階段上るみたいな気軽さで空に上がっていかないでほしい。
掛けてもらった上着に袖を通そうか、肩に掛けたままでいようか、そんな恐らくはどうでもいいことを悩んでいたら、急にひやりと寒くなった。冷凍庫を開けたとき、下に流れてくる冷気が足に当たったみたいだ。だが、冷気はそれだけでは収まらない。一気に鼻が痛くなるほど寒くなる。
「うお、はえぇ!」
ロベリアが慌てて上を向いたのにつられて、私も視線を上げた。
ぐるりと、島を氷のつららが囲んでいる。巨大なつららが等間隔で島を囲んで並び、その中心にはルスランがいた。無意識に吐いた息が白い。私は、ルスランが掛けてくれた上着の前を握りしめた。
町は静まりかえっている。明かりはついているから眠っているわけではないのだろう。けれど、誰も建物から出てこない。外出禁止令が出ているのだろう。
町に立っている人は、制服を着ている人ばかりだ。その人達は皆、白い息を吐きながら脅えるように、陶酔するように、上空で氷を生み出す白銀の人を見上げた。
光る白銀が、まるで氷の中心だ。氷の王のような人は、島を囲む氷と同じほど冷たそうに見える。だけど、あの人は温かいと、私は知っているのだ。
大量の氷が、一斉に海上に向けて落下する。いや、ただの落下ではない。的確に尖った面が下を向き、氷同士は触れ合うことなく、獲物を貫く牙のように海上に食らいつく。凄まじい水しぶきが上がった。はるか下方で起こった衝撃音がここまで聞こえてくるほどだ。
「相変わらず、あの方はむちゃくちゃだなぁ。さて、やったかな?」
それフラグっぽいなぁと思いながら、ロベリアが手元に用意してくれた空飛ぶ画面を覗き込む。噴水が噴き出したみたいに上がった巨大な水柱と、白く散った滴が混ざり合った海面に目を凝らす。
日が昇ってしまえば今よりもっと見えづらくなってしまう光の線が、水飛沫の間にきらりと見えた。
「ま、だ!?」
私の身体が、凄い力で引っ張られた。
お腹周りに何かが巻き付いた。夜明け前の地面に落ちた影は、私の上をマクシムさんが飛び越えたからだ。座ったままだったのにつんのめった私の身体を真っ正面から抱え込んだロベリアが、いつの間にか剣を抜いていた。黒髪に眼帯の少年姿になっている意味を、一拍遅れて気がつく。
この周辺だけ、ぽっかり切り抜いたかのように明かりが消えている。同じ現象に一度遭遇した。
黄水晶を無効化する、黄喰いだ。
「うわっ!?」
「王妃様!」
ロベリアと抱き合う形で掴まれているのに、身体が後ろに引っ張られる。お腹から折れるように後ろに引っ張られ、身体がくの字になった。ロベリアが全体重掛けて引っ張ってくれるのに、止まらない。
「な、なに!?」
「くっそ、触れねぇぞ! なんだこれ!」
「何が!?」
わたわたとお腹周りを触ると、じゃらりと鎖が巻き付いていた。私の背後に伸びている部分をロベリアが掴もうとしているのに、その手はまるでぶれているかのように鎖に触れることは出来ない。私はがちゃがちゃと鎖を揺らしているのに、外すことは出来ない。
暗くてよく見えないけれど、感触は鉄そのものだ。だけど、ロベリアが掴めていないということは、本物の鉄では無いのかもしれない。得体の知れないものに腰に巻き付かれ、しかも後ろに引っ張られる恐怖は、初体験だ。
「王妃様、少し耐えられるか? 耐えられるなら、あいつ殺しに行く」
「ごめん、無、理、手、離されると、後ろ吹っ飛びそうっ」
「くそ、駄目か。あっちが風上なのが痛いな…………王妃様、つかぬこと聞くけど」
「な、に?」
「毒の耐性ある?」
「皆無!」
「だよなぁ。風下だし、王妃様の被害のほうがでかいから駄目だな」
座ったままの私を抱えているロベリアごと後ろに引っ張られた私の背中が、マクシムさんの足に当たって止まる。私を飛び越えて仁王立ちしているマクシムさんは、私とロベリアが纏めてぶつかってもびくともしなかった。
