19勤
リーメイ、いや、エインゼと名乗った男が身を起こすと同時に、私も起こさざるを得なくなった。だって、首元に触れている物に押されるのだ。押されているのか、引っ張られているのかもう分からない。よろめく足で立ちあがり、エインゼの胸に凭れるように頭をつける。
首に食い込んでいる物は、恐らく刃物だ。だって、ルスランが酷い顔をしている。そんな、全ての感情が極限を越えてこそげ落ち、まるで無に見えてしまうほどの酷い顔を、しているのだから、きっと刃物じゃなくたって凶器と呼ばれる何かであることに変わりはなく。変わりはないのなら、私に齎される被害も変わらないのだろう。
首を動かせないと、視線もほとんど固定される。今の位置から見える範囲の物しか見えないから、上を必死に見てもエインゼの顔は見えない。解れて流れている美しい金髪だけが、ゆらゆらと視界の端で光を放つ。
「本物のリーメイ・ローウン殿でしたら、今頃川底で眠っておられますので、どうぞご家族の元に届けて差し上げると、きっと泣いて喜ばれるでしょう。ああ、それと、今までは一人旅でも充分だったかもしれませんが、黄水晶が採掘される鉱山持ちともなると、このようなことは日常茶飯事になるので、他のご家族は腕の立つ護衛と行動されたほうが宜しいですよともお伝えください。いくら姿形が似ていても、旅の途中で偶然知り合った旅人など、どうぞ信用されぬように、と」
まるで歌うようにつらつらと、信じられない言葉を吐く人に、自分が触れているという事実に耐えられない。その人の腕の中にいて、触れられているという事実に、呼吸が出来なくなるほどの嫌悪を感じる。
はっと薄く浅く吐いた息に、私よりもルスランの瞳が歪んだ。まるで反射のように、私の呼吸に合わせてルスランの瞳が揺れる。
「協会の、手の者か」
「はい、その通りでございます。わたくし、協会の犬でございますよぉ。世界で唯一の反逆者レミアム王の婚儀ともなれば、協会の犬は喜んで飛んで参りますとも。と言っても、他の犬は弾かれてしまいましたが。わたくし、協会の犬の中でも飛びぬけて優秀な犬ですので」
わんわんと、全然可愛くない鳴き声を上げたエインゼは、くるりと声音を変えて肩を落とす。刃物の位置がちょっと下がる。
「ですが、まさか魔力が0の役立たず王妃だとは……協会の犬はがっかり致しました。こんなものを暗殺しても、ご主人様に褒めて頂けない」
「だったら、離して」
冷え切っているのに酷く粘つく口内を突破した音は、ちゃんと言葉になっていた。一度言葉として音を出せると、後は流れるように喋り出すことができた。
「私なんか殺しても、褒めてもらえないし、ほんとの無駄手間だよ」
「ですが、事情が変わったのです」
「……事情?」
何を言っているのだろうと思いながら、刃物の位置が少し下がったことで僅かだけれど心に余裕ができる。顔を少しだけ動かして視線で捉えられる幅を増やす。ルスランより若干前に出かけている場所にマクシムがいて、剣に手をかけている。そして、ロベリアがいない。
私の首に刃物を突き付けている手とは反対の手が、勢いよく跳ねあがった。
思わず身を竦めた瞬間、鎖骨の上がちりっと痛んだ。たぶん、切れた、と、鈍い頭が重い、思考は酷く鈍いのに、痛みは馬鹿みたいに鮮明で、ずるい。
「動くな、レミアム王の犬」
「懐刀って言ってくれる?」
左から聞き慣れない声が聞こえてくる。でも、喋り方は知っていた。
「ロベリア……?」
「はーい、この後恐らく徹夜で菓子買いに行かされる、ロベリアちゃんですよー」
いつもの調子の軽口で返してくれた人を、限界まで向けた瞳でようやく捉える。
そこには、黒髪の少年がいた。年の頃は私と同じくらいだろう。黒髪の少年の左目は、眼帯の下に隠れている。その眼帯の下には、収まりきらない火傷の痕が見えていた。
「おーお、性格悪りぃ。いつの間に黄喰い仕込んだんだか」
いつの間にか私達の周りにだけ明かりが無くなっていた。
