23勤
私はしんっと静まり返った廊下をどすどすと歩き、一階の寝室の襖をすぱーんっと明けた。
「止むに止まれぬ事情があって遅くなって、ぎりぎり日帰り状態でごめんなさい! 以後気をつけます!」
「うわびっくりしたぁ!」
娘がバイト先からの帰宅門限を大幅に越えたにもかかわらず、まあルスランのところだし、何があっても覚悟の上だって約束したしねの精神で普通に寝ていた両親は、布団から飛び起きた。そして、あまりにあまりの惨状だった為、向こうでお風呂に入ってきた私の姿を一瞥して、大欠伸をした。
「あー、びっくりしたぁ……おかえりぃ……ご飯食べた? まだだったら冷蔵庫に入ってるから、ルスランと食べなさい。ご飯は冷凍してるからチンしなさいね。おやすみぃ……」
「もー、びっくりしたぁ……お父さん心臓止まっちゃう……ルスランに、お父さんさっき夢ででっかいシーラカンス釣ったって伝えといてね。おやすみぃー……」
娘の門限破り渾身の謝罪に対し、両親は一瞬で許しを与え、布団に戻った。おやすみ三秒。さすが私の両親である。見事な野び太であった。
私は、微妙に納得いかない気持ちで、夕飯とでっかいシーラカンスを釣った夢を見た報告を携え、自分の部屋に戻った。
部屋に戻れば、既にルスランが来ていた。
物珍しげに視線を巡らせていたルスランは、私が夕飯を抱えているのを見て立ち上がり、受け取ってくれた。
「お父さんとお母さん怒ってたか? まだ起きてるようなら俺も謝りに」
「もう寝た。おやすみ三秒。これお母さんから夕飯と、お父さんからついさっきでっかいシーラカンスを釣ったっていう伝言」
「…………凄い夢で何よりだけど、何でいまそれ言った?」
「私に聞かないで頂けますか私が聞きたいっ」
嘆きながら温め直した夕飯を並べていく。ちっちゃなちゃぶ台物置から出してくるの面倒だから、お盆だけで勘弁してもらう。
私もルスランもお風呂に入っている。私がお風呂に入っている間は、ルスランはまだ色んな処理をしていたのに、いつの間に入って着替えたのだろうと思いながら、手を合わせる。
「いただきます」
「……いただきます」
黙々と夕飯を食べていく。
あの後、いつの間にかナイフから抜け出していたロベリアと三人でお城まで戻ったら、マクシムが無事を喜んでくれた。が、一人で飛び出していったルスランにはちくりと嫌味を言っていた。ルスランはちょっと驚いた顔をしていたけど、一応謝っていたので、今度はマクシムが盛大に驚いた顔をしていた。
『王妃様にあいつらの会議見せていいって折毛―出したの、実はマクシム様なんだぜ?』
『折毛―って、もしかしてOKのこと?』
という会話がロベリアとあったのは、ルスランには内緒だ。
今頃ロベリアも遅い夕ご飯を食べているのだろうかとぼんやり考える。両手を怪我したのにどうやって食べているのだろうかと気づいたけれど、今更どうしようもない。優しい看護師さんがいることを祈ろう。
ルスランには、一旦帰るから送ってほしいけど、絶対に鏡台壊さないでね壊したら末代まで祟ってやると念を押してから日帰ったので、私達は今こうして無言で夕飯を食べているというわけだ。
なんでこんな時にのんびりしているんだと思わないでもないけれど、日常生活は大事だ。『上司に怒られた日でも、学校で失敗した日でも、家庭で日常送れなきゃどこで送るのよ』と、昔からお母さんに口を酸っぱくして言われているので、私達はどんな日でも日常を送るのだ。いつもと違うことがあっていつもと違うことをしても、いつもと同じことだってする。
それが家で、家族だ。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
食べ終わった食器を纏めて、流し台に持っていく。明日洗うから、今は浸けとくだけだ。後始末を最後までしてないから、これはちょっといつもと違うこと。でも、いつもと違うことだってする。これも生活だ。
部屋に戻ったら、胡坐をかいたルスランが床に座って俯いていた。私の部屋にルスランがいる違和感と、見慣れた気持ちが交互に湧き上がる。それを顔に出さないようにして、前に座り直す。
「何か言いたいことがあるならどうぞ。ルスラン・ヴォルドノ・トルプーギヴァ・アッターク・クスノナ・ルエマ・エルアリ・クアンロ・ハインワンド」
「…………初めまして、ルスラン・ヴォルドノ・トルプーギヴァ・アッターク・クスノナ・エルアリ・ルエマ・クアンロ・ハインワンドだ」
「…………どこ間違った?」
「順番」
沈黙が落ちる。もう正解にしといてよ。私、月子・春野でも全然気にしないし、いっそ月野春子でも正解にするから! 駄目!? 駄目だよね!? 知ってる!