暗闇をじっと見据え、剣に手を掛けている。
「月子!」
空から聞こえてきた声に、はじめてマクシムさんが反応した。
「ご自分の仕事に専念してください。こちらは私共で対処致します」
「だが」
「人に任せることも出来ぬ人間が、世界から何かを守れるとお思いか。王妃様をお守りしたいのであれば、我々を利用するくらいの気概を見せて頂かねば。ルスラン様は、もう一度当家のあり方を思い出すべきではありませんか。ゴルトロフは、王家の意向に沿い、主に添う王家の犬。貴方の名を違えると思われるとは、それはゴルトロフへの侮辱です」
自らをきっぱり犬扱いしたマクシムさんに、ルスランはぐっと言葉を飲んだ。何かを堪え、小さく吐き出す。
「マクシム、任せた」
「御意」
私とロベリアを足にひっつけたまま、マクシムさんは剣を引き抜いた。
「ロベリア、黄喰いを探せ」
「ですが、王妃様が」
「マクシムさん、の、足をお借り出来るなら、ちょっとは、持ちます、よー」
喉が掠れて少し咽せてしまった。マクシムさんの足にコアラよろしく抱きついている私は今、世界で一番かっこ悪い。
「私の足で宜しければ、如何様にもお使いください、王妃様」
「お借り、します」
お腹が苦しくてぐえっとなるけれど、びくともしない足にしがみついているだけ安心感が凄い。そんな私に、ロベリアは頷いた。
「王妃様、俺が黄喰い見つけるまで力尽きんなよ」
「出来るだけ、早く、お願いしますっ!」
必死の形相で発した答えを聞いたロベリアは、おうっと返事をして闇の中にするりと消えた。
「足にお邪魔して、すみません……」
「こちらこそ、腕にお抱えすることが出来ず申し訳ございません」
「マクシムさん、せっかくかっこいいのに、私がかっこ悪さを添えてすみません!」
「必死な姿が格好悪いとは思いませんが、格好良かろうが悪かろうが、生きてあの方の元に帰ってくださるのならば、後のことはどうでも宜しいかと」
「確かに! 仰るとおりですね!」
さすがルスランと長い付き合いの人だ。まったく仰るとおりである。マクシムさんは、何がルスランにとって一番大切なのか、はっきり分かっている人だ。武闘派メリーさんかっこいい。
私の鎖が繋がっている先、暗闇の中で、影が揺れた。
「斬るつもりかい? 無駄だよ、そいつは協会の特別製だからね」
聞こえてきた女性の声に聞き覚えがあった。どこで聞いただろうと記憶を辿っている間に、近づいてきた女性の顔を見て思い出す。お祭りで、お店を教えてくれたお姉さんだ。
お姉さんは、無言で投げつけたマクシムさんの魔術を片手で防ぐ。何かの魔術は、花火の終わりみたいにぱらぱらと火花を散らして暗闇に消える。
「島の下に設置してあるのも、当然協会特別製さ。黄喰いの中でも魔力が使える、新しい石だってさ。見てみなよ、かのルスラン王の一撃にも耐えうる石の力を!」
お姉さんは、楽しげにお店を教えてくれた時とはまったく違う、歪な笑みを浮かべていた。まさに邪悪! としか言えない、怖い笑みだ。こんな顔で足は豚足なのかなと思って視線を戻せば、麗しい人間のおみあしだった。豚足の呪いは解けたらしい。
「……教えてくれたお店、おいしかったです」
「――そうかい。あんたが王妃様だなんて知らなかったんだ。ごめんよ。知っていたら、いい人になんてならなかったのに」
お姉さんが長い爪の先を動かすだけで、お腹に巻き付いた鎖がお姉さんの方向に引っ張られる。マクシムさんの足がなければ、とっくにお姉さんの元に辿り着いていただろう。
お腹が締めつけられて苦しい。今まで気づかなかったけれど、私に巻き付いた鎖は、私の前にいるマクシムさんの足を貫いていて、ぎょっとする。だけど、マクシムさんはまったく痛そうではないし、血も流れていない。服も破けていないから怪我はしていないと思うけれど、見ていて気持ちがいい光景ではなかった。




