そしてありすは、紅茶を飲み干した。
これにて完結。
「へぇ。そう。それは良かったね。いやぁ本当に良かった良かった」
お上品にカップの底には手を添えてその人は笑った。
「あの子に優しくしてくれて、ありがとうね」
私の家族にそっくりな顔で。
◇◆◇
ゆういに助けを強請った後のことは語るに及ばない。
世界は色を取り戻して、動き出し、当然のように私の妹は胸に風穴を開け、魔法陣のような赤い線は光を放ち、神とは到底呼べないような異形が現れ出たという話。
不吉な骸骨は力尽きたように灰になるし、化け物は妹の胸元に吸い込まれそうになるという。その前にゆういが刀を投げて灰にしたけれど。
作戦会議なんてしなかったから、妹が刺された時は取り乱してご迷惑おかけいたしました。いや、本当に。
ゆういはそんな自信、どこから湧いてくるのか、自信満々に胸を張って言い放つ。
時間を巻き戻しましょう、と。
世界まるごとじゃなくて、個人二人程なら簡単だろうって。個々に生き返らせたり、怪我の治癒をするより、二人まとめていけるから楽だって。いつか、時間巻き戻すのも無料じゃない、こんな些事にいちいちやってられるかって言ったのはこの人だよね、なんて思ってしまった。
ゆうい曰く、ここは神々廻の領域、つまり自分の領域だからなんの問題もないとのこと。
そんな彼女に私は鈴を返して、彼女はそれをお正月の神社の鈴もかくや、雑に振り回す。神々しさの欠片もなかった。こんなんでも神様のひとりだっけ。なんだか世知辛い。これは自分のものではなく、本当の媒体を使えば神々しく美しいんだと言うが、どうなんだろう。言い訳にしか聞こえない。
そして間もなく私の家族は怪我も何もなく、ただ眠っているだけの状態になった。精神的な負担とかで暫く寝ているけれど、時間を置けば目を覚ますらしいと聞いて本当に安心した。そんな兄妹は先に上司のところに送っておくと言われた。
遅れて向かった美人様の元では、父が正座して義母に説教されているという珍しい場面を見た。素材は良いのに、だらしなくにやけた顔が全て台無しにしていたよ、父。美人様はそれを面白そうに見ていた。
あの座り方は説教される時にはお決まりなのか。
ええ、少なくともうちではそうでした。
なんて、ゆういと美人様は適当に話しだす。
そして美人様は手を打って、視線を集めた。そうしてやっとこちらに気付いた父は優しく笑って言った。
「おかえりなさい。お疲れ様。よく頑張ったね。みんな元気だよ」
その瞬間、ああ、全部終わったんだなぁって思った。取るに足らない私の、ほんの瞬き程度の、喜劇じみた非日常は。今までだって何度か主人公になりきれない非日常はあった。けれど、今回は全然違った。私は本当に無力で、愚かな、ただの人間に過ぎなかった。それを否応なく悟った。知ってなお、出来ることなど何もなくて、酷く苦しかった。
それなのに何故だろう。私はその中で生きていた気がした。
だからだろうか。終わってしまうと思うとそれは酷く惜しく、悔しい。込み上げる気持ちは安堵よりも、口惜しさ。それでいて、どうしようもなく満足感に満たされているのだ。
見れば、奥の長椅子には、重なり合うようにして義兄と妹が寄り添って眠っていて、その横には兄まで控えている。彼は私と目が合うと目尻を下げて少し、笑った。
膝から力が抜ける気がして、感情の制御がうまくいかなくなる。
崩れ落ちる寸前で父に駆け寄って縋り付いた。
何を言えば良いのか分からなくて、けれど、何か言いたくて、苦しくて、幸せだった。
ゆっくりと、優しい手つきでははは私の頭を撫でた。
何か言わなくちゃ、と思った。言葉はいくつも浮かび上がるのに、ひとつも意味を結ぶことなく嗚咽として溢れでた。
ありがとう、とか。
ごめんなさい、とか。
おつかれさま、とか。
あと、なんだっけ。どれも言葉に出来なくて。
ああでも。これだけは言わなくては。
顔を上げた。
私は笑顔を浮かべられていただろうか?
