35勤
そんなことを、私は確かに考えていた。とりあえずこの世界で知っている人を増やすことから始めようとか、それだったらお城で増やすことから始めた方がいいのかなとか、そういうことは確かに考えた気がする。
だけど。
私はいま、いい匂いのする場所にいた。
花の香りに、ほのかに漂う甘いお菓子とお茶の香り。そして、何と例えればいいのか分からないけれどとにかくいい匂い。華やかな色があちこちで揺れ、鼻に嬉しい目に楽しい。綺麗に晴れ渡った青空の下で、美しい花が咲き誇る庭園。高台にあるこの屋敷からは下方に広がる海も見える。まさしく絶景だ。
そんな場所にいる私の頬が、ひくりと引き攣る。
朝は結局、ルスランを見送ることはできなかった。それどころか、いつ部屋に帰ってきたかも知らない。もしかしたら帰ってきていないのかも知れないと、整えられたままの寝室を覗いて思った。
それはともかく、私は今、おどおどびくびく怯えるロベリアを背に、大量の女の子達と向かい合っていた。
「うわー……こう来たか」
ぽそっと背後でロベリアが呟いた時、昨日少しだけ見た人が私の前に現れた。ひょろりと背の高い、綺麗な赤髪の男の人は、恭しく礼をした。深く礼をしてもつむじが見えない。
「こちらのご令嬢方は、元レミアム王妃最有力候補であり、現レミアム王側室最有力候補でございます。どうぞ、お見知りおきください」
お見知りおいてどうしろというのか。
きらきらしゃらしゃら。詳しくなくても一目で上質と分かる衣装と装飾品を身につけ、磨き抜かれた髪、爪、肌をきらめかせ、芸術品のように美しい化粧をした、それは綺麗な女性達の前に立つ、昨日ルスランとデートした時とよく似た格好をした私。
朝用意されていた服を見て、今日も町にお忍びで行くのかなと思ったけれど、ルスランは王様業で出かけるついでに昨日ブランさんが話していた内容に関する調査も見てくると言っていたので、これは単に動きやすい服を選んでくれたのかなと思っていた。
それがまさか、こうなるとは。さすが、慣例通り結婚報告していたら知らぬ間に結婚させている男! あと怪獣大決戦の男。
怪獣大決戦の片割れが自分の幼馴染みなことが悲しい
「……私はここで、何をすればいいんですか?」
「そのようなこと、ご自分で考えられては如何か。貴女は、誰も望んでいないとはいえ、仮にもレミアム王妃の地位にいらっしゃるのですから。まあ、貴女如きではその程度の事もこなすことは不可能でしょうが」
あ、この人私のこと嫌いだな。
どんなに鈍くても気づけるくらい、あからさまである。
「王妃様、断っていいんだぜ」
後ろから小さく言ったロベリアを振り向くわけにも行かず、背中側に回した掌をひらひら動かす。
とりあえず、立食形のパーティーまたはお茶会のようだから、適当に隅っこに混ざってお茶でも飲んでいよう。
ばっちりお化粧して、身なりも完璧な女性すべての目が私を向いているのが分かる。興味、嫌悪、嘲笑、憤怒。あからさまな色を浮かべた瞳もあれば、何を考えているのかは分からない笑顔も多い。そういう笑顔は、大体みんな同じだ。同じ笑顔がずらりと並んでいるから、これはこれで怖い。
私は、日本で普段着ているよりは華やかだけど、この場では明らかに普段着より気楽な自分の格好を見下ろす。そして、顔を上げる。
まあ、いいかと。
だって、ここにいる人達は正攻法で王妃になろうとしていた人達だ。ということは、そういう勉強も頑張っていたはずだ。礼儀も作法も教養も、一朝一夕で身につく物ではない。ましてそれらを当たり前にこなせるようになるまで、どれだけの時間がかかるのだろう。そうやって自分を磨いていた人と、好きだからと言う理由だけで何一つ身につけないまま王妃になった私。この格差は、あるべくしてあるものだ。
「じゃあお邪魔します。あ、でも」
ネルギーさんとすれ違った場所で足を止め、振り向く。ネルギーさんもこっちを向いていた。
「こういうことするのなら、事前に教えてもらえると嬉しいです」
「王に言いつけますか?」
「私いまお腹張ってるんです……」
