⒈ありすより、退屈な紅茶を。
その日は天気がよかった。洗濯物がよく乾きそうだな、温度湿度ともにこれ以上ない。布団も干そうか。なんて思いながら雲ひとつない青空を見上げていた。
柔らかな陽射しの降り注ぐ春の日のはなし。麗らかな春の昼下がり。まごうことなき良い天気。非常に嫌な予感があった。
◇◆◇
ソレに初めに気付いたのは我が家の最年少、いもうとの有栖だった。彼女は出し抜けにこう言った。
「父さん、どこ?」
どこ、と言われても新婚旅行中だ、としか言えない。だからと言って、父に甘えるどころか興味すら持っていないであろう彼女がなんの理由もなく父を呼ぶわけもない。
それでも私はなんか変なこともあるんだな、としか思っていなかった。
次に気付いたのは引きこもりの義兄だった。彼は私を呼び止めて言った。
「……今日は、出かけない方がいいと思う」
そんなこと言われたって私には今日の夕食の材料を買いに行くという使命がある。私がサボれば家族全員が飢えるというのにこいつは何を言っているんだ。
私はとりあえず無視をした。
そして、兄も気付いた。彼は珍しく私の顔をまじまじと見て、ちらりと外に視線を向けて、言った。
「今日は、嫌な日ですね」
珍しいこともあるものだと思った。兄の興味は基本的にいつでも義兄に向かっている。特別言葉をかけられるなんて明日は雪が降るのではと思った。
かくいう私は何も気付いていなかったのだけれど。
兄が出勤し、義兄が部屋に引きこもって、やっと一息つけるようになるといもうとが言った。
「今日、春休みでよかったね。なんとかなると思うよ」
「なんとかって何。父さんどことか、出かけない方がいいとか、嫌な日だとか。今日、そんなに変?」
いもうとは驚いたように目を瞬かせた。
「何って……有子、気付いてないの?」
「だから、気付くって何に」
いもうとは何か、口の中で言葉を転がして苦い顔をしていた。言いたいことは決まっているのにそれをうまく言葉にできないようだった。
そして、ついに相応しい言葉を見つけたようでゆっくりと彼女が口を開いたその瞬間、
ソレは我が家にやってきた。
◆◇◆
「今日は」
そういった人は良くも悪くも目立ちそうな人だった。髪はひとつに結い上げられて尚、腰に届くほどの長さで、黒い。服装もコスプレかと思うようなものでコルセットやらガーターベルトやら、かなり浮いている。それなのに安っぽい感じはしないのでそれもまた目を引く。
そして何より目を引いたのはその、目。
暗く澱んでいる。そのくせ何処か透明で硝子玉のよう。覗き込まれれば全て見透かされているような錯覚さえ覚えそうで、怖い。これは、人を呑む目だ。まるで私たちに価値を見出さない、人を殺す目。見ているだけで圧倒される。
それは何処か、父に似ていた。
「今日は」
その人は繰り返した。
はっとした。
「こ、んにちは?」
その人はなんの表情も浮かべないままいった。
「突然すみません」
そして黙った。
……これ、どうすればいい?ていうか、誰?同い年くらいに見えるけれどどうなんだろう。
そもそもなんで無表情のまま謝られてるんだ?
許す?許すとでも言えばいいのか?
「えと、どちら様で」
「何も聞いていませんか。それはそれで驚きですね」
どうしよう。話が続かない。そもそも話が通じない。空気が読めないのか。空気を読まないのか。
彼女は察しの悪そうな私に困ったように言葉を並べた。
「叔父が……じゃなくて、あなたのお父様についてちょっとお話が」
目が訴えていた。家に上げろ、と。無表情だったけれど。
そして気付いた。
「……叔父?」
「それがどうしましたか」
そういえば父は言っていたかもしれない。私には従姉妹がいると。
目の前の彼女は首を傾げた。
「ししはゆうい……いや、今はししばありすでしょうか。有料の有に、なんとかの為という字で有為……じゃなくて有為と読ませる奴、ですが、まさか私、家間違えましたか」
「苗字はししば、とやらではありませんが名前はあっています……父が、何か」
父さん、私駄目かも。話をしろと言われたけれどこの子相手じゃちょっと……。
「涙なしには語れない壮大かつハートフルな下らないくそ長いお話があります。聞いてくださいます?」
これ、聞かないっていう選択肢はあるのだろうか。
◇◆◇
とりあえず家に上げた。もし何かあっても元魔王に元勇者、そして一応私もいるしなんとかなるでしょう。
何があるかわからないのでいもうとを義兄に預けていとこらしいその人と対峙する。
なんでこんなに警戒しているのか自分でもわからないけれど、まぁ間違いはないだろう。父と同類ならこれでも足りない。
とりあえず、とその人に目をやると彼女はカップを覗いていた。私が丁寧に淹れた紅茶である。そしてそっと口に運んだ。
「……私は、あなたに謝らなくてはなりません」
何処か満足そうにひとつ、息を吐いてその人は言う。
「私はとりあえず適当なことでも言って仕事を押し付けて帰る予定でした。……けれどそうもいきませんね、全国の紅茶様も満足なさるようなものを出されては」
よくわからない。しかも謝ってないし。けど彼女が紅茶を好きなことはよくわかった。
それがわかれば問題ない。彼女は私の同志に足る。ショートケーキを出した。
何故か彼女は愕然としたようだった。
「……何故ショートケーキ。紅茶はまだわかりますが此処は極東の筈ではありませんか。上生菓子は。おかきは。あられは。……私は謀られているのでしょうか……」
