繁華街の朝日
繁華街の朝ほど澱んだ世界は無いだろう。散歩したくなるような気持ち良い朝日が映し出すのは、吐き気を催す気持ち悪い空間である。飲み屋の捨てたゴミ袋にカラスが集り、酔い潰れた中年の男がシャッターに寄りかかって眠り、仕事終わりの水商売の女がフラフラしながら不満をぶちまけている。僕は飲み帰りでもなく、シラフでその中を歩いているのだが、お兄さんもう一杯どうですか、なんていうキャッチもいる。耳を傾けることもなく、視線を変えることもなくすっと通り過ぎるのだが。なんでこんな澱んだ世界を歩いているかというと尊大な気分になれるからだ。無表情で歩いているが、心の中では見下しながら、嘲笑している。最低なことかもしれないが、彼らが勝手に自らの品位を下げているのだからと、罪悪感は微塵も無い。人間は澱んでいる生き物である。誰もが汚い部分や他人に見せられない部分を抱えているものだ。繁華街にはそういった人の欲望が集まり、朝になればその残骸が朝日の下に曝される。だからこそ僕は澱んだ世界を歩く。
数十分歩いて、大きな駅に着くと、早くも電車が動き出している。それを追うように、仕事へ向かう人々が行ったり来たりしている。時間が経つごとに人は増え、そこらじゅうが人間だらけになる。というのに、人間というより歯車に見えてくるのが滑稽というか恐ろしい。澱んではいない、清らかで流れもスムーズだ。人間は清らかな生き物である。他者に合わせ、社会的集団のため行動することができる。誰かとぶつかりそうになったら避ける術を知っている。しかしいざその流れを観察していると、何というか人間味に欠けるのだ。ただただ虚しさしか覚えない。なぜか。僕はその歯車には組み込まれていないし、ただ清らかさの前に自らの澱んだ感情と向き合うしかないからだ。目を背けて、逃げるように家へと帰る。追いかけてくるものもないのに。
家に着いたからといってすることなんてない。会う人もいない。でも決して虚しいわけではない。実際一人で生きていけるならこんなに楽なことはない。本来人間は澱みも清らかさも持つ生き物であるし、それらは他者と比較して感じるものであるからだ。家にいるときは一人で生きていけるような世界を考えたりするのだが、結局寂しくなる。そんな自分を客観視しては恥ずかしさと愚かさに涙が出る。結局どっちつかずの中途半端な状態が一番苦しいのかもしれない。
そして翌朝朝日が昇ると、繁華街へと繰り出すのである。こんな日々を繰り返しているというのは、清らかに流れているのだろうか、それとも澱んでしまっているのだろうか。残念なことにその答えを僕は知らない。でもこうやって悩んでいる時に昇る朝日はとても美しい。
純文学というものが分からなくなってきている今日この頃です。
表現を練ることなく勢いで書いてみました。




