⒉ありすより、優しさよりも退屈な。
目を開けたら絵に描いたような仏頂面があった。
私は目を閉じた。
「お早いお目覚めですね、おはようございます。ご機嫌如何でしょう」
もう一度目を開けて、夢じゃなかった。
「最悪な気分。頭ガンガンするし吐き気がする」
どうしたものか、無造作に床に転がされていたので起き上がる。頭が揺れて、また意識が飛びそうだった。何故こんなことになっているのかてんで見当もつかない。
「頭揺らして首も締めました。その程度で済んでよかったです」
「ちょっとまて、なにさらっと殺そうとしてるの」
「意識を刈り取ろうと思っただけです」
「どっちかだけでいいと思うの」
「人間には腕が二本あります。片方は頭のために。もう片方は首のために」
「絶対違うだろ」
尤もらしく言えばいいってもんじゃない。寧ろタチが悪い。
「まぁ、気にしないで下さい。時間を巻き戻すのも無料じゃあ、ありませんし」
「巻き戻せるのかよ」
「勿論です。こんな些事でいちいち巻き戻すわけにもいきませんが」
「些事……」
殺されかかって些事ですか。なにこの理不尽な感じ。
それにしてもなんで私はこのいとこ殿に意識を刈り取られるようなことになったんだっけ。確か、私がこの人を引き止めて、ぐうの音もでない程打ちのめされて。それで、なんか、扉を蹴破って。そのあとに……。
ぱん!
手を打ちあわせた音だった。
顔を上げた。
「もう一度、刈り取った方が良いですか?」
なにを、とは言わない。言わなくたってわかる。だから、私は口を開いた。
「ねぇ、なんであんなことがあったの」
見渡しても、此処はただの居間だ。四人掛けのテーブルがあって椅子がある。窓の方にはソファ。窓からは熱を帯びた橙の光が射し込んで、眩しかった。
いつの間にか、もう夕方だ。
「ねぇ、なんで?」
私といとこは向かい合ってふたりぼっち。義兄もいもうともいない。
いとこの後ろに見えたいとこが蹴り飛ばした扉は何事もなかったかのように閉じている。
「それを、あなたが訊きますか」
「……え?」
一瞬、真っ暗な目に躊躇いに似た揺らぎが映る。けれど、それはすぐに消えた。
「……いえ、あの件について私から言えることはありません」
「じゃあ、私の兄妹はどこに行ったのか教えて」
当然のように部屋の中には血痕なんてない。まるで、さっきまで私が見ていた景色の方が嘘みたいだ。
けど、そんなの可笑しいでしょう。
「訊いて、どうしますか」
「此処にいないんでしょう?迎えに行くの」
「もうこの世にいないとしても?」
ちらりと、散らばった黒髪と赤色、白い腕の幻がちらつく。
「なら、生き返らせれば良いだけ。父さんに出来たんだもの。私にだって出来る」
今私は目の前の彼女の目に、どんな風に映っているのだろう。感情を窺わせない黒い淵に臨んだ。
彼女は溜息を吐いた。
「冗談でも生き返らせるなどと、言わないほうが良いですよ。"ししばゆうい"の子が言えばそれは処分対象になりかねませんから」
彼女は立ち上がって、こちらを見ないまま窓辺に歩み寄った。カーテンに片手で触れて、窓の外を覗く、赤く染まった姿は酷く現実味を欠いて、美しかった。
ちらり、こちらを見ると彼女は言った。
「支度をなさい。"あなたのお友達"ではきっと辿り着けないでしょうから」
窓の向こうに目を戻す。
「……それと、あなたのご兄妹は生きています、一応、ですが。空の器では用を成しませんから」
そして、彼女は音を立ててカーテンを閉じた。
◆◇◆
「そういえば私、兄がいるんだけど」
「知っています。長男でしたっけ。あなたと唯一きちんとした血の繋がりのあるという」
「そう。今仕事でもうすぐ帰ってくると思うんだ。だから夕飯の支度を……
「必要ないかと」
必要ない?
