22勤
ゆらりと視界の端で何かが揺れた。そっちに視線を向ける瞬間、合わさっていたルスランの瞳が凍りついたのが見えた。
私の背後で炎が凍りつき、私の正面で氷が燃え上がった。
両者から飛び散った破片は、氷片であれ火花であれ、全てが燃えて、凍りつく。
いまこの世界には、氷と炎しか存在しない。青い炎が、赤い氷が、燃え散り、凍り熔け、砕け合うのに混ざり合うことは決してない。弾けて消える熱さに凍える。凍えて燃える。
「お前は本当に世界の毒だな、ルスラン!」
青い炎が壮絶な笑みを浮かべて叫ぶ。
「リュスティナ以来生まれなかったその特異な体質を、お前が生まれてしまったが為に協会は諦められなくなった! お前のような人間を他にも作れるのではないかと夢を見た! 世界もそうだ! 協会の支配から逃れられる国が現れるなど、誰も夢にすら思わなかったのに、お前が実現させてしまった! これから先、世界は願うだろう! レミアムのようになりたいと、自分達も自由に生きたいと、誰にも支配されぬ世界に生きたいと、病のように蔓延った願いはどれだけの人間を殺すんだろうなぁ! 俺もそうだよ! 俺はお前に救いを見た! 俺も月光石に全てを与えられて救われたいと夢を得た! もう俺は止まれない! 一度焼きついた夢は二度と忘れられない! お前の犬も、お前が協会を崩壊させるなどと夢を見せるから、その夢に命を懸ける! 世界も、協会も、人も、歴史はお前が見せた夢を諦めきれずに殺し合う! お前の見せた夢が世界を焼くんだ! 確かにお前は奇跡だろう! お前の存在は奇跡と呼ぶに相応しい! だが、そのお前が見せた夢が、お前が叶えた夢が、自分にも届くかもしれないと只人は死へとひた走り、世界は殺し合う! お前はまさに災厄そのものだ! 人の形をした、史上最悪の禍だ! 人を、世界を、滅びへと導く、破滅の王だ!」
熱い。熱くて、寒い。寒くて熱くて、凍えてしまいそうだ。
炎が降って、氷が舞って。エインゼは笑い、ルスランは何も言い返さない。
音を紡いでいないわけではない。けれど、髪の毛の先を氷と同化させ、肌を焼きながらひた進むだけだ。自分の身を守ろうとすらしていない。ただ、ただ、冷たい熱で塗り潰した虚ろな瞳で、まっすぐにこっちへ向かっている。
手を伸ばし、紡ぐ音は一つだけ。ずっとずっと、一つだけだ。
エインゼは髪の毛の先を炎と同化させ、歌うように呪う。息を吸うように炎を散らせて無傷だ。痛くない、痛くないと、夢見る子どものように鮮やかな笑顔で炎と舞う。炎と舞いながら、呪いの言葉を撒き散らす。
その呪いで全身を傷だらけにしているのに怯むどころか痛がりもせず、ルスランは手を伸ばす。
「月子」
何をやってるの、ルスラン。ルスランが自分の身を守ったって、私は死んだりしないし、泣いたりしないし、傷ついたりしない。ルスランが自分を守ってくれないほうがよっぽど悲しいし、泣いてしまうし、傷つくし、死んでしまいたくなる。ルスランの怖がり、臆病者、泣き虫。
「月子」
神が、いないのだ。ルスランにはもう、祈る先が無いのだ。
両親を、自分を、守ってくれなかった神も、世界も、国も、人も、誰も信じられない。誰にも縋れないと幼い頃に悟ってしまったこの人はもう、他に何も、あの頃から変わらない存在を持ってはいないのだ。
「月子」
泣きたい。もう泣いているのかもしれないけど、泣いた傍から凍ってしまうから、燃えてしまうから、もうよく分からない。
でも、分かることはある。
炎も氷も、肌に触れればどちらも火傷する。寒さも熱さで、熱さも寒さだ。
でも私は、焼かれるなら、あの氷で焼かれたい。私を決して焼かない優しい氷で焼かれるなら、本望だ。
