27勤
顔面から思いっきり突っ込んだ椅子は、長期間乗り続けてお尻が痛くならないくらいふかふかだけど、別に顔面から突っ込むように設計されているわけではない。私も、別に椅子に顔面から突っ込むために抱きついたわけではない。
椅子に突っ伏したまま、恨めしげにルスランを睨む。
「…………なんで避けるんですか、彼氏のルスランさん」
「…………そろそろ海ですよ、彼女の月子さん」
「え、海!? わーい!」
がばりと飛び起きて、さっき閉められた窓をすぱーんと開ける。流石王様御用達の窓。引っかかるどころかほとんど音もなく開く。
窓の外には、さっきとあまり変わらない景色が続いている。だけど、木々が途切れた瞬間、一面の青が広がった。
「わあー! 海だー!」
「あ、王妃様もう出てやがる!」
小窓を開けて知らせてくれようとしていたロベリアが怒っている声を聞きながら、風に煽られた髪を押さえる。一面に広がった青は太陽の光を反射し、白く細かな光がきらきらと揺れていた。眩しいけれど目を逸らすのも勿体なくて、目を細めて海を眺める。
思いっきり吸い込んでみても、距離があるからかまだ海の匂いはしなくてちょっとだけ残念だ。
「月子、あまり乗り出すな」
窓枠に手を置いたルスランに首根っこを掴まれて、ぐぇっとなる。
「落ちたりしないよ」
「落ちはしないだろうが、たまに首が飛ぶぞ」
「飛ぶの!?」
首が!?
なんて恐ろしい冗談を言うのだ。ルスラン冗談のセンスない。
そう思いながら、笑って冗談だよと言ってくれるのをおとなしく待つ。しかし、一向に笑顔が現れない。嫌な予感がしてきた。
嫌な予感が顔に出ていたのだろう。ルスランは青ざめた私をちらりと見た。
「凄まじい早さで通り過ぎる鳥がいてだな。羽は鉄のように硬く、木々の間を飛べば枝を切り落とす。当然人間の首も落とされる。何故か壁に沿ってすれすれに飛ぶことが多いため、窓から顔を出した人間の首が落とされる事故がたまに起きるんだ」
「恐怖しかないんですけど」
「まあ気にするな。どんな馬車にも鳥除けの魔術はかけてあるし、この辺りはその鳥の生息地じゃない」
「フラ……」
「フラグじゃない。ほら、見えてきたぞ。あそこが目的地だ」
さらりと怖いことを言ったルスランが指さした先を恐る恐る見て、思わず声を上げた。
「巨大空中庭園だー!」
「島です、月子さん」
「だって飛んでるよ!?」
「飛んでる島です、月子さん」
そんな当たり前みたいに言わないでほしい。
私の視界の中に、一面に広がる青の上に浮いている島がある。浮いていると言ってもぷかぷか浮いているわけではない。距離のあるこの場所から限定だろうけれど、海と島の間に掌が挟めてしまうくらいちゃんと浮いている。
大きな島の上には、ここからでも分かるくらいいろんな建物が見える。四角い建物、丸い建物、目潰しかと突っ込みたくなるくらいきらめいている建物、よくよく見たら建物など、様々な人工物が見える島につながっている道も浮いていた。
島の中にはちゃんと山もあって、そこには大きな滝も見える。その滝から繋がっているのかはここからだとちょっと分からないけれど、島には川も流れているようで大きな橋も見える。しかし、川の水はあちこちから島の下に流れ落ちていき、海と混ざり合って白い飛沫を上げていた。常時落ち続ける川の水は途切れたりしないのかと心配になる。
「あの島は地上の魔力と反発するらしくてああやって浮くんだ。日と一緒に沈むが」
「沈むの!?」
島が!?
「ああ、沈むというか下りるというか普通の状態になるというか。あの島も、夜は普通の島と同じように海の上にあるぞ」
ちょうど太陽の真下の位置にある島を少し眩しそうに見ながら、ルスランが言った。そのまま髪を耳にかけている動作だけで格好いいってずるいなぁと思う。そして、異世界はずるいどころか凄まじい。
「島が……どうしよう、ルスラン。私、あの島とも相容れない予感がすでにしてる」
「…………頑張れ」
「私はこれ、何をどう頑張ったらいいの!?」
あの島、私が足を踏み入れて大丈夫!? 到着した瞬間私だけ落ちない!? 魔力0は物理的に立ち入り不可判定されて海に落下したら、日帰り王妃どころかただのコント王妃だよ!?