「彼は証人喚問的なノリで本部にいます。叔父さんの処分が決まるまで帰ってくることはないかと」
「そういうのは早く言ってよ!」
とりあえず、兄は安全だろう。少なくとも此処にいるよりは。気持ち父に近い位置だろうし。
「それで、兄妹はどこに?」
「知りません」
「……は?」
「だから、それを調べるところから始めます」
何馬鹿なことを、そう言いたげな目が私を見ていた。可哀想なものを見る目だった。
「下がっていなさい。それなりの場が必要なんです」
「それなりの場っていうのは、こう、儀式的な?」
「スペースの問題です」
スペースかよ。
そうして彼女は何処からかボールペンを取り出した。何処にでもあるような飾り気のないもの。
「安心して下さい、油性です。マヨネーズで落ちます。手を出してください、仮許可証を発行します」
「何それ」
「基本的に人間は生まれた世界を離れるとさる場所へ連絡が届き、一定時間以内に帰還しなければ送還、或いは消去という処分が、こう、あれします。そうならないために、この人は許可を取って出かけてますよ、という印です」
……あにたち、この前召喚された時、大丈夫だったのかなぁ。そもそも私、召喚されたよね、昔。大丈夫だったのかなぁ。
「そんな許可、いとこ君が出していいの?」
それなら凄い。
「良いわけないじゃないですか」
「……は?」
「偽造です」
「めくらまし」
「時間さえ稼げれば良いんですよ。スピード解決」
「……ばれたら?」
いとこ君は初めて見るような、美しい笑みを浮かべた。元の造形は非常に整っている、いとこ君である。それはもう目が離せない程の満面の笑み。魂ごと吸い取られそうな。
そして、目にも留まらぬ速さで私の手を掴む。
「バレる前に逃げれば良いと思いませんか?」
絶対に離さないぞ、という意思が透けて見える力加減。離そうと奮闘するも離れない。何こいつ、強すぎだろう。
「いいと思いません。……え、ちょっと待って、普通にこれやばいやつでしょう、処分を下す人たちに喧嘩売ってるでしょう」
「大丈夫、上司です」
「しかも知り合いでしたか」
「大丈夫、向こうも向こうで隠しておきたい秘密なんて沢山あります。不倫、二股、特殊な性癖にノイローゼ、生え際後退や昔の非行に腹に付いた脂肪のパーセンテージ、そういえば臀部の青痣も気にしていましたね」
「なんでそんなこと知ってるの!?」
「企業努力です」
「企業秘密じゃないの!?」
右手にペン、左手に私の手を握ったいとこ君は、良い笑顔で手の甲に円を描く。コンパスを使ったかのような綺麗な丸。
そしてペン先の太いものに持ち替える。名前ペンだ。
「安心して下さい。もう手遅れです」
「安心する要素ひとつもない!」
その何処にでもありそうな名前ペンで、彼女は円の中に文字をひとつ書く。
"認"
「…………」
「…………」
満足したようにいとこ君は私の手を離した。
「……え、これで終わり?これでいいの?」
「明朝体の方が良かったですか?」
「いや、その辺はどうでもいいや」
下手なわけじゃない。凄く綺麗、そういうわけでもない。普通に見やすくていい字だと思う。
「……これで、向こうの人は騙されるの?」
「ええ、まぁ」
いつの間にか無表情に戻ったいとこ君の顔をまじまじと眺める。残念なことに私には彼女が嘘を言っているのか冗談を言っているのかわからない。
「下手に魔術的な意味は組み込まない方がいいんです。魔力なんていうのもそう。匂いでばれますよ」
それに、と彼女は続けた。
「あなたに似合いだとは思いませんか?」
それだけ言うと彼女はくるりと私に背を向けて何もないスペースの方を向く。
そしてどこからかくすんだ銀の鈴を取り出した。彼女は膝をついてその鈴を捧げるように高く上げる。まるで、跪いているようだった。
しゃらり、小さくひとつ音がして淡い光が溢れるように見えた。そして鈴は少し浮き上がる。
「『ひらけ』」
凪いだ水面に石を投げこんだように床が波打つ。ひとつ、ふたつ、中央から漣のような線が揺れる。幾重にも重なって鈴の音が聞こえた。
それはさながら儀式のようだった。
びりびりと恐怖にも似た何がが背筋を撫でる。今まで見てきた魔術だとか、そういったものはまるでままごとだ。彼女が先程私を馬鹿にして、私はそれに反発した。けれどこれを見せられては彼女の言葉の意味もわかってしまう。それ程までに違うのだ。
「従姉妹様、此方へ」
立ち上がった彼女が振り向いて私に手を差し伸べる。彼女の向こうには鈴が浮いていた。少し光っている。
「何処に行くの?」
「"月"です」
「は?」
「月というのは比喩ですがね。昼だろうか夜だろうが関係なく空にあり、かつ、手の届かないもの、ということで月と呼ばれています。深く考えなくていいですよ。単なるデータバンクです。規模が違いますがね」
「……似たような場所を知ってるけど……何か違うの?」
「違うと思います、主に規模が」
私は彼女の手を取った。
「普通の人間が処理できる限界を軽く超えているんですよ。人格があると即アウトでしょうね、パンクして存在自体ぶっ飛んでも仕方ない、そういう場所です」
「聞けば聞く程危険な気がするんだけど」
「下手に触らなければ大丈夫です。死んだら骨くらいは拾いますから」
……気をつけよう。
それだけ言うと彼女は私の手を引いて揺らぎの中央に進む。そしてその丁度上に浮かぶ鈴に手を伸ばした。
ふと、私は彼女に問いかけた。
「ねぇ、私あなたのことなんて呼べばいい?」
すると彼女は一瞬動きを止めた。そして此方に目を向けることなく、何処か困ったような声で答えた。
「……ゆうい、と」
そして鈴に触れた。
途端、世界は色を失って急速に滲んでいく。自分の意識すら溶けていくような気がして酷く恐ろしかった。音も聞こえない。段々と熱が失われて、まるで死んでいくみたい。手の中で潰えたいつかの生を思い出す。吐き気がした。
無理矢理口を開く。
「ねぇゆうい、知ってる?」
「何をですか?」
即座に帰ってきた何も変わらない、淡々とした声に安心した。
「油性のインク、マヨネーズじゃ落ちないよ」
返事はなかった。けれど驚いたように一瞬強く握られた手の感覚だけは酷く確かで笑える。
繋がれた手の温かさはそのままに、それが酷く優しくて。私の意識は途切れた。