こほんと咳払いする。
「ルスラン」
「……何だ」
「好きです、付き合ってください」
もう、一度言ってしまえば二度も三度も同じだ。まさか二度目の告白が、こんなチベットスナギツネみたいな目をして言う羽目になるとは思わなかったけど。まあ、生まれて初めての告白が、今生の別れとセットで言う羽目に陥ったことに比べれば、些細な問題である。
私から二度の告白を受けた相手は、酷く傷ついた顔をして俯いた。私のほうが傷つくよ!
フラれても意地でも王妃バイトは続けてやると硬く誓い、黙ってルスランの返事を待つ。俯いた、というより、項垂れた、というほうが正しい姿で、ルスランは沈黙している。
黙って待っていると、やがて小さく口を開いた。
「…………何で、俺なんだ」
「何でルスランじゃないと思ったの」
呆れて答えたら、ルスランは顔を上げる。その困った顔に、私も困った。
ルスランは、本当に困った顔で少し考えて、静かに息を吸った。
「俺はリュスティナ様の再来と呼ばれる体質だったから、協会は随分昔から俺を協会に入れたがっていた。名目上は、黄水晶で制限できない魔術を扱うものをきっちり教育するというだったらしい。両親には、子どもはもう一人作れ、俺は協会が引き取って育てると。そうしなければ黄水晶の上納量を増やすとまで言っていたけれど、両親はずっと突っぱねてくれていた。だけど、両親は死んだ。身体中がねじ曲がり、ぐしゃぐしゃになって真っ赤になってた。…………誰だったかなぁ。誰かが、俺の所為だと言ったんだ。俺も、そう思ったよ。これは俺の所為だと。俺がこんな妙な体質で生まれてさえこなければ、他の皆と同じように黄水晶がなければ魔術が使えない普通の体質であれば、両親は今も生きていたのだと思った。だから俺は、俺の所為だから、ちゃんと責任もって協会をレミアムから叩きだそうと思ったんだ。俺を殺したら、レミアムの黄水晶は新しい王の物、ひいては協会の物となる。一気に増えた暗殺者と、それを送り込んできた連中を随分と処刑台に送ってきたし、この手でも殺したよ。それでな、月子。何も思わなかったんだよ。俺は両親が死んで以来、誰が死んでも誰を殺しても特に何も思わないんだ。なあ月子、知ってるか? 俺って、結構な化物なんだ」
なあ月子と呼んでおきながら、私の答えを求めてはいないらしいルスランは両手で顔を覆い、項垂れたまま話し続けた。
「……夢みたいだったよ。全部……お前との全てが、自分の願望だけで形作られた、夢の、ようで…………だから、お前だけは、俺は、本当は、お前だけは巻き込みたくなかった。あの日お前に縋ったことを何度も後悔した。でも俺は……それでも、撤回できないような、情けない男なんだ…………分かってるのか、月子。俺はこんな、酷く情けない、六つも年下のお前を自分の正気の理由にするような、どうしようもない男なんだぞ」
顔を覆ったまま上げられないこの人が、何に脅えているのか、分かった。
なんで分かったのかは分からないけど、すとんと落ちた。腑に落ちたというのはこういうときに使うんだろうなと、思う。
呆れて身体中の力が抜ける。呆れきった私の溜息に、ルスランは息を止めた。その前までにじり寄り、膝立ちになる。
「知ってるよ」
項垂れたままの身体を、上から包むように抱きしめたら、大きな身体がびくりと跳ねた。怖がり、弱虫、意気地なし。臆病者の、優しい年上の幼馴染。
「分かってるよ。ルスランが弱虫で怖がりで、どーしようもなく自分勝手で傲慢だってことくらい、分かってるよ。何年一緒にいると思ってるの」
「…………何年一緒にいれば、お前は俺の名前を覚えるんだ」
それはそれ。これはこれ。ルスラン、実はそれ、かなり根に持ってる?