ルスランやロベリア達を残し、私だけ没収される人形のようにすとーんと落ちていったら泣けばいいのか笑えばいいのか。
私は本気で心配して青ざめたのに、ルスランはぶはっと吹き出した。まじ許すまじ。
「そうなったら拾いに行ってやるさ」
「拾わなきゃいけなくなる前に助けてよ!」
「それもそうだ。任せろ、月子。俺はこう見えて、それなりの魔術士なんだ」
「知ってるよっ……うわっ」
強い海風にあおられた私達の髪が巻き上がる。元々耳にかけるために手を当てていたルスランは被害を免れたけれど、まったく頓着していなかった私はもろに強風の被害を受けた。
顔面に髪を張り付かせた私を見て、ルスランはまた笑いながら手を伸ばす。そのままいつもみたいに髪を寄せてくれようとした手がぴたりと止まった。
二秒の沈黙を経て、ルスランの手は私を素通りして窓を閉める。
「そろそろ橋の手前の街に入るから人が多くなる。窓を開けるのはやめておけ」
「はーい」
自分で髪を直しつつ、大人しく座り直す。同じように隣に座り直したルスランにちらりと視線を向けた。この人さっきから、窓を閉めることしかごまかす手段を持っていないなと、ちょっと呆れる。
耳にかけようとした自分の髪を、なんとなく指に巻き付けてくるくると回す。
この人、私に触らなくなったなぁと、思う。
転びそうになったら支えてくれるし、落ちそうになったら助けてくれるし、手を差し出してくれるのは変わらないけれど、用事が済めばすぐに引っ込めてしまう。鏡台越しに話していた時代のほうがもっと触っていたくらいだ。
ちゃんと大事に想ってもらっているのは分かっている。大事にしてもらっている。私達はたぶん、上手に出来ていないことはいっぱいあるはずだ。一所懸命やっている。大事に想っている。でも、へたくそなことばかりだ。でも、私はルスランを大事にしたいし、ルスランも私に対してそう思ってくれている。失敗したり回り道したって、はいさようならなんてならないし、しない。されるとは思わないし、思われてもない、はずだ。
だからこそ、全く意味が分からない。
好きだと言った。
私もルスランも、そう言って付き合い始めた。お父さんとお母さんにも、凄く真面目な形で報告してくれた。真面目に、真剣に、本気で付き合っていこうとしてくれていると思う。私だってそうだ。
別に付き合い出したからといって一足飛びに関係を進めていきたいわけじゃない。そういうわけじゃないんだけど。
私何か変だっただろうか。変なことしちゃったのだろうか。でも、分からない。分からないのだ。だって、恋も、成就も、キスも、全部ルスランが初めてで、ルスランしかいなくて。何が標準で何が作法で何が基準かなんて……さっぱり分からない。
ルスランに直接聞いて大丈夫なのだろうか。それとも誰かに聞いたほうがいいのか。こういうのって誰に相談すればいいのだろうか。それとも誰にも聞いちゃ駄目なのだろうか。
こんなとき一番の相談相手だったのはルスランだ。お母さんや友達にも相談したけれど、やっぱり一番はルスランだった。
家族も友達もいるのに、悩みの種がいつも相談していた人になった途端、一気に行き詰った気がしてしまう。ならば、私を家族と、友達と、そして恋人と呼んでくれたルスランは、私について悩んだら誰に相談するんだろう。辛かったら、悲しかったら、苦しかったら、一体誰に縋るんだろう。今までどうしていたんだろう。これからどうしていくんだろう。
どうしようかなぁと、付き合う前より付き合い出してからのほうが触れてこなくなった人を、首を傾げたまま見つめ続ける。些細な接触も控えめになってしまった幼馴染に、はじめての彼氏と付き合う難しさをしみじみ感じた。男の人って難しい。
じーっと見ていたら、視線に気づいた瞳が私を向いた。
「どうした?」
「なんでもなーい。強いて言うなら、お泊まり楽しみー!」
「はいはい。観光にも力を入れている島だから、それなりに楽しいと思うぞ。到着第一歩で没収されなきゃなー」
「そうなったらきっと、それなりの魔術士さんが助けてくれるんだろうなと……助けてくれるよね!?」
「はいはい、喜んで」
おかしそうに笑うこの人は、さて、今度は何を悩んでいるのだろうか。
考えることが多くて大変な、雇用主で、家族で、幼馴染みで、友達、兄弟で、家族で、夫を見上げて、私はついてしまった小さな溜息を慌てて隠した。
「でも、あの島に行くときの空飛ぶ道路? 渡るときは窓開けていい?」
「落ちなきゃな」
「落ちないよ! そんなに安全性に問題あるの!?」
落ちる落ちるフラグを立てないで頂きたい。憤慨した私を、ルスランはなぜだか哀れみに満ちた眼差しで見つめる。
「……安全性には特に配慮されてないんだよ。全員魔術を使えるから大事には至らないし。落ちたら笑い話になるだけで」
「……池に落ちるとか、そんなノリ?」
そんなまさかと思いつつそぉっと聞いたら、ルスランは静かに頷いた。
「そんなノリ」
私は、閉めてしまった窓をほんの少しだけ開けて浮かんだ進行方向を見た。
海面から結構な高さがある。ジェットコースターみたいだ。それなのに、天井もなければ壁もない。柵もなければ手摺りもない。本当に空に浮かぶ島めがけて道路がただ延びているだけだ。その上を馬車も徒歩の人も、猫馬に乗った人も、自転車なのかバイクなのか椅子なのかよく分からない乗り物に乗った人も大勢が行き来しているのに、浮かぶ道路を囲うものは何も存在しない。
それは、落ちても笑い話で済むかららしい。
「魔力0に厳しい……異世界事情ってしょっぱい……」
「……まあ、海だからな」
さめざめ嘆く私を凄く適当に慰めてくれた異世界の王様の手が、私に触れることはなかった。




