⒋ありすより、朽ち果てていく紛い物に。
「へぇ、じゃあ"いとこさま"がししばゆういの娘、ねぇ」
赤い絨毯。高く聳え立つ紙の塔。光を浴びて煌めく白の光は雪のよう。
飴色の美しい机に肘をついて数枚の紙を捲り、目を通したのだろう、彼は顔を上げると私を見てにやりと笑った。
いとこ君が消えた後彼女の上司を名乗る美しい青年に連れられて私はここに来た。暫く待たされて、その後、彼は数枚の紙を手に私を見て嗤う。
彼の手元にあるのは私の情報だろうか。
「これは確認だが、お前はシシィに連れ回されただけ、そうだな?」
「お言葉ですが、シシィとは誰のことでしょう」
美人は三日で飽きる。あれは本当だったのかもしれない。寧ろ三日もいらない。
赤い絨毯はよく人が通る場所は擦り切れて色褪せている。高く聳え立つ紙の塔は片付いていない仕事の山に言い換えることができそうだ。白い光は歩くたびに舞い上がる埃、隅の方にはこんもり積もって何センチ?
これが彼の部屋だというのなら、私は、こんな人はいくら美人でも御免被る。
にやにやしながら美人様は言う。
「お前と一緒にいた奴だよ。一応俺の部下だ」
「そうですか」
片付けが下手な人とは付き合わない方が良いんだって。友達が言っていた。
「で、連れ回されていたんだな?」
そういえば、今は亡きゆういに託された鈴はどうしよう。借りたものだから返したい。それに、これを預けられたのは少し信頼されていたと、そう思って良いのかな。そんなことを思ってしまう。
ていうかまだ死んでないよね。多分。
どこに向かっているのかもわからないまま引き摺り回されたことに変わりはないけれど少し、楽しかったな。だからあのままさようならは少し寂しい。
彼女は自分の考えを私に話してくれるようなことは殆どなかったけれど、それでも嫌いになれなかった。言葉足らずに私のことを想ってくれていた。そんな気がする。
なんだかんだで結局、彼女と仲良くしてほしいとそう言った父の願いを叶えた形になるのかも知れない。
「……おい?」
彼女は今、どこにいるのだろう。どうしているのだろう。私のことはどれだけ話せただろう。彼女のことを私はどれだけ知れた?なんであそこまでして、助けてくれようとしたのか。不自然なことばかり。それでもきっと、優しかった。きっと、好きだった。
もっと、彼女の話が聞きたかった。
「きいてるか」
目の前の他人に程近いこの美人様の手元にあるのが私について記されたものであるならば、なんで薄っぺらなんだろう。人の生き死になんて神様は気にしていないんだと改めて見せつけられているような気がする。
生まれてから死ぬまでのことはきっと定められていて。A4判のレポート用紙二、三枚で事足りるような人生だったに違いない。
取るに足らない一駒は瞬き一つ分にも満たない時間を永遠と呼ぶ。
ならば。
「ねぇ、主任さん。ゆういはどこですか?」
「……ゆうい?」
「私のいとこ。長い黒髪に濁った黒い目をしていた筈。苗字は多分ししば」
「みなまで言うな、そのくらい分かる」
「分かるならば、教えて下さい」
いつの間にか笑みを消したその人は作り物のような無表情で私を睨めつけていた。
けれどそれを意に介して差し上げる程の心の広さは持ち合わせていない。私の心は家族に全て捧げているのだから。
本当は笑える程に足は震えている。今にも崩れ落ちてしまいそうだ。けれどここで私が口を閉じてどうなろう。
一番最初はなんだった?両親が誘拐されたんだっけ。いや、拘束されたんだ。どっちでも良いけれど。
そして次に何が起きた?私の大切な兄妹が死に掛けてたんだ。だから、助けに行かなきゃ、と言って。無力な私はゆういに散々迷惑を掛けた挙句、立ち止まっている。
いつだって誰かに助けられていた私は一人で歩くことは出来ない。そんなことはずっと前から知っていた。
魔法使いになれない私が誰かに誇れるような特別さはとうにない。
召喚?魔術?そんなものが特別だというのはどこの愚か者だろう。今だって召喚されてるようなものじゃない。自分の意思とは離れて、違う世界にいる。これ、召喚でしょう?魔術だってそうだ。特別なんて言ったところで科学も変わらない。昔々は鍍金の技術すら魔術と呼ばれていたんだ。そんなものにどれだけの価値が?