咳払いして話を戻す。さらさらの髪に頬っぺたをぐりぐりつけたら、いつも通りいい匂いがした。……おかしいな。私もそっちでお風呂借りたから同じシャンプーのはずなのに、私こんないい匂いしないんだけど。
「私がルスランを好きになった理由も、原因も、ルスランが背負わなくていいんだよ。責任なんて取らなくていいんだよ。私がルスランを好きになったのは私だけのものだから、ルスランが頂戴って言っても絶対あげない。駄目だよ、ルスラン、これは私の。ルスランが抱えなきゃいけないのは、私を好きな人として見れるかどうかと、その結果だけだよ」
傲慢な王様は、全部自分のものにしようとする。全部自分の所為にして、全部自分で抱えようとする。強欲、傲慢、誠実、自分勝手。
「私はあの晩、ルスランとどこに辿りついてもいいと思った。今でも、思ってる。分かってないのは、私の覚悟を甘く見てるのは、ルスランのほうだよ。……一緒に行くよ。どこまでだって、いつまでだって、一緒にいるよ。正気を失ったら戻してあげる。間違ったなら教えてあげる。それでもそのまま行くって決めたなら、地獄まで一緒にいってあげる」
「…………やめろ、月子」
「私の人生だもん。決めるのは私だよ。好きだよ、ルスラン。後は何が足りない? 私、ルスランを好きでいるのに、後は何の覚悟がいるの?」
「月子っ……」
恋より先に愛してしまった人と一緒にいる為の覚悟は、既に終えている。けれど、足りないというのならいくらだって足していく。
「あげる。ルスラン。私の全部あげる。明日も明後日も、一年後も十年後も、ずっと、最期まで。ずっと最期まで、ルスランとご飯食べる。ねえ、それじゃ足りない? 後、何が足りない?」
小さく震える大きな身体に覆いかぶさって、答えを待つ。
好きだよ。愛してるよ。足りないなら何度でも言ってあげる。足りてても、言ってあげる。ルスランがそうしてほしいなら何だって言ってあげる。そして全部本当だよって、ルスランが怖くなくなるまで言ってあげる。
どれくらい時間が経っただろう。ずっとずっと待って、やがてルスランは口を開いた。
「…………足りない」
「うん」
「死なないと、誓ってくれ……」
「うん」
「俺より先に死なないと、誓ってくれ」
ずっと顔を覆っていた手が外れ、覆いかぶさっている私の背に回る。
「誓ってくれ……俺は周りの人間を殺す、死なせてしまう。そういう人間だ。だけど、だけど月子……俺にお前を失わせないと、誓ってくれ」
「誓い方が分かんないから、ルスランが教えてよ。私に教えて。ルスランとの誓い方も、必要な覚悟も、全部教えて。私覚えられるよ。暗記苦手だけど、大丈夫。覚悟の決め方なら、もう知ってるから」
ようやく顔を上げた泣き虫の額に、ちょっとだけ躊躇ってからキスを落とす。たぶん赤くなっている私とは対照的に、ルスランは青褪めてすらいる。だけどこれがルスランの想いの形だから、仕方がない。人とはちょっと違うかもしれないけど、私達はスタートが愛だったのだから、恋に移行するときはちょっと人とは違う勇気がいるのだ。
「……俺も、お前が好きだよ」
「……うん」
愛の告白はさらりと出来る私達の恋の告白は、ちょっとしょっぱい水が二人分流れてしまう。
「ごめん、ごめん月子…………どうか、どうか俺と一緒に、地獄に堕ちてくれ」
喜んで。
そう言ったのに、この人はそれを聞く前に私の言葉を食べてしまったから、音になる前に飲みこまれた言葉は、ルスランの中でご飯になってしまった。




