悲劇の輸送船 対馬丸
対馬丸撃沈事件についてなるべく公平な視点で書きました。あくまで対馬丸撃沈事件を理解する上での一つの参考にして頂ければ幸いです。
太平洋戦争期に活躍した艦船をモデルに擬人化したゲーム「艦隊これくしょん」が人気を博し、それにあわせて史実に関しても興味を持つ方が増えて、先の大戦についてもう一度深く考える機会が出来た事はとても良い事だと思います。
しかし、戦後70年の時間が経ち、俗説と真実が混同されて正しい真実が、隠れてしまうことを私は深く危惧しています。
そこで私は、特に誤解されている部分の多い「対馬丸撃沈事件」について当時の資料を基に、なるべく真実に沿った解説をしていきたいと思います。
~そもそも対馬丸とは?~
対馬丸とは日本郵船が1912年から整備を始めた貨物船群の一隻で、第一次大戦では欧州航路を、戦後は横浜・ニューヨーク間の第一便の栄誉に輝くなど、貨物船として活躍しました。
太平洋戦争開戦の3ヶ月前に、日本陸軍に徴傭され南方方面における輸送活動に従事しました。
~対馬丸基礎情報(T型輸送船の諸元)~
排水量 6754トン
全長 135.64メートル
型幅※ 17.68メートル
出力 4396馬力
速力 13.9ノット(最大)
乗員 61名(その時々の状況で変化)
~対馬丸撃沈事件とは~
1944年8月22日の夜に、疎開民及び学童を乗せた輸送船対馬丸が悪石島付近で、米海軍潜水艦ボーフィン号の雷撃によって撃沈された事件。
疎開民及び学童1661名のうち1437名が死亡し、全体での生存者(乗員及び船舶砲兵を含めて)は280名だけでした。
~沖縄県民疎開の経緯~
1944年7月、サイパン島守備隊が玉砕し、米軍の動向から政府は、「沖縄に戦火がおよぶ公算大なり」という判断を下しました。そこで子供老人と学童を本土と台湾に合わせて10万人を疎開させることとしました。
しかし、未知の土地へ行くことへの不安や先祖からの土地を離れたくないという反発もあり、政府は半ば強制的に疎開をさせる命令を出しました。
政府が急いだのには理由がありました。当時、米海軍の通商破壊戦の魔の手は沖縄近海に延びつつあり、南西諸島付近の航路では撃沈される船舶量が増えていたのです。まごついていれば、沖縄から疎開が出来なくなり、沖縄が戦場になれば多くの民間人が犠牲になってしまうと考えたからでした。
また、当時の沖縄は島内で消費する米の多くを移入に頼っていました。沖縄防衛の兵力が結集している状態で、民間人が大勢残っていれば食糧事情が逼迫する恐れもありました。
~対馬丸と行動を共にした艦船~
あまり語られないのですが、対馬丸は「ナモ103船団」という船団に組み込まれていました。この船団は那覇を出港し、長崎港を目指していました。船団なので当然他の船もいました。和浦丸と暁空丸です。この二隻もまた沖縄からの一般疎開者を乗せていました。
そしてこの船団の護衛に当たっていたのが、第四海上護衛隊所属の駆逐艦「蓮」と砲艦「宇治」です。蓮は旧式艦ではありましたが、歴戦の古強者で無事に宇治と共に終戦を迎えています。
~対馬丸の護衛は万全だったのか?~
対馬丸が撃沈された時点で万全とは言えません。しかしながら、輸送船三隻に護衛艦二隻というのは当時では良い部類に入るでしょう。疎開児童の保護者を安心させる為に海軍も努力をした証と考えても良いでしょう。また船団は敵の無線を封じる為にジャミングを行っていました。このジャミングがどの程度機能したのかは不明です。また哨戒機が二機、船団の周囲を旋回飛行していたとボーフィン号は報告しています。
~対馬丸は見捨てられたのか?~