誰にでも起こり得るものを特別と呼べないように、どこにでもいる私は、特別なんかじゃない。
「不可能だ、"いとこさま"。立場を考えろ。お前自身に価値は、ない」
その点、私のいとこであるゆういは確かに特別だったのだろう。突き抜けた基礎能力に技術。何をどうしたらああなるのかまったく分からない。
逆立ちしたって私は彼女に勝つことはないだろう。
けれど
「価値は、必要?」
そんなことは誰が言った?
私は、笑顔を浮かべる。
「立場は、大切?」
それは誰が決めたこと?
もし、取るに足らない私たちに価値があるとするならば、それは一瞬の儚さと、それに付随する激しさ。すぐに燃え尽きる感情だって、燃え上がれば良い。一瞬なんだから。
永い時間に倦んだこの人たちが、一瞬に命を賭ける私たちに勝てる筈がないだろう。
欲望に関しては。
「私の価値なんて、あなたに言われなくたってわかってる。立場だってそう。でも、死んでても可笑しくないような私なんだし、別に構わないでしょ?」
もしも私に、ゆういに勝てることが一つでもあるとすればそれは意志。心持ち。曲げること、挫けること。それらがなければ、あるいは。
そのためならば、きっとなんだって。
震える足を叱咤した。
「私はいとこに会いたいだけ。まだ、約束があるの」
必死で被った虚勢の仮面に縋り付く。願わくば、この仮面が本当の自身になれば良いのに。
「ねぇ、ゆういにあわせて」
りん、と、鈴が小さく鳴いた。
◆◇◆
『では、やってみろ。何処までやれるか見ものだな』
美しい人は酷薄な笑みを浮かべてそう言った。
甘い甘い、毒のような声だった。
何処までも続く、長い廊下を駆けていく。
左右の壁に灯された明かりがゆらゆらと影を揺らす。響くのは一人分の足音。何処に向かっているのか、私も知らない。
変わらない景色の中をずっと進んでいく。等間隔に並んだ明かりは私が行く道を照らさない。霞んで見えない終着点に、一人分の人影を見た。
「初めまして、お嬢さん。何処へ向かっているところかな」
黒々とした目を私に向けてその人は言った。
「ゆういのところへ向かっているの。けど、進んでも辿り着かないから、どうして良いのかわからない」
「……ゆうい?」
何処かで見たようなその人は張り付けたような笑顔のまま、かたり、首を傾げる。さながら人形のように。
「奇遇だね、僕もゆういなんだ。君が探しているゆういはどのゆういだろう」
「私と同じくらいの女の子。髪が長くて……赤いスカートを履いてた筈」
「君と同じくらいだとQ#8かな?スカートじゃなくて赤い袴をはいていた筈だけどね」
彼はなんと言ったのだろう。恐らく誰かの名前を呼んだのだろうけれど私には聞き取れなかった。何かノイズがかかっていて、きぃん、と頭を掻き回されるような不快感だけが残る。
「ごめんなさい、あなたがなんて言ったのか分からない」
「……そう。なら仕方がないね」
黒い髪に黒い目をした若い男性。けれどどうしても年齢が分からない。年老いた老人のようにも、年若い少年のようにも思われる。
張り付けた笑顔が薄ら寒かった。
「けれど、きっと君では辿り着けないだろうね、標がないのなら」
「しるべ?」
「そうだよ。君を導くもの。惹かれ合うもの」
「それはどんなもの?」
「形があるものとは限らないけれど。……そうだね、強いて言うならば強い想いのようなものかな?」
瞬きさえしないその人は柔らかな温度のない声でそう言う。