色を変える小石も、花も、魔力が必要とされるギミック全てが止まっている。電池切れを起こしたみたいだ。ほとんど全てにおいて魔力が要求されるこのお城の中で、この場だけ、魔術が途切れている。
「だけど、無駄だぜ。俺は魔術使えなくても十分強いし、その俺よりマクシム様は強い。ルスラン様に至っては説明する必要すらない。この場において、黄喰いはお前を不利にするだけだ」
「それがそうとも限らないのでございますよ。何故か、お聞きになりたいですか、ルスラン様」
ロベリアに負けない軽口で、歌うようにエインゼが言った瞬間、ひやりと背筋が凍った。
もともと立っていた、命の危機に対しての鳥肌なんて可愛いものだったと思うくらい、一斉に肌が泡立つ。はっと薄く吐いた息が、白い。
ぱきぱきと奇妙な音がする方向、ルスランへと視線を戻す。
「御託はいい。月子を離せ」
ルスランを中心として、冬が広がっていく。全てが青に塗り潰されていく。でも、青なのか緑なのか今一よく分からない。角度によって色を変えるルスランの不思議な瞳の色みたいな氷が、ルスランを中心として急速に広がっていた。テレビで見た流氷みたいだなと、状況も忘れて見惚れてしまいそうなほど綺麗な氷だ。
「返せ」
一歩進むごとに、冬が近づいてくる。だけど、私には誰より暖かで愛おしい冬色だ。
「月子に触るなっ!」
トンサにどれだけ怨嗟の言葉を吐かれても決して荒げなかった声が跳ねあがったと同時に、エインゼが刃物から手を離す。
その開かれた掌が、私の胸に、心臓の上に叩きつけられた。
自分の意思でも反射でもない息が押し出された。勝手に吐き出さされた呼吸の音が掻き消される。ごぽりと奇妙な音が頭上から降った。みしりと奇妙な音が足元から生えた。
見開かれたルスランの目が、天に浮かんだ水中庭園を、凄まじい速度で地上から根を噴き出す空中庭園を、捉えている。
「嘘だろ……」
ロベリアの呆然とした声がやけにはっきりと聞こえた。
骨が軋む程に押し付けられた掌に、息が詰まる。
「はっ、ははははは! やはり本物か! 無知なる貴様らに教えてやろう、月光石とは人だ! 嘗てただ一つだけこの世に存在した、魔力を持たぬ稀有なる人間だ! 使える人間が限られるとはいえ、無尽蔵に魔力を放出し続ける、魔術の因果を根本から覆す月の名が、月光石だ!」
地が割れる。
空が落ちる。
世界が、砕ける。
高らかな笑いが反響し、音が世界を壊していく。苦手だった階段が、砂糖菓子みたいにほろりと崩れ、階段と繋がっていたお城が、庭園から見えているお城が、真っ赤に染まる。
一瞬だけお城に向けた視線を、ルスランは振り切った。光を弾く白銀色が、振り返った動きから一拍遅れてひるがえる。
私をじっと見つめる瞳に、選んだのだと、気づいた。
ああ、駄目だ。
駄目。駄目だよ、ルスラン。
この人は誰も信じられない。私のことを何より信じていない。
ルスランは、誰の無事も信じられない。自分より強い人じゃないと、死なないと、殺されないと、信じられない。そしてルスランより強い人がいない以上、世界中の誰も信じられない。
だからルスランは、私を選ぶ。何を切り捨てても、己を斬り捨てても、私を選ぶ。
「ルスランっ!」
呼吸すら押し潰す掌を、押し返すほどの声で叫ぶ。私の絶叫を、ルスランは正確に捉えてくれた。だって私の大好きな顔が、今にも泣きだしそうにぐしゃりと崩れたから。
味方だよ、ルスラン。
私はあなたの味方だよ。あなたが幼馴染でも、遠縁でも、親友でも、好きな人でも、王様でも。間違っても、正しくても、怖くても、優しくても。
どこに辿りついても。
最後まで一緒にいるよ。そう約束したじゃない。ずっとずっと昔に、私と約束、したじゃない。
だから、だからお願い。そんなに怖がって、間違いだと分かっているのに間違えないで。
世界が砕け、視界が回る。けれど、炎を纏わりつかせたお城は美しい氷に覆われ、それ以上赤を広めない。世界中の何より美しい私の大好きな色に染まった世界は、なんだか泣いているようだった。
「月子っ……!」
レミアムの王様がレミアムを守ったのを知ると同時に、私の意識は真っ赤に途切れた。




