0勤
「月子」
ベッドに入って何時間経っただろう。子どもはとっくに寝る時間で、きっと大人だってもう眠っている時間だろう。だって、外は信じられないくらい静まりかえっている。
「月子」
もう一度呼ばれて、わたしはねむたい目をこすって起き上がった。
薄暗い部屋の中でごしごしと擦った視界には、あしたの学校のために用意したランドセルの開けっ放しのふたが見えた。ふた、閉め忘れちゃった。わたしは反省する。
時間わりを確認することに一所懸命になって、他のことが抜けてしまっていた。慣れればスムーズにできるようになるわよとお母さんは言っていたけど、小学校って大変だ。楽しいけど、幼稚園よりうんと大変だ。
気を抜くと落ちてしまいそうなまぶたをがんばって開けて、声の出所に視線を向ける。
そこにあるのはひいおばあちゃんからもらった小さな鏡台だ。二つの引き出しの上にある鏡には、開き戸がついている。けれど、わたしはいつも開けっ放しにしている。こっちはランドセルのふたと違い、閉め忘れたわけじゃくてあえてそうしている。
それは、この鏡でしか会えない友達と会うためだ。
「ルスラン」
開きっ放しの鏡の中には、見慣れた少年が映っている。これが彼以外なら悲鳴を上げるところだけど、彼だから全然怖くない。
「こんなおそくにどうしたの?」
男の子なのに、可愛らしい女の子に見える顔をいつもにこにこさせて、穏やかで、優しくて、柔らかな瞳をする六つ年上の少年が、四角に切り取られた鏡の中からゆっくりとわたしを見た。
いつもていねいに結われ美しく光る白銀色の髪はぐしゃぐしゃに解れ、水色の、けれど角度によって色の変わる宝石のような瞳は真っ赤に染まっている。
光を一切ともさない瞳に闇を落としたルスランは、ひどく乾いた声で言った。
「父上と母上が、死んだ」
「……え?」
「父上と母上が死んだ……殺された。あいつらに、協会に殺された。レミアムは、それを許した」
夜とは違う重たい色の黒を宿した瞳から、どろりと闇がこぼれ落ちるように涙を流す人に、わたしは必死に手を伸ばした。
けれど、六つのわたしにだって持てる小さな鏡台の鏡の中に入ることは出来なくて、短いわたしの腕ではルスランに届かない。いつもは自分からも手を伸ばしてくれる彼は、明かりをともさない部屋の影に呑まれたまま近寄ってはくれなかった。
「……許さない。許すものか、絶対に許すものかっ!」
暗い中でも分かるほどの涙を流しながら、苛烈な憎悪を撒き散らす人は、髪も瞳も寒色系の色をその身に宿しているはずなのに、真っ赤な炎に見えた。
瞳だけじゃない。ルスランの周りに光が散っている。炎なのか雷なのかは分からなかったけれど、夜の星より苛烈な光がルスランから弾けて散っていく。感情が高ぶりすぎて強い魔力を制御できていないのだ。
前に、ルスランはそう教えてくれた。自分の魔力は強すぎて、きちんと制御しないとこうやって周りに溢れだしてしまうのだ。だから子ども、特に魔術士になる才能のある子どもは、あるていど感情を押さえられるようになる歳まで黄水晶を常時持たないのだと、教えてくれた。
聞いたことも、聞かなかったことも、教えてくれた。わたしの話も聞いてくれた。いっぱいいっぱい、どうでもいいことも、自分でさえ何を言いたいのか分からないぐちゃぐちゃの感情だけの泣きごとでも、なんでも、ぜんぶ。
それなのに、今のルスランはわたしのおねがい、一つも聞いてくれない。
「協会も、それに属した奴らも全員殺してやる、絶対に許さない、絶対にっ…………誰も、信じるものか」
ぱたりと一際大きな音をたてて雫が落ちた。その後をていねいになぞり、涙が滑り落ちていく。
「魔術士を……この世界を協会が支配しているというのなら、僕は……俺は、もう絶対に、誰も信じない」
どこか呆然としたような声で、けれど呆けているとはとてもではないが言えない炎を宿した瞳を見開いたルスランは、両手で顔を覆って俯いた。声を殺して涙を流すルスランに、どれだけ手を伸ばしても届かない。肩まで押し込んでも駄目で、姿が見えなくなってしまったルスランに焦れてもっともっとと押し込む。
どこかに行ってしまいそうだと、思った。ルスランがどこかに行っちゃう。湧き上がる不安と恐怖で震える声で必死にルスランを呼ぶ。