思わず、私は吹き出した。おかきって、あられって。紅茶には合わないだろう。
「……改めて、はじめまして」
じろりと睨まれた。そして不本意そうに彼女は言った。
「ユゥイと申します。従姉妹様ですね?」
「有子です、はじめまして」
「この度はご愁傷様でした」
「えっ」
「冗談です」
冗談ってなんだっけ。
そう思っているとユゥイと名乗るいとこはフォークをケーキに突き立てた。そして崩す。更に崩す。
マナーもくそもあったものじゃない。白い皿の上に歪な模様が描かれる。そして全く原型を留めていないそれをどうでも良さげに食べた。
何処かで見たことのあるような食べ方だった。それでもここまでぐちゃぐちゃにはしていなかったけれど。
「……ああ、すみません。見ていて気分のいいものではありませんね」
そう言ってテンポよくケーキだったものを食べきると手を合わせた。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
口に合わなかったのか少し眉間にしわが寄っている。
「……あの、気にしないでください。私の知り合いにもそういう食べ方する子がいるので」
「叔父ですか」
いや、それは知らない。私が言ったのはいもうとである。
「では、改めまして。本題に入ります。ししばゆうい、もとい有栖川有為、妻である有栖川優子、拘束されました」
「………………は?」
「有栖川有為、妻である有栖川優子、拘束されました」
「……いつ?」
「×ヶ月前の、×月×日×××××時丁度です」
「ごめん、聞き取れない」
「大丈夫です。普通の人間は聞き取れません」
「何処で?」
「×××××……と言ってもわかりませんね、そういう場所があるんだと思っていてください」
何してるんだ父。新婚旅行じゃなかったのか。
「え、……と。誰に?」
「世界軌道修正本部です」
「それ、団体名?」
「ええ。仮名ですけど」
仮名かよ。
「何で?」
「正式名称がないからです。あーだこーだ言って正式名称を考えていたそうですが、決まるまでの仮名だと言われていたこの名前が定着しすぎまして。今更変えても誰も呼んでくれないだろうということで空中分解、です」
「いや、私が聞きたかったのは何で父さんと義母さんが拘束されたのかって話なんだけど」
別に名前の理由なんざ聞いてねぇ。興味ないし。しかも理由も理由だ。
彼女は一口紅茶を飲む。
「……恐らく、ですが」
少し、困ったようだった。
「台本外の人物だったからでしょう。……そして何より……ししばの、血を引いていたので。……ということにしておいてください」
しておいてくださいって。じゃあ、本当のところはなんだっていう。
そもそも、台本。ししば。わからないことだらけだ。父がししばとやらの血を引いていたなら私だってそうだろう。この家に住む人間は皆、そうだ。それに恐らく目の前の彼女も、また。
それは、そんなにいけないことなのか。
「最後に、いい?」
「何なりと」
「父さんは、無事?」
それに彼女は鷹揚に頷いた。
「当然じゃありませんか。本部は仕事が遅いんです」
ごめん、何も信頼できないわ。
◆◇◆
「どう、と言われましても」
彼女は戸惑ったようだった。
いとこ殿の話に一人で対応できる気がしなかったので、私は家に残っていた義兄といもうとを呼んだ。そして彼女に問うた。その話をして、あなたは私たちにどうして欲しいのか、と。
そして、彼女は答えた。
「私は……どうして欲しいとも言えません」
言葉を選ぶように、視線を彷徨わせる。
「最初は、あなた方に彼らを助けて頂こうと思っていました。けれど、それは些か都合の良い話に聞こえます。……荷が重いようにも思えます」
たすける。父を、義母を。
それは、助けなければならない状況に彼らがあるということだろうか。
私たちはじっと黙って話を聞いていた。
「私は、家族のためなんて言葉であなた方が死ぬのを見たいわけではないのですよ」
「けど、何もしなければ父と義母は死ぬんでしょう?」
「死ぬと決まっているわけではありません。第一、叔父さんが何も出来ない場所にあなたが行って何が出来ますか」
その言葉は辛辣で、的を射て、私には何も言えなかった。
いとこは首を傾げていた。
「無謀な正義感ほど迷惑なものはないと思っていましたが、身の程知らず、なんていうのもなかなか厄介なものですね」
失礼しました。彼女は一言そう言った。
◇◆◇
「ねぇ、待って!まだ話は終わってない、もっと詳しい話を」
玄関口で私は言った。靴を履こうとしゃがみ込んでいたいとこ君は目線をちらり、とこちらにやるとすぐに戻す。
「誰の入れ知恵ですか。泥人形の方ですか、取り替え子の方ですか」
「な、にいって」
「何か間違えましたか?あれだけ言えばあなたはあれ以上何か言うことはないと思っていましたが」
私はまた、言葉に詰まった。
まさにその通りで、言葉をなくして、立ち去るいとこを見ているしかなかった私に言葉を与えたのはいもうとだ。「このままで良いの?」と、青い目をひたと、わたしに向けて問うた。圧倒的に情報が少ない、これではどうするか決めることも出来ない、と。
だから私は追いかけた。扉が開く音も、閉じる音もまだ聞こえていなかったから間に合うと思った。
間に合った、は、間に合った。けれど、これ、どうしよう?