「はい?」
「朝食食べ過ぎちゃって……こういうことするって分かっていたら、朝食控えめにしますから、次はよろしくお願いします」
軽く会釈して、ネルギーさんに背を向ける。
さて、どうしようかな。ロベリアは同席できないのだろう。他の侍女さん達は植木や建物の傍に並んで立っているからだ。今は私の後ろでびくびくしながらついてきてくれているけれど、ロベリアもあっちに立たなければならないのかも知れない。
どうしようかなと会場内を見回す。綺麗に形を整えられた植木に囲まれた庭園には、椅子のない机が何個も置かれていた。椅子もあるにはあるけれど、お菓子やお茶が置かれている隅のテーブル近辺にしかない。
会場内には、全タイプ網羅したのかなと思うほど、様々な女性がいた。綺麗な人、可愛い人、美人な人、穏やかそうな人、気が強そうな人、気が弱そうな人。年下っぽい人、同い年っぽい人、年上っぽい人。色なんて言うに及ばず。瞳と髪と肌を合わせれば全色網羅しているに違いない。 でも、そういう人達がこっちを見てひそひそしたり、くすくすしたりしているのは、あまり嬉しい雰囲気ではない。
「まあ、みっともない」
誰かが言った。
「あれが本当に王妃?」
誰かが言った。
「美しさの欠片もない娘ね……」
誰かが言った。
「魔力もないだなんて、わたくしでしたら恥ずかしくて恥ずかしくて、とてもではなく外になんて出られませんわ……」
誰かが、言った。
……凄い、誰一人知らない!
私はこの世界での自分の交友関係の狭さを改めて目の当たりにした。くすくす笑われるのは悲しいけれど、知っている人にされるよりは百倍マシだなと思う。それと、美人は相手に嘲笑を向けても美人だ。危ない扉を開いたらどうしてくれるのだ。
飲み物のあるテーブル前に待機している人からお茶をもらい、いつの間にかカラカラになっていた口の中を潤しながら考える。
やっぱり、王妃としての勉強は必要だと思うのだ。王妃という立場に執着は一切ないけれど、ルスランが、好きな人が王である以上、一緒にいたければ王妃でいるしかない。そうなると、最低限必要な教育がある、はずだ。よくは知らないけれど、礼儀作法であったり、魔力はどうにもならないにしても、なんかこう……礼儀作法であったり……。駄目だ。何を学べばいいのかすら分からない。
ルスランに相談しても大丈夫だろうか。でも、私を表に出したがらないのは変わっていないから、下手に相談すれば周囲を遮断する方向に動きそうな気がする。そういう面では、私はまったくルスランを信用していないのでどうか安心してほしい。あと、このお茶おいしい。
「……王妃様、いいから戻ろうぜ。こんなもの、王様は許可していらっしゃらない」
「ロベリアは、あっちの人達と一緒に待ってて。ここにいちゃ駄目なんでしょう?」
「王妃様、やめとけよ。あえていなきゃいけねぇ場所でもないだろ、これ」
ロベリアをこっそり見れば、口はほとんど動いていないのに喋っていたことに驚いた。おどおどびくびくしている顔は青ざめてすらいるのに、ひそひそ話す声は淀みない。
「でもこれ、私が王妃でいる以上、避けられないことでしょう?」
私は、私がこの人達の立場であったなら、こんな王妃絶対に認められないし、許せない。ぽっと出の、王妃としての教育どころかこの国の歴史も文化も何もかも知らない、何も持っていない小娘。王妃になって以来、公の場に一切出てこない王妃。毎日実家に帰る王妃。王様になれなれしい王妃。それが許されている、王妃。
嫌われる要素しか揃っていない。だから、この視線は順当だ。もっと早く受けるべき物だったのに、ルスランが大事に匿ってくれたから遭わずに済んだだけで、これは当たり前のことなのだ。私は、それを打開する術を見つけられるほど大人じゃないけれど、それが分からないほど子どもじゃない。
「だから、いいよ。私別に、嫌なことや悲しいことから逃げたいわけじゃないんだよ」
そう言えば、ロベリアは一度ゆっくり瞬きして、深々と礼をした。
他の人と同じように壁際に並んだロベリアを見送り、さてと気合いを入れ直す。