「ルスラン、こっち来て」
「……嫌だ」
「そんなこと言っちゃ、やだ」
必死に伸ばしていた手を引っ込めて、自分の目元をパジャマで拭う。でも、どんなに拭っても全然止まらない。わたしの声が止んだことに気づいたルスランがわたしを見て、ぐしゃりと顔を歪め、困ったように炎を散らす。
「そんなこと言っちゃやだ……」
「……月子」
「そんなこと言っちゃやだぁ……!」
ルスランは声を殺したというのに、声を上げて泣き始めたわたしに、ルスランは困ったように眉根を下げた。そして、頑なに動かなかった歩を進めて、鏡の中のわたしに手を伸ばす。鏡を通り抜けて伸びてきた手を必死に掴む。涙でべちゃべちゃになった手を、ルスランは振り払わなかった。けれど動きを止めず、そのまま伸ばしてわたしの頬を拭う。
「お前が泣く必要はないんだよ、月子」
「やだっ、やだ、やだぁ!」
「そっか、やだか……どうしような。お父さんとお母さんが起きてしまう」
綺麗な指が、何度も何度もわたしの目尻と頬を拭っていく。泣いているのは彼も同じなのに、わたしは同じように手を伸ばしても彼に届かない。それが悔しくて悔しくて、余計に涙が溢れる。
「…………なあ、月子」
「……なぁに」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、ようよう答えたわたしに、ルスランは困ったように笑った。
「ずっと……月子だけは俺の味方でいてくれるか?」
静まり返った真夜中の空気に、ルスランの声が小さく、静かに降る。
深々と降る雪みたいだと、思った。それほどに、今にも消えて壊れてしまいそうな声で、ルスランは言う。
「父上と母上が身罷った今、俺はレミアムの王になる。ここぞとばかりに雪崩れ込んでくるだろう協会も、それを支持する奴らも……父上と母上を殺した奴らは全部レミアムから排除する。その過程で、俺はきっと酷いことをする。いっぱい、月子には考えもつかないほど恐ろしいことをする。俺は多分、そういうことを平気で出来る人間なんだ」
深々と降る雪みたいに静かな涙が、ルスランの頬を滑り落ちる。
白銀色の髪も、水色の瞳も、はらはらと流れ落ちる雫も、全てがこんなに綺麗なのに、薄暗い部屋の中でも全く損なわれない美しさでここに存在しているのに、どうしてこんなに悲しいのだ。
「……だけど、嫌わないで。どうか、お前だけは、俺の味方でいて、月子。お願いだから…………俺を一人にしないで」
置いていかないで。
俯いて震えるルスランを抱きしめてあげたかったのに、わたしの手を握るルスランの力は強く、鏡は小さい。どうしてわたし達の間には鏡があるのだろう。
この小さな鏡に隔てられた空間をもどかしく思ったことは幾度もあった。それこそ初めて会ったときから。だけど、この境界をこれほどまでに疎ましく、憎く、悔しく思ったことはない。
手が届かないのなら、抱きしめることができないのなら、言葉を届ける。わたしは洟を啜り、震える声を飲み込んだ。
「…………いいよ」
美しい白銀色がゆっくりと緩慢な動きで上がりきる前に、涙でぐちゃぐちゃになった顔を精いっぱい整える。
「わたし、ルスランがいい子じゃなくても、いいよ。ずっと味方だよ。ほんとだよ、ずっと、おっきくなってもずっと、ぜったい…………だから、ルスラン、どっかいっちゃやだ」
掴んでいた手にぎゅっと力を篭めたら、ルスランははっとした顔をした。そして、まるで反射のように握り返した私の手に額をつける。
「…………うん、行かないよ。月子が味方でいてくれるなら、俺はどこにも行かない」
「……ほんと?」
「ああ、約束だ…………お前の友達、こんなのでごめん。……ごめんな、月子」
「いいよ」
即答したわたしに、ルスランは困ったように力を抜き、微かに笑った。
「いいのか?」
「うん。だってわたし、ルスランの味方だから」
守ろう。
真夜中に一人ぼっちで泣くこの人を、六歳も年上なのに、六歳も年下のわたしのところにしか泣く場所がないこの人を。ルスランが守れないルスランを、わたしが守ろう。
六歳の私と十二歳のルスランが交わした約束は、十年経った今も変わらず、私の一番大事な指針となっている。