青と赤が弾けた瞬間、渾身の力で両腕を振り回す。重たい鉄枷は、私の力以上の勢いを出して回る。腕の筋が千切れそうな痛みが走り、私の身体は、数本の髪を残してエインゼの手から離れた。
ゆっくりと、エインゼの瞳が私を見る。迷子の子どもみたいな顔で、今にも泣きだしそうな瞳で、エインゼの手が私を追う。
「いた、い」
「……ごめん」
ぐしゃりと歪んだ顔に、一気に凍りつく炎に、震える声に、責めたてられる。
縋られ、責められ、救いを求める手から、また一歩、下がる。よろめいたんじゃない。私は、私の意思で、目の前のこの人を見捨てた。
もう一歩下がろうとした私の手が、後ろから掴まれた。絶望と痛みと恐怖に歪んだエインゼの姿が一気に遠くなる。
目が回るほどに強く、けど痛くないほどには柔らかく、私の腕を掴みとった人の温度を、私が間違えるはずがない。
「ルスラン」
「月子」
ほっと、心の底から安堵した顔を浮かべた人をどんな形であっても守れるなら、私は、悲しいほどに哀れな人を見捨ててしまえる。そういう人間なのだと、はっきり分かった。
だから、だから。
私は、悪魔と呼ばれるルスランの王妃に向いているのだろう。
ルスランが私を強く抱きこんだのと、エインゼの身体が傾いだのは同時だった。膝をつく寸前に、まるで糸に繋がれた繰り人形のような体勢でエインゼの動きが止まる。
「……ああやはり、首輪がある以上、死ぬことも出来ない」
「死にたいなら、殺してやる」
ルスランが視線すら向けずに言い放つ。エインゼは、痛みに呻きながらも、声を上げて笑った。その髪の毛の先が妙な光で揺らいでいる。見間違いかと凝らした視界の中で、光がほろりと解けた。
世界中に散っていた炎も崩れていく。同時に、氷も緩やかにほどけ始めた。
「破滅の王よ。お前が僕に植えつけた夢はいずれ、お前の悪夢になるだろう。それが、人の夢であり、人に夢を撒き散らすお前の業に対する罰だ。だから、お前の月は、僕が」
ほろほろと光が崩れていく。最後まで言い切ることなく、人形のように動きを止めたエインゼの身体は崩れて、消えた。
しんっと静まり返った世界には、虫や鳥の声も聞こえない。風すら止んでいるのか、草花でさえ静まり返っている。
ルスランは何も言わない。動きもしない。動いたのは私が先だった。動いたというより、動かざるを得なくなったと言ったほうが正しい。私を抱きしめるルスランの力が抜けているのか、段々重たくなってきた。
「ル、ルスラン、重、わっ……!?」
私の力じゃ支えきれないほどの重さが加わって、膝が折れる。そのまま後ろにひっくり返るかと思ったけれど、ルスランの腕はびくともしない。結局、膝をついたルスランに支えられて私も膝をついた。
「ルスラン、怪我はっ……治ってる?」
視線だけでルスランの怪我の状態を確認するけれど、まるで早戻しのように火傷や傷が小さくなっていく。
ごとりとやけに重たい音がして視線を向ければ、鉄枷が外れて両手が自由になっている。霜がおりた鉄枷は、私の手にあったときは全く冷たくなかったのに。
苦しいくらいに深く抱きしめられて、身動ぎ一つ出来ない。まるで拘束だ。ぎゅうぎゅうと抱きしめられているから、私の顔がぺったり張り付いている位置にルスランの心臓があった。耳を寄せると、早鐘のような音と振動が伝わってくる。
「……ルスラン」
そぉっと両手を動かすと、何故か私の頭と腰に回った腕の力が強くなった。逃げたりしないのに、消えたりしないのに、本当に怖がりだ。驚かせないようにゆっくりと動かした腕を、ルスランの背中に回す。ちょっと頑張って身体を伸ばして頭にも。
「ルスラン」
