39勤
宛がわれている部屋に戻るまで、ルスランは無言だった。コレットの部屋に来たときは沢山の人がいたけれど、いつの間にかついてきているのはマクシムさんとロベリアだけになり、その二人も部屋に入る前に扉が閉められてしまう。
「ルスラン、痛い!」
部屋に入ると同時にべしっと叩いて、私の腕を掴む手を振り払う。今度はすんなり外れた。激痛が走るというわけではないけれど、ついていかないと痛みを覚えるくらいにはしっかり握られた腕を摩る。
「ルスランお昼食べた? まだだったら一緒に食べる? でも私、朝いっぱい食べた上にさっきお茶とお菓子頂いちゃったからお腹張ってるんだ。だから私は軽くになっちゃうけど、ルスランはどうする?」
そう聞いても、ルスランは何も言わない。少し俯きがちに、けれどじっと私を見ている。今更沈黙が苦になる関係ではないけれど、問いかけに沈黙で答えられれば困るのに関係性は関係ないだろう。
仕方がないので、次の話題を持ち出す。
「それとさ、私、コレットに王妃様の勉強教えてもらおうと思うんだけど、いい?」
「駄目だ」
即答である。さっきの沈黙は一体何だったんだと思うほどの即答だ。
外に出ていたというルスランは、普段とさほど変わらない格好をしている。昨日が特別だったのだろう。何を着ても似合っているけれど、こういう服装のほうが見慣れているなと改めて思う。昨日の服の特別感がそのうちなくなるくらい、いっぱい出かけられたら嬉しいなとも。
「なんで? ……コレットからちょっと聞いたんだけど、コレットがオレンさんだから駄目なの?」
「月子、そうじゃない」
「じゃあなんで? 私が、王妃様出来ると思わないから? 私だって今のままじゃ出来ると思わないけど、そのために練習するんじゃないの?」
「月子」
「ねえ、ルスラン。どうして王妃に必要なこと、全然勉強させてくれないの?」
さっき腕を掴まれていたのは私だけれど、今度は私がルスランの腕を掴んでいる。腕といっても、ルスランみたいに腕をまるごと掴むことは出来なくて服を掴むしかない。それでも逃げられないくらいにはしっかり握る。
「月光石とか、なんかそんなのだから、しちゃいけないの? ねえ、どうして? 分かんないよ。ルスランがいっぱい考えていることは分かってるし、いろいろ、私には考えもつかない事情があるのかも知れないけど、言ってくれなきゃ、分かんないよ」
駄目なら駄目と言って。でも、理由も教えて。自分で考えるにも限度がある。何をしていいのかしちゃいけないのか、どうして私は、私達のことを一人で手探りしなければいけないのだ。どうしてルスランは、一人で手探りしてしまうのだ。
「違う、月子。違うんだ。お前は、そんなことをする必要がないんだ。王妃は必ずしも表に出なければならない存在じゃない。病気や機嫌で出てこない王妃だって大勢いるし、いた。だから、お前はそんなこと考えなくていいんだ。お前は、何も変わらなくていい。そのままで、いてくれるだけで」
「どうして私に触らなくなったの」
「っ!」
広い部屋。高そうな家具がいっぱいある部屋。右側がルスランの寝る部屋。左側が私の寝る部屋。だけどきっと、部屋を逆にしていいって聞いたら、あっさり許可してくれるだろう。そんなに近くにいるのに、こんなに一緒にいるのに、本当に大事なことはちっとも一緒にいさせてくれない。
そのままでいい? そのままの私でいい? そうなんだったらどうして、こんなにも、一緒にいる道が閉ざされていくように思うのだろう。
「私、何かしちゃった? 何か、変だった? だったら、ごめん。でも、分かんない。言ってくれなきゃ、分かんないよ」
聞くのは、恥ずかしい。その答えを聞くのは、怖い。変だったなら、つらい。
「分かんない、分かんないよ。何で、どうして? 何にも言ってくれなきゃ、分かんないよっ!」
わがままを言いたいわけじゃない。困らせたいわけじゃない。子どもっぽく、全部人のせいにして暴れ回りたいわけじゃない。一つの間違いも許せず、僅かなずれも許せず、すべて自分の理解の範疇にいて欲しいわけじゃない。
そうじゃないはずなのに、今までの鬱憤が全部弾けたら止まらなくなってしまった。
「付き合ったら遠くなるなんて思わなかった。付き合ったら訳分かんなくなるなんて知らなかった。付き合ったら、ルスランが全部黙り込んじゃうなんて、知らなかった」
「月子……」