万感の思いを込めて、言った。
「ただいま、おかえりなさい」
◆◇◆
「おねーさんも大変だったね、今回。まぁ、半分くらいうちの不始末でさ。ごめんね。それとありがとうね」
いつかゆういも座っていたお客様席に座った彼は言った。
ぴん、と伸びた姿勢だとか、カップに添えられた手だとか、そういったものは育ちの良さを感じさせる。テーブルの上のケーキのせいで台無しだが。
そう、台無しなのだ。白磁の皿に乗っていたのはショートケーキ。生クリームと真っ赤なイチゴの素晴らしいコラボレーション。けれどそれは見る影もない。フォーク一本で徹底的に崩されたそれは今や、皿に不気味かつ斑らな模様を描くのみ。時折混ざる赤が不安を掻き立てるものだからやってられない。
こんな食べ方をする人が世界に大勢いるとは思いたくないけれど、残念なことに三人目だ、私の記憶の中では。最早これはケーキに対する冒涜であろう。
本人に言う気なんてないけれど。
「え、ああ。ケーキの食べ方?見苦しいでしょう。ごめんね」
「私は何も言っていませんが」
「あ、良いねその口調。澄ましちゃって、余所行きのゆういみたいだ」
くすくすと彼は笑う。それはどこか父やゆういに似ていて親近感というのだろうか、なにか柔らかくて暖かい気持ちが湧き上がってくる。なんだか、仲良くなれそうな、そんな気が。
「……食べ方はあまり気にしていません」
「だろうね。知ってる」
彼はまた、くすくすと笑った。
訂正。無理だ。これは駄目な奴だ。仲良くなれる奴じゃない。
謝ってる風でちっとも謝ってない。なんでもない顔で謝るゆういとはまるで逆だ。
くすくすと笑う奴は紅茶を啜る。
「紅茶は」
「うん?」
「美味しいですか?」
「美味しいよ」
彼が持ったカップの中身を思い起こす。来客者用の高い奴。ゆういに出したものと同じ。私は紅茶を愛しているから丁寧に、心を込めて淹れる。当然茶器だって温める。
「嘘ですね」
「嘘だよ」
そんな私の愛しの紅茶様に奴は溢れる程のミルク、そして馬鹿になりそうな量の砂糖を加えたのだ。最早それは紅茶ではない。某ペットボトルの紅茶よりも甘いだろう。それは、薄茶の、粘度の高いどろっとしたなにか。少なくとも飲み物ではないだろう。飲むというより食べるの方が似合うのだから。
彼はかちゃり、とカップを置くと楽しそうに笑った。私もにっこり、余所行きの笑顔を浮かべる。
「良いねぇ、おねーさん。ゆういと話してるみたいで楽しいよ」
「それはどうも」
「好きになっちゃうかも」
「それも嘘ですね」
「うん、嘘だよ」
笑った、仮面みたい。
ゆういはあの無表情の中に溢れんばかりの感情を孕んでいた。けれど目の前の彼は逆だ。感情豊かに見せかけた仮面の奥では無表情なのだろう。
「嫌いでしょ、私のこと」
「そんなことないよ。大好き」
「それも嘘」
「うん、嘘だ」
嘘だという彼は、きっと本当なら私に感情を悟られるようなことはないのだろう。今は、恐らく揶揄っているだけ。それがどういう感情によるものなのかは、分からないけれど。
ちっとも笑ってない冷めた目を見ながら思った。
「本音は?」
憎悪すら滲んでいる気がする。何に由来しているのかは分からないし、そもそもどういう意図があって彼がここにいるのかすら分からないってのに。
「ゆういみたいで、凄く、不愉快だよ有栖川有子」
彼のそれが本音かは知らないけれど、こいつはゆういとは違うんだな、とどこかで納得した。彼女は極力私の名を呼ばなかった。名前にあれだけの意味を見出していた彼女のことだから、それが優しさから来た行為だと分かってる。
けれどこいつは違う。
「お前はゆういではないし、誰だってあの子にはなりえない。だからもっとさ、跪いて、這い蹲って、許しを請うような生き方をしていれば良いのに。よりによってゆういみたいなんてさ。巫山戯てるよね。自分で首でも突いて死ね。言葉を交わすことすら烏滸がましいと知れ」
光が溢れそうな神々しくも愛らしい、そんな笑顔で奴は言い放った。何の躊躇いもなく、毒を撒き散らす。
やばい。久し振りに会った、こんなに螺子の飛んでる人は。
「……さっきのありがとうは、何のありがとう?」
単純に不始末を片付けたことに対するものではないだろう。
「それは勿論、あの子に人を殺させないでくれて、ありがとう、だよ」
あの子は気にしないだろうけれど。なんて。
思わず笑顔が引き攣る。変な風になってないかな、顔。
「ひとつ、聞いても良いですか」
「良いよ」
息を吐いて、吸って。乱れた心を正す。
この人が来た時から、ずっと聞きたかったこと。
「人の命に貴賎はあると思いますか?」
彼は何も動じず笑みを深くして言った。
「まさか」
ゆういと全く同じ顔で。
◇◆◇
どんな物事にも本質というものがある。
父の本質は理解できないものであり、兄妹らのものはきっとありす。そして、ゆうい。父のものと同じく、私に推し量ることは出来ない。けれど、先程まで毒を撒き散らしながら、紅茶だったものを啜っていた、ゆういにそっくりな彼とゆういの本質は、恐らく同じだ。
きっと、彼がゆういの双子の弟。
おめでとう私。いとこコンプリートだね。恐らく。
