38勤
ノック音がして、扉を振り向く。どうやらルスランがついたようだ。やけに早いけれど、どこかにエレベーターでもあるのだろう。魔力必須だろうけど。
「どうぞ、お入りください」
コレットの返事を待って扉が開く。そこにいた人を見て、コレットの顔から表情が抜け落ちる。予想していた白銀色ではなく、やけに映える赤が目につく。
「お、兄様」
そういえば、さっき下を見たときにはいなかったなと思った私の腕が掴まれる。
「失礼」
「え……え!?」
そのまま引き摺られるように廊下に引っ張り出された。コレットが慌てて部屋から駆け出す。
「お兄様! すぐに王がいらっしゃいます!」
「だから来たのだ。お前はここで待機し、出来る限り王の足止めをしろ。お前もオレンの娘ならば、せめてその程度は役に立て」
ぐっと何かを飲み込んだコレットに、それ以上言葉をかけることなくネルギーさんは足早に廊下を進んでいく。ルスランよりも背の高い人の足早となると、私にはもう駆け足だ。せめて腕を放してくれたらまだいいのに、掴まれたままだから非常に走りにくい。時々つんのめりながら、一所懸命考える。
これ、助けを求めていいのだろうか。この相手がエインゼなら全力で抵抗して叫び倒すし、拳だって振り回すし、足だって使う。だけど、ネルギーさんはそれをしなければならない相手なのだろうか。その判断がつけられない。
私達の後からおどおどびくびく、結構な速度で併走しているロベリアに助けを求める視線を送る。ロベリアは「あー」と曖昧な声を上げた。
「ネルギー様。俺の行動は基本的に王妃様の自由意志によって変動しますが、あまり手荒に扱うようなら、王妃様の意思かかわりなく俺の判断で王の名の下に手を出させて頂きますが」
ロベリアのやる気なさそうな声に、小さく舌打ちしたネルギーさんは手近な扉を開けて私を放り込んだ。
三歩、では収まらず、四歩つんのめってようやく体勢を整え振り向けば、閉められた扉の前にネルギーさんが、そのネルギーさんと私の真横にロベリアが立っていた。けれど何か言うつもりもするつもりもないらしい。基本的には、私の好きにさせてくれる。この世界に来たばかりの頃からそうだった。危険じゃなければ、好きにさせてくれたし、どこにでも嫌な顔せずに付き合ってくれた。それがきっと、ルスランの指示だからだ。
ネルギーさんは、私をじっと見ていた。さっきルスランを呼んじゃったから、早くコレットといた部屋に戻りたいんだけどなそわそわする私に、ネルギーさんは口を開いた。
「出来れば穏便に心が折れてほしかったのですが、早々に折れてくださるような繊細な方ではなかったようですね」
「図太い上に面の皮が厚くて心臓に毛が生えているもので……」
「それは見れば分かります。何せ、王妃としての才能を欠片も持たない身の上で、堂々と王の傍に侍り、尚且つ身を縮こませるどころか胸を張る始末ですので」
「いやぁ。私も王妃様の勉強したいんですけどね。まあ、したところでたかがしれてるとは思うんですけど、してから落ち込もうと思いまして」
背が高い人にはルスランで慣れていたつもりだけれど、ここまで高い人だと立っているだけで威圧感がある。親しくない相手なら尚更だ。同性だったらまだそこまでじゃなかったかもしれない。大きな男の人は、なんとなく、それだけでちょっと怖い気がする。だからといって、後ずさりするつもりはない。
まっすぐに見上げていると、ネルギーさんは頭痛を覚えたような難しい顔をした。
「王は、ずっと完璧な御方でした」
「はあ……」
「政に関しては、協会からの独立後も国を荒らすことないほどの手腕で国を治めてくださった。あの方の王としての才は、鬼才とも呼べるものでしょう。あの時代、魔術士が本当の意味で魔術士として生きていける方法など、協会に属するしか存在しなかった。協会の犬となり、魔術士としての己も、人間としての生も、全て協会に引き渡さなければ魔術士として生きてはいけなかった。それだけの制約を覆した、最高位の魔術士であり王であるあの方さえ無事ならば、レミアムは安泰です。あの方は、そういう王です。それなのに」
深い深い溜息の後に私を見た瞳は、仄暗い水底のようにどんよりしていた。
「何故、貴女に関することはこうも中途半端になるのか」