さらさらの白銀色の髪が絡まないように気をつけて、頭と背中を軽く撫でる。とん、とんと、私の手のリズムに合わせて、ルスランの心臓の振動も緩やかになってきた。
「心配かけてごめん」
「……月子」
「怖がらせてごめん」
「……月子」
「来てくれて、ありがとう」
心臓の鼓動は落ち着いてきたのに、私を抱え込む腕の力は一向に緩まない。
「あのさ、中にロベリアがいて、怪我してるから早く見てあげてほしいんだ。それと、私、家に連絡しなくちゃ。まだ日付替わってない? もう明日になっちゃった? お母さんに遅くなるって言ってないのまずいよねぇ。責任者として一緒に怒られてね?」
つらつらと必要事項を連絡しているのに、私の雇い主は全く聞く耳を持とうとしない。報連相を徹底しようとしているのに、これでは安心した雇用関係を築けないではないか。
苦笑しながら、大人しく抱き人形になってしばらくすると、ようやくルスランが腕の力を緩めてくれた。身体を動かせたことでようやくルスランの顔が見れた近い。びっくりするくらい近い。よく考えたら抱き合っていたのだから当たり前なのだけど、視界にはルスランの胸しか見えていなかったから全然意識していなかった近い。
「……あ、あのさ、ルスラン」
「……うん」
これはもう、言ってしまうべきでは?
怖いことも痛いこともあったから、ここいらで一つくらい嬉しいことがあってもいいと思うのだ。自分へのご褒美だ。色恋に浮かれた若気の至り万歳。若気でもないと至れないよ万歳。
「わ、私、実はルスランに言いたいことがあって」
「俺もだよ」
お互いの吐息が触れてしまうほど近くにあるルスランの唇が、緩く微笑んだ。
「あの……じゃあ、一緒に言う?」
「……まあ、いいけどな」
「えーと……じゃあ…………一拍ずらすの無しだからね?」
「ああ」
「……やっぱ無しも無しも無しだからね?」
「分かったから」
念には念を押してみたけど、ふざけて一拍ずらしたりやっぱやめたの雰囲気でもないから大丈夫。の、はずだ。大丈夫じゃなかったら泣く。
「えーと……じゃあ」
すぅっと息を吸う。近いから、ルスランも同じように息を整えたのが分かった。
「好きです付き合ってください」
「鏡台を壊して二度と会わないようにしよう」
一拍ずらすことも無く、同じタイミングで言い切った私達は、一拍置いて、首を傾げた。頭の中でさっきの言葉を反芻して、ぐるりと回って、口から返事が出てきたタイミングもぴったり一緒だった。
「あ˝?」
「は?」
ちなみに、「あ˝?」が私で、「は?」がルスランだったけど、戦いのコングはまだ鳴り響いたばかりのいま、そんなのは些細な問題である。
私は、呆然と見つめてくるルスランの前に仁王立ちになった。ポケットを探り、目当ての物をむんずと掴み出す。そして、怒りのままにルスランの胸に握りこぶしと共に叩きつけた。拳を開いた私の手から、単語帳がぽとんと落ちる。
「話があります」
すぅっと息を吸う。
「ルスラン・ヴォルドノ・トルプーギヴァ・アッターク・クスノナ・エルアリ・ルエマ・クアンロ・ハインワンド!」
ルスランは一息でやり切った私と単語帳を交互に見て、ぽつりと言った。
「…………単語帳に書いてまでしないと覚えられなかったのか。暗記苦手すぎだろ、お前……」
「ルスランの名前が長すぎなんだよ!」
異議ありと叫んだ声の後に、はーいと控えめな声が続く。ルスランと二人で顔を見合わせて声の出所を向くと、怪我をした手をおずおずと上げたロベリアが、なんともいえない目で私達を見ていた。
「正直どっちの言い分も一理ありますが、まずは城に戻ってからにしませんかね」
疲れ切ったロベリアのもっともな提案を断る理由は、どこにもなかった。