視線が突き刺さる。物理的な刃物ではないはずなのに、尖ってすらないはずなのに、丸い眼球が見つめてくる威力は刃物のようだ。日直でクラスメイトの前に立ったって、委員会で委員皆の前に立ったって、全校集会で前に立ったって、こんなに痛くはないだろう。だってそこには無関心が混ざりこんでいたからだ。誰か前に立ったなー、早く終わらないかなー、宿題出たなー、今日の帰りどこか寄っていこー。そんな、私個人には特に興味も関心もない、ただ流れる景色を見るのと同じ視線。
だけど、これは違う。私を見ている。息をするのも忘れるほどの関心と共に。
知らぬ間に下を向きそうになった顔を、まっすぐ上げる。分かっていたことなのだ。結婚式だけして、後はほとんど表に出ていなかったら、偶に出てきたときに視線が集中する。これが毎日のことだったらいつかはそんなに見られなくなる日がくるのだろう。だけど、最初は仕方がない。こんなものだ。分かっていたのに、結構ダメージを喰らったのは、私の覚悟が足りなかったのだろう。
たくさんの人が私を見ている。たくさんの中から見ていれば、自分のことは見られていないと思うかもしれないけれど、意外と一人一人の顔がよく見えていた。驚いた顔、何を考えているか分からない何の感情も浮かんでいない顔、興味が前面に押し出された顔、嫌そうな顔、何故か脅えた顔、馬鹿にする、顔。
「どうしてあんな娘が」
「一体何が特別で」
「黒髪なら」
目が悪ければそれらを見なくて済んだかなと思う。でも、私は眼鏡がなくても板書できる視力だし、逆に見えないほうが怖いこともあるかもしれない。見えなければ、自分で全部想像してしまう。みんな私を大歓迎してくれている、やったー! と楽観的に考えられたらいいのだけど、そこまで能天気にはなれないから、たぶん見えなければ悪いほうに考えてしまう。興味津々でわくわく見ている人もいるのに、全員嫌そうな顔で馬鹿にした顔で見ているんじゃないかと思ってしまうかもしれない。それよりは、見えているほうがまだましだ。そう思う程度には強いつもりだ。
「本当なら」
「そぐわない」
「私のほうがあの娘より」
「いなくなればいいのに」
「消えてしまえばいいのに」
それにどうせ声は聞こえる。すべての言葉が聞こえてくるわけではないけれど、とがった神経は、何故か自分が傷つく単語ばかりを正確に拾い上げてしまう。ばらばらと聞こえる単語は、どれもこれもあまり聞きたくない類いのことばかりだ。
だけど、いきなりぺしゃんと潰れてしまわない程度には覚悟を決めてここにいるのに、ルスランは守るのがへったくそだ。遠ざけることだけを愛と呼んできた人だから、実際そうすることでしか大事な存在を守れなかった人だから。人の強さを信じられず、信じた結果が大事な人の死で返ってきたルスランは、凄く難しい。難しくて、面倒で、厄介で、愛おしい。
「ああ、王はどうして」
「どうしてあんな娘が」
「どうして」
いらいらすることだってあるし、何でそんな回りくどいことするんだろうと不思議に思うこともある。間違っていることだってあるだろうし、全部ルスランが正しいと思うこともない。
一つも間違わず、一つも自分と違う意見を持たず、一つも悩まず、惑わず、試すことも手探りすることもなく、正解だけを間違いなく選んでいける人だとは、思わない。そんな人がいるかどうかも知らないけど、とにかくルスランはそうではない。私と違う思考で、嗜好で、答えで、いろんな恐怖と闘いながら手探りで死に物狂いで、怖がりながら、苦しみながら、それでも一緒にいようとしてくれるあの人が、私は好きなのだ。
「死ねばいいのに」
声が聞こえてきた方を向けば、相手はびくりと震えることもなく、憎々しげに私を睨んでいた。
私はルスランといたい。
だから私は、こうして立って、歩いて、笑える。心配性で、過保護で、怖がりで、憶病なあの人が振り向いたとき、全然平気ーと笑って抱きつける人間でいることが、私にとってとても大事なことなのだから。
そのためには、やっぱり王妃の勉強は大事だと思うのだ。