「どうして何も言ってくれないの。どうして、私達のこと、一人で悩むの。どうして王妃の勉強しちゃ駄目なの。どうして手繋いでくれないの。どうして、どうして私とのことで、私を弾くのっ! 待てって言ってくれるなら待つよ! 理由を教えてくれるなら、待つし、駄目って言うんなら諦めるよ! でも、なんにも分かんないまま、なんにもしないままただいるだけで、不安になるなって言うほうが無茶だよ!」
目頭が熱い。鼻の奥が熱い。泣きたいんじゃない。怒鳴りたいんじゃない。怒りたいんじゃない。だけど、じゃあどうしたらいいのか分からない。
全部、はじめてなのだ。好きな人が出来たのも、付き合ったのも、王妃になったのも、全部全部はじめてで。何が正しいのかどうしたらいいのか、何が間違っているのか何をしてはいけないのか。何も分からないのに、何も知らないままいろと言われるのは、酷い苦痛だ。
「私は王妃の勉強ちゃんとしたい。私だって、今の私みたいな王妃様いたら嫌だよ。自分の国のこと全然何にも知らない王妃様が王様の隣にいたら、不安になるし王様大丈夫かなって思うし、嫌だよ、私みたいな王妃。そう思われるのは仕方ないって自分でも思ってる。どっか行ってほしいって思われても仕方ないって思う」
「……今日、何を言われたんだ」
「違う。違うよルスラン。私が……私がずっと思ってたの。私は、出来ること増やしたいの。私に出来ること増やして、一人で立てる大人になりたいの。そうしなきゃいけない理由があるなら諦める。だけどそうじゃないなら、少しでも反対されない王妃の方がいいんじゃないの」
「……俺は、お前に変わってほしくないんだ」
「変わったら駄目なの? 変わるって、駄目なことなの? 成長じゃないの? 私が変わるって、悪くなるってことなの? 私は良い方に変わっていけない人間だって、ルスランそう思ってるの? 私、じゃあ、もう一歩も進んじゃいけないの?」
堪えきれなくなった涙がぼろりと落ちた。一滴落ちてしまえば、もう歯止めはきかなかった。ぼろぼろ泣きながら怒鳴る私に、ルスランは酷く苦い顔をした。でも、私は知っている。これは面倒がっているのでも嫌がっているのでもない。酷く、痛いとき、ルスランはこんな顔をする。
そんなことは分かるのに、いくらだって分かるのに。ルスランがどうしたいのか、何を考えてるのか全然分からない。
「ルスランが王様なんだから、付き合うなら高校生として必要なことだけ覚えてたらいいわけじゃないでしょ!? 変わったら駄目なの!? 私、彼女になっても、変わっちゃ駄目なの!? 彼女になっても、幼馴染みの月子のまま変わっちゃ駄目なの!? 私、大人になっちゃ駄目なの!? ずっとずっと子どものまま、なんにも出来ないまま、なんにも知らないまま、誰からもルスランの隣にふさわしくないって思われてなきゃいけないの!?」
そんなの嫌だ。嫌なのに、ルスランは私が変わっていくのをよしとしない。ルスランが嫌なことをしたいわけじゃない。だけどこのままなのも、ルスランを傷つけるのも全部嫌だ。
ルスランが酷く痛そうな顔をするのも嫌なのに、涙も言葉も止まらない。何度も何度も袖と掌で目を擦るのに、それでは追いつかないほどぼろぼろぼろぼろ涙が出てくる。
「ルスランの馬鹿! 私はルスランといられない理由なんて一つも欲しくないのにっ!」
叫んだのと、世界が揺れたのは同時だった。
まるで目眩がしたような、立ちくらみのような感覚に足がたたらを踏む。よろめいた私の腕をルスランが掴み直し、抱き込んだ。頭を胸に押しつけ、膝をつく。揺れているとき、縋るものがあると落ち着く。ほっとする。それが温かければ尚更。
それでも世界は揺れ続ける。かたかたと家具や装飾が小刻みに揺れる音が響いていることに気づいてようやく、これは立ちくらみなんかじゃないと気がついた。ゆらゆらとかき混ぜられるように揺れる感覚には覚えがある。
「地震……?」
「違う。夜ならともかく、昼のこの島に地震は起こらない」
私を深く抱き込んだまま、用心深く周囲を見ているルスランの低い声に、はっとなった。そうだ、この島は宙に浮かんでいるのだ。地震なんかに影響されるはずがない。
揺れはその後、十五秒も続いた。ゆぅらゆぅらとゆっくりかき混ぜられるような揺れ自体に恐怖は感じなかったけれど、突き上げるような大きな揺れが来るんじゃないかと恐怖を促すには十分な長さで。
いつの間にか、外にいたはずのマクシムさんとロベリアが部屋の中にいる。いつからいたのか、まったく気がつかなかった。部屋の扉は開け放たれたままになっている。
二人はルスランのすぐ後ろで膝をつき、気配を探るように視線を動かしていた。
かちゃりと最後まで揺れていた装飾品の音が止まる。揺れが落ち着いた頃を見計らい、マクシムさんが口を開く。