「詳しい話って、なんですか。そんな漠然とした質問されても困ります。分かりますよね?流石にそのくらいは。まさか、考えなしにとりあえず引き止めておけば良いや、その間に質問も思いつけば大丈夫。それか知ってること全部話して貰えば……なんて思ってませんよね?」
図星だった。残念なことに図星だ。
「え、いや、その」
「突然お邪魔したのは申し訳ないと思っています。話も要領を得ないものだったのでしょう。是非、忘れてくださって結構。そんなものです」
「……ねぇ、どうしたら良いの?」
私は、とりあえず無視をして問うた。
いとこ君は動きを止めて、私を見た。
「ついには、丸投げですか?」
「いいえ。どうやったら、父と母義母を助けることができますか」
やっと、視線が合った。今にも切れそうな細い糸、それを手繰り寄せるように、丁寧に言葉を紡ぐ。
「あなたでは無理です」
「私には三人の兄弟がいます」
「泥人形に取り替え子、ですか?」
「少なくとも一人は私と父と母を同じくするものです」
父の目は、夜の海に似ていた。底知れず揺れる、黒い色。けれどそれは朝が来れば青く光って、柔らかな色を帯びることを知っている。
けれど、彼女の目は違った。夜空の黒も、海の底も、どれも足りない。そんなもの、並べるのが烏滸がましい程の黒。光すら飲み込んで尚、暗く沈むような恐怖を覚える。それが、私を覗いていた。
「だから、なんだっていうんです?」
一つの慈悲もなかった。
「それでも、あなた方は土塊でしょう?」
彼女はそう言った瞬間顔を上げ、空気の匂いを嗅ぐようにして、眉間にしわを寄せた。酷く、不快そうな顔だった。
そして一言、
「……くさい」
そういった。
突然の暴言に私が驚くと、がしゃん、と何かガラスが割れるような音が聞こえた。私には聞き慣れた音だった。
「ちょっと失礼しますね」
いつの間にか靴を脱いでいたいとこは私を押し退けてさっきまで居た居間を目指す。
何故だか、酷く嫌な予感がした。
急いで追って、居間と廊下を結ぶ扉を開けようとした。
開けられなかった。まるで、何かが邪魔しているような。
「え」
焦燥。酷くもどかしい。鍵なんてついていないのに。何かが私を急かす。
「退いてください。賠償は上司にお願いします」
おい、普通そこは「退いてください、私が開けます」だろう。賠償て。
まさか……。
一応下がって、いとこに場所を譲る。心配だったのでもう一歩離れた。廊下自体広いわけではないからどうしようもないのだが。
いとこは予想通りのことをした。
扉を蹴り開けた。華麗なるヤクザキックだった。それは予想外だった。
結果もそれなりに予想外だった。扉はひしゃげて飛んで行った。そして、誰か立っていた人にぶつかって、その人を倒した。
ゲームかよ、なんて軽く思えたのはそこまでで、急に現実が帰ってくる。嫌な予感と、焦燥。
いつか嗅いだことのあるような、鉄錆の。
いつか目に焼きついた、鮮やかな。
力なく投げ出された綺麗な白い手はまるで作り物のように。
散らばった黒い、長い髪はきっと妹の。
「見ない方が良いです」
いとこの向こうに見えた景色に一歩、足を踏み出しかけて、止められる。
「見て、取り乱さない自信があるならば止めません。無理ならば目を閉じて耳を塞いでいなさい」
一切温度のない、乾いた冷たい言葉だった。けれど、優しい言葉だった。
私は、それに甘えたかった。甘えるべきだった。
一歩踏み出したいとこに、ほんの少し遅れた長い黒髪。その隙間から、見える。
うつ伏せになった、人影。とろりとした赤色が白い服を染めていた。動かない白い手は、肩の部分で外れていて。
息を呑んだ。
それの少し離れたところで小さな影が落ちている。対照的な黒い服。長い髪。
見開かれた、青い目。
「な、んで」
思わず零れた言葉に振り向いたいとこは確かな憐憫と呆れをその目に宿していた。
「だから、見るなって言ったのに」
最後に覚えているのは、全身が軋むほどの衝撃だけ。