どろりとした、怨嗟にも似た何かを纏った言葉が落ちてくる。視線にも同じものが混ざっている気がした。
「あの方ならば、手を出されたくない存在を完全に囲ってしまうことなど容易かったはずです。貴女がどう言おうが、丸め込むことなど赤子の首を捻るよりも容易いはずだ。それなのに何故、貴女を囲いきることも、野放しにすることもせず、こうも中途半端になるのか。……王は、貴女の意思を尊重しすぎるきらいがあるようですね。だからこそ、こうして私がつけいる隙が出来てしまうのです。このような隙、政で行った暁には一瞬で国が滅んでおりましたよ」
「ネルギーさんは、ルスランにどんな人と結婚してほしかったんですか?」
「様々な条件と理想がございましたが、今となっては貴女以外ならば誰でもいいとさえ思えて参りました」
そんな殺生な。私にだって少しくらいルスランとお似合いの箇所はある。
…………………………………………ほら、何か、何かほら、何かくらいは。
「本当に、何故貴女なのでしょう。貴女は、数多の条件の中でも最悪の条件だけを兼ね備えておられる。こんなにも悪条件だけを備えた方が存在するとは、本当に思いもよりませんでした」
なんかすみませんでしたと謝ってしまいそうになる評価だ。
「貴女は、王を繋ぎ止める鎖になるどころか、この国を離れる理由になる要素しかお持ちではない。国の在り方を共に変えてきた我々にさえ長きに渡り秘匿されてきた、派流とはいえレミアム王家の血を引くルスラン様にとって最後の親族となる、異界の娘。これを最悪と呼ばすして何と呼ぶのか」
苦々しく吐き捨てるように言ってくるネルギーさんが、ちょっと珍しいように思える。付き合いが短いどころか先日会ったばかりの人なのでよく分からないけれど、もうちょっとこう、沈着冷静な印象だった。それとも、普段は沈着冷静な人なのに、私への苦々しさがそれを上回り表に出てきてしまったのだろうか。
「ルスラン様は、レミアムになくてはならぬ御方だ。秘宝と呼んでも差し支えがないほど、レミアムの歴史上、否、世界の歴史上最高峰の王だ。そして、レミアムにはもうあの御方しかいないのだ。ですが、あの方は過去、レミアムを出ようとなさった。レミアムを捨て、協会を壊すために生きようとなさるあの方を、全員で押し止めた。翌朝には考え直してくださいましたが、あの方は今も、レミアムを捨てることを躊躇ったりはなさらないだろう。あの方を裏切ったレミアムを、あの方は今もお許しになってはいないのだから」
私を見るネルギーさんの瞳は、見つめているのか睨んでいるのかよく分からない。ただ見つめているには力が強すぎて、睨んでいるには弱すぎる。この瞳の意味を、大人になれば分かるのだろうか。
だけどそんな確証は無いし、私はいま大人ではないのだから、私はいまの私のまま、この瞳の意味を探さなければならない。それが正解であれ間違いであれ、いまの私にできるのは探し続けることだけなのだ。
「あの方は私に、レミアムに残ると決断してくださるに至る夜を、貴女に感謝しろと仰った。その決断すら貴女由来の物ならば、本当に貴女以外であの方をレミアムに止める術が無いということだ。貴女に何かあれば、我々はあの御方を失う。レミアムの未来を、異界の貴女に左右されるのは真っ平なのですよ」
「……じゃあ、ルスランを大事にしてください。ルスランが、もしも私がいなくなっても守りたいと思える、そんな国にしてください」
「あの御方はレミアムを守る義務がある。その義務を捨てさせることだけはしてくれるな」
私の中で何かが弾けた。暗闇に差した一筋の光のように強烈なそれは、怒りだった。
「最初にルスランを見捨てたのはあなた達じゃないですか!」
高ぶった感情のまま怒鳴ってしまったことを、一瞬だけ悔いた。一瞬しか悔いなかったけど。
「……愛されたかったら愛してください。大事にしてほしかったら大事にしてください。優しくされたかったら優しくしてください。そうされなくても構わないというのなら好きにしてください。だけど、ルスランにだけ献身を求めるのは卑怯です」
泣いていたのだ。ルスランはずっと泣いていたのだ。怒りと、絶望と、恨みと、悲しみで、泣いていた。大好きだった両親を失った悼みだけで泣かせてもらえなかったルスランの絶望を、義務だからと言うのなら、そんな馬鹿げたことを言うのなら、私はこの人を許さない。