彼が立ち去った今、確認するすべはもうないけれど、間違いないだろう。あれだけ似ているんだ。まるで鏡に映したよう。違いは髪の長さと表情だけ。それだって、あんなにそっくりなんだし。
いつか、私は同じ名前の幼馴染みと入れ替わりっこなんて言って遊んでいたけれど、そんなレベルではないだろう。私たちがそっくりだというのなら、彼らは、まさに鏡写しだ。
身長、声、色。私たちはそっくりではなかったから、入れ替わりという手段を選んでいた。違う口調、違う癖を真似て。けれど彼らは違うだろう。区別するために、口調を、姿を変えていた。
まさに双子。きょうだいではない。ふたつでひとつなのだろう。
ひとりになった部屋で、すっかり温くなった紅茶を飲んだ。
そういえばひとりになるのは久し振りかもしれない。体調が戻った妹やら義兄やらがべったりしてたし、兄もちょいちょい私を気にしてくれていた。
けれど今日は違う。父が帰ってくるのだ。
あれ以来少し仲良くなったらしい妹と義兄は一緒に出かけているし、兄は父らを迎えに行った。
そして私は。
今を言い表すならば、概ね平和だろう。
けれど私にはこれがエンディングの、エンドロールすら終わった後の倦怠感なのか、それとも劇と劇との間隙なのかも分からないのだ。このまま腐り落ちていくだけなのか、それともまた、血を吐くような激情に身を焼かれるのか。どちらも大切で、憎らしいのに。
ああ、でも、どちらでも良いか。私に、選ぶ余地があるわけではないし。もし選べるとしても選ばないという選択肢を選ぶくらいならば。
ああ、この世界の神様はどんな人で、どんなシナリオを眺めているのだろう。
見えなかったことが見える世界は、見えなかった世界とは違う。まるで、生まれ直したよう。どれだけ乞うても戻ることなど、出来やしない。
けれど、悪くはない。
ぴんぽん、と呼び鈴が鳴る。きっと、帰ってきたのだろう。さぁ、出迎えなくては。
「はい」
「従姉妹様」
息が止まるかと思った。
静かな声。ずっと聞いていたようで、ずっと離れていた。それは、私のよく知る人の声で。
「お久しぶりですね。お元気でしょうか。……ああ、開けなくて良いです。時間もあまりありませんし。今日は挨拶だけ」
けれど私は玄関に駆けて行った。そして勢いよく扉を開ける。
開けた扉の向こうで彼女は苦笑した。
赤いスカート。リボン。高い位置で結った髪。淀んだでいるくせに澄んだ黒い目は、夜を閉じ込めたもの。
「危ないですよ」
「……久し振り、ね」
「言う程久し振りでもありませんよ」
彼女は手紙を一枚差し出す。
「主任からです」
「今日は、忙しいの?」
「ええ、まぁ。後始末が」
ああ、違う。言いたいことはこんなことじゃない。いくら言っても足りない感謝とか謝罪とか。会えて嬉しいとか。
ああ、そうだ。私は選べずとも良いと思ったのは。
「でも、ほら。言った通りになったでしょう?あなたが望むなら、と」
手紙を受け取った。
「ねぇ、じゃあ今度時間があるときにまた来てね」
「善処しましょう」
「話したいことが沢山あるの」
「私はあまりありませんよ」
「いいよ、私がお願いするだけ」
彼女はまた、苦笑した。
「では、紅茶でも用意していて下さいね」
◆◇◆
それでは、と背を向けたゆういを見送って私は手紙を眺めた。白い封筒には宛名も何も書いていない。けれど、白によく映える赤の封蝋はなんだかあの美人様を思い出させる。なんの模様だろう。凄く繊細で綺麗だとは思うけれど開けられない。
またひとりになったけれど、これは別に嫌なひとりではない。深い考えに溺れるようなひとりではないから。
ねぇ、ゆうい。次会ったら何から話そう。
話したいことは沢山ある。私たちは全然違うから話さなくては分からないね。あなたは分からなくてもいいと言いそうだけれど。
そう思うと思わず笑みが零れる。
いつか、あなたの手を引く人になりたいと思います、なんて言ったらなんて言うんだろう。想像もつかない。
手紙は、しまっておこう。もうすぐ帰ってくる人がいるのだからじっくり読む暇もない。それに、あの封蝋を壊すのはなかなか勇気がいる。
手紙をしまって、次に何をするかを考えなくては。
今日は人数が多いから、食事も量を用意しなくちゃいけないね。そこで、 話そう。私が何をしたのか。
そして、私の従姉妹について。
思い出してもかなり偏屈なひとだったね、私の家族は。でも、悪い人ではなかった。紅茶、好きだったし。
うん。大丈夫。私は笑っていられる。
私はひとつ、息を吐いて、吸って、笑みを作る。人がいないと笑えない、なんて言っていたけれど、もうそんなこともない。良くも悪くも、今回の事件は私を変えてしまったらしい。
けれど悪くないでしょう?なんて言ってみて。
ええ、悪くない。いつかの私に言えたらいいな。
手を翳した。その甲にはもうなんの文字もない。認められた証も、認められたいと願った意味も。けれど、悪くない。どれもこれも、悪くなんてない。
今度は、偽造でない認可を受けたいものである。それを私にくれるのがゆういであればいいなぁ。
なんて。
ぬるま湯みたいな現実に浸って、ぬくぬく私は笑う。そんな、麗らかな春の日の一幕。
私は紅茶を飲み干した。