「ところで君はどうしてこんなところに?」
「それも分からない。ただ、最初は家族を助けたかっただけ。理由もなく奪われて良い筈がないでしょ?」
「理由があれば良いの?」
そういうわけじゃない。言いかけたけれど、言えなかった。底まで見透かすような暗い目が私を覗いていた。
ああ、この目はゆういに似てるんだ。
「ごめんね、僕には分からないんだ。家族が大切なんだね、君には」
「……そう」
「血の繋がりを家族と呼んで無条件の愛情を注ぐなんて芸当、僕らにはできないんだ」
「……どうして?」
「そういう愛を注がれた記憶がないから、かな?僕はQ#8たちが大切だし好きだけれど、無条件に愛せる程のものじゃない。その点、あの子たちは異常だったね、そこに愛があったかは別として」
「あの子たち」
「恐らく君が探しているであろうゆういだよ。双子でね。半分が二つ集まって一つに振る舞う、そんな子だ」
懐かしむようにその人は言う。
「……そういえば君は、何処かあの子たちに似ているね」
その声に応えるように、りん、と、小さく鈴が音を立てる。
おや、とその人は張り付けた笑みを消した。
「それは、ゆういの鈴だね」
「うん。預かったの、ゆういから」
「見せてくれる?」
私は白い布で覆われたそれを取り出す。その人が手を伸ばすと、いつかの私のように弾かれる。
「なんだ、君は持っているじゃないか」
その人は湧き上がるような笑みを浮かべ、言った。
「それは、立派な標だ」
笑みを深くして、その人は鈴に触れる。
「さぁ、もう行きなさい。……Q#8に、よろしく」
◇◆◇
よく分からないゆういを名乗るその人が突然搔き消えると、突然鈴が震え出す。小刻みに、音になる前の振動が空気を揺らした。
そして一際大きく、鈴がなった。幾重にも重なる波紋が唐突に意味をなす。
白い布の上から貼られた大量の札は灰に、直接触れていた布は溶けるように消えていく。くすんだ銀の鈴はゆるり浮き上がり、もう私のものじゃない。
淡い光を放ちながら、反響する鈴の音が世界を犯す。壁、床、天井。音が響くたびに罅割れ、砕けていく。支えを失った破片は落ちて、消えた。
私にはどうすることもできない、けれど私が恐らく原因であろうこの事象に対して口を開くこともできないまま、私は長い廊下が壊れていくのをただ、見ていた。
「『ししばゆういが乞う。おやすみ、ゆうい』」
ぴたり、音が鳴り止む。ゆっくりとこちらに歩いてきたその人は私の目の前で、手を伸ばしてその鈴を握った。じゅう、と音がしてその手から煙と、焦げ臭い香りが立ち上る。
ぽたり、赤い雫が落ちた。
私はその人を見上げていた。
恐らく私の目は見開かれていただろう。それはもう、驚きで。
私の顔を見て、その人は柔らかく微笑んだ。
「久しぶりだね、有子ちゃん。元気にしてた?」
落ち着いた、低い声。
「それと、みんなは元気にしてる?有朱とはさっき会ったから元気にしていることはわかっているんだけれど、有守くんや有栖とは会ってないどころか話すらしていないからね」
暗い瞳は一応、優しさでできている。
「……それと、ゆういとはどう?良い子でしょう」
妻を愛し続けて新婚旅行も早数年。その最中によく分からん集団に拉致られた、私もよく知っている人。
「ああ、それからさ、これが一番大事なんだけど」
きらり、目を光らせて、
「優子知らない?ここに来たときに引き離されちゃって」
ああ、この人はまごうことなき我らが父だ。