「……協会でしょうか」
「まだ決まったわけではないが……自然現象にしてはあまりに突発的で局地的すぎる。ブランの報告書を見たが、直前まで何の異常も見られなかった」
「ブランを呼びますか」
「いや、そのまま調査に行かせる方が早い。万が一に備えて島にいる人間全てに予備の黄水晶を用意するよう通達しろ」
「はい」
マクシムさんはちらりと私を見た。
「……先に行け」
「はい」
機敏な動作で立ち上がったマクシムさんは、足早に部屋から出て行った。
ずびっと洟を啜り、ルスランの胸を右手で押して離れながら、左手の袖と掌で濡れた顔をなんとかしようと頑張る。さっきは永遠に止まらないと思うほどぼろぼろ出てきた涙は、勝手に止まっていた。後は既に流れ落ちたものをどうにかするだけだ。
「月子」
「……後で、ちゃんと話そうよ」
「ああ……お前の物わかりの良さに甘えててごめん。できるだけ早く帰ってくるから、待っててくれ」
「早くなくていいからちゃんと終わらせて帰ってきて。そうでなきゃ、ルスランの今日の夕食、パンの醤油漬けにする」
「パンの醤油漬け……醤油ないだろ」
「……ある」
「……何でだ」
「……お父さんが、海外行ったら二日の夜には醤油味が懐かしくなって、三日の夜には恋しくなるから持ってけって」
「海外……俺は、泊まりの用意で鞄に醤油入れてきた話を始めて聞く」
「この世界お醤油ないもんね……」
「うん、まあ、そうだな」
立ち上がりながら私も一緒に立たせてくれたルスランは、その指で私の目尻を擦った。私が自分で擦るより何倍も柔らかく擦るから、くすぐったくてむずむずする。もっとごしごしこそげ取るように擦ってくれていいのに、触れるか触れないかの距離で撫でているだけだ。
「ごめん」
何についてのごめんなのかは、全部後で聞こう。
「くすぐったいから! もうっ、早く行く!」
手をぺしりと叩き落とし、くすぐったいを通り越して痒くなった肌をごしごし擦る。そして、ルスランをくるりと後ろ向けて入り口に向けてその背を両手で押す。ルスランは大人しくされるがままだ。
「帰ってきたら喧嘩だかんね!」
「ああ、分かった」
ぐいぐい背中を押す私の頭を、後ろ手でぐりぐり撫で回したルスランは、もう一回ごめんと言ってから部屋を出て行った。
ずびっと洟を啜り、あーっとかすれた声を出す。
「地震びっくりしたね」
「大丈夫大丈夫。もし島が落ちてもそれなりの備えはしてあるから」
「……落ちる可能性あるの?」
「この島はまだ落ちたことないけど、前例がないわけじゃないし、あるときはあるんじゃね? まあ、それだったらブランが見逃すはずがないんだけど……もしかしたら協会の仕業かも知んねぇから、そうなったら王様帰り遅くなると思うぜ。……どうすんの?」
泣きわめいた顔を見られたくないけれど、いつまでも背中を向けているわけにはいかない。往生際悪く、服の裾で顔を拭く振りをして振り向く。ロベリアは床に座ったまま胡座をかいて私を見上げていた。たぶん、膝をついてルスランを見送ったのだろう。で、ルスランがいなくなったから足を崩して座ったのだ。
気が抜けた座り方のロベリアに、私の気も抜ける。思わず、ふはっと笑う。
「ロベリア、日本に来たら楽かも」
「なんで?」
「日本は、基本的に部屋の中じゃ靴脱ぐから、床に座るの」
「あー、それいいなー。でも、靴脱ぐのは心許ないかも」
合わせた足を持って身体を揺らすロベリアの前に私も座る。スカートの裾を押さえて体育座りした。汚れてしまうかも知れないけど今日ばかりは見逃してもらおう。なんだったら、持ち帰って家で洗ってくる。お母さんの手を借りなければならないかもだけど。
「んで、どうすんの?」
「別に……どうもしないよ。ルスランは待っててって言ったから、待ってるよ」
「王妃様と王様の夫婦喧嘩、紙一重ではらはらする」
「喧嘩じゃないよ。まだ、喧嘩にもなってない」
始めたつもりだった私と変わりたくないルスランがすれ違っていただけだ。喧嘩は、お互いぶつかってからが始まりなのである。しゅっしゅっとシャドウボクシングをやる気を見せたら、濡れていた部分が風に当たってひんやりした。
「というわけで、ルスラン帰ってきたら喧嘩だから、落ち込んでたら慰めてあげてね!」
「王妃様はどうすんの?」
「家帰ってからお母さんに慰めてもらう」
「……姑出すのは最終手段にしようぜ」
何故だか哀れみの視線をルスランが出て行った扉に向けたロベリアに、夫婦喧嘩ってそういうものなのかなと反省した。
姑は最終手段。私は一つ賢くなった。