そもそも、私の全ての始まりは、ルスランを守りたいと思い、願った感情なのだから。
「ルスランがルスランとして大事にしてもらえないのなら、王様なんてただの生贄じゃないですか!」
「小娘には、国の在り方の難しさなど分からぬでしょう。王に愛されぬ国の悲惨さなど、想像もつかないでしょうね」
「だからこそ貴方達は、ルスランに許されてから王様になってもらうべきだったんです。ルスランが自分の気持ちに折り合いをつけられるまで、待つべきだったんです。自分の国に、国民に、怒りを抱いたままそうするしかないからと王様になんてなってしまったから、ルスランはずっとしんどいままなんですよ!」
まだ、十二歳だったのだ。あの頃はとてもお兄さんに見えたルスランは、まだ十二の子どもだったのだ。もしかしたら、私が背負い始めたランドセルをまだ一緒に背負っていたかもしれないほどの、その程度にしか違わない、子どもだったのに。
「ならば他にどうすればよかったと仰るのか。レミアムに滅びろとでも言うつもりなのか」
「そうは、言いません。……でも、貴方がレミアムを大事に想うように、私はルスランが一番大事です。それが答えになりますか」
「……ならば貴女は、王妃としての最後の資格も失ったことになります。それでも宜しいか」
「構いません」
そんなことは承知の上で、私はルスランの提案を受けた。何の資格もないどころか、互いの気持ちすら把握せず王妃となった。それは決してレミアムの為なんかじゃないと分かっている。
「私は貴方のことをよく知りません。あなたはレミアムの政治家として正しいことをしているのかもしれません。だけど私は、ルスランを苦しめることを正しいとは言えません。私は、レミアムの民でもルスランの臣下でもなく、家族ですから」
自分の中で湧き上がる感情が、熱くて熱くて、自分まで焼けてしまいそうだ。悔しいのか、苦しいのか、悲しいのか、それともやっぱり怒っているだけなのか。私には分からない。その理由が、恐怖でないことだけが確かなものだ。
「友達なんです。幼馴染なんです。家族なんです。兄妹なんです。恋人なんです。夫婦なんです。全部なんです。だけど、ルスランは私の王様じゃないんです。だから私は、ルスランの民じゃないんです。たとえここが曾お婆ちゃんの故郷であったとしても、私は、レミアムがあったって、ルスランが幸せになれなきゃ意味がないんですよっ!」
「……だから、だから貴女では駄目なのです。レミアムにとって必要なのは王の癒しではないのです。王をレミアムに繋ぎ止める楔が、レミアムには必要なのだ」
「ルスランがルスランとして生きられない楔なんて、私は全力で引っこ抜きにかかります」
この人は、レミアムが大切なのだろう。その為に必要なことを躊躇わず行える人なのかもしれない。だけど私は、ルスランが大切なのだ。だからきっと、私とこの人のルスランを巡った喧嘩は、ずっと平行線になる。同じ人を巡って争っているのに、私とこの人が望む未来は全然別の形だからだ。
私はネルギーさんを睨み上げ、ネルギーさんは私を睨み下ろす。お互い首が痛くなりそうな体勢で睨み合っている部屋の扉が、何の音沙汰もなく開いた。
扉を開けたのはマクシムさんだった。けれど彼はすぐに横へとずれた。その後ろから見慣れた姿が入ってきた。そこにあったのは今度こそ、世界で一番綺麗な白銀色の髪だ。
「ルスラン」
笑って呼べば、ルスランはふっと小さな息を吐いた。息と共に頬のこわばりと肩の力が抜けたように見えた。
「月子戻るぞ」
「うん」
いきなり腕を掴まれて歩き出されてしまったけれど、そう来るだろうなと思っていたので慌てずに済んだ。ただ、慌てずに済んだからといってバランスを崩さないとは言っていない。転びそうになり、思わず私の右腕を掴むルスランの腕を左手で掴む。なんだかぶら下がるような体勢になってしまった。それなのにルスランはずんずん進んでいく。ルスランとネルギーさんの間に会話はない。お互い一瞬だけ視線を交わしたようだけれど、それだけだ。
「ネルギーさん、コレットに今日はありがとう、楽しかったって伝えてください」
ルスランに引っ張られながらなんとかそう言ったけれど、伝えてくれるかどうかは分からない。ネルギーさんは一言も発することはなかった。