対馬丸撃沈事件を語る上で避けては通れない、一番の争点と言っても過言ではない問題です。私自身多くの対馬丸撃沈事件の生存者のエッセイを読みましたが、多くの方々が護衛艦は救助活動をせずに逃げてしまった、という趣旨の文章を書かれていました。
では、実際には軍はどのような対応をしたのか?海上護衛隊の記録には以下の様に書かれています。
「八月二十二日 二二一五(中略)ナモ一○三船団中對馬丸敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没 護衛艦蓮直チニ爆雷攻撃ヲ加エタルモ効果不明 第一拓南丸及飛行機ヲ派遣掃討セルモ敵状ヲ得ズ」
これを読む限り、海軍が必ずしも対馬丸を見捨てていた訳ではないことがわかります。駆逐艦蓮は対馬丸が魚雷攻撃を受けた後、グルッと旋回し、敵潜水艦の魚雷発射推測位置に搭載していた爆雷を全て投射したそうです。その効果であるかは不明ですが、米潜水艦ボーフィン号は生き残った船舶を追撃せずに現場海域を離脱しています。
~船団はなぜ漂流者を救助しなかったのか?~
対馬丸は雷撃を受けた後、十数分後に沈んでしまいます。そして海面には疎開児童、一般疎開者、乗員、船舶砲兵が対馬丸から投下された筏津や木材に捕まり漂流していたそうです。ではなぜ、護衛艦や和浦丸、暁空丸は救助活動をしなかったのでしょうか?
それは対馬丸撃沈事件の少し前に起こった、湖南丸撃沈事件に原因があります。この事件で撃沈された湖南丸の漂流者を救助していた特設捕獲網艇柏丸が漂流者を救助し終わった瞬間に、雷撃を受け沈没。湖南丸、柏丸共に多くの犠牲者を出した事件です。その為海軍は船団に雷撃を受けた艦船がいたとしても、救助活動は行わず残った船舶を守る事を優先するようになりました。
救助活動を行い、救助をしている艦船や生き残った船にも被害が出ることを警戒したのです。対馬丸撃沈事件では、米潜水艦は現場海域を離脱しましたが、もし離脱せずに残った艦船に狙いを定めていたら、護衛艦が救助活動をするため艦を停止させ、その他の疎開船の守りが手薄になっていたら、対馬丸撃沈事件はナモ103船団全滅事件という名前に変わっていたかもしれません。
~対馬丸撃沈後の救助活動~
漂流者達は暴風雨、サメ、三角波、空腹、渇水に怯えながら漂流していました。
船団が避難した後、軍は救助活動を開始します。まず偵察機を飛ばし、現場海域を捜索すると、奄美の漁師や現場を航行する艦船に派遣命令を出しました。その結果奄美大島に漂着した人を含めて280人を救助しました。
また飛行機からご飯を詰めた竹筒を投下したという証言もあります。この竹筒は広い海に漂流している人達の為に投下されたようです。この竹筒を実際に拾い上げた漂流者がいるという証言もあるようです。
~米潜水艦ボーフィン号について~
ボーフィン号は米海軍のバラオ級潜水艦の一艦で、米海軍でガトー級にならぶ高性能潜水艦です。ボーフィン号は太平洋戦争中に、15隻の商船と海防艦1隻を撃沈し、戦後はその勲功からハワイ真珠湾で記念艦として保存されています。
~疎開計画のその後~
1944年7月21日から始まった疎開は、翌年3月までに8万人を日本本土と台湾に脱出させることに成功しました。この疎開計画の為にのべ約180隻もの輸送船が駆り出されました。
また45年1月から沖縄県知事に就任した島田叡知事の尽力により、沖縄本島北部に疎開施設を設置し9万人が疎開しました。これにより当時沖縄県の人口の約49万人のうち約17万人の人々が何らかの形で疎開することになりました。
沖縄からの疎開船による8万人の輸送で、犠牲になったのは対馬丸の1437人のみでした。制海権、制空権を失った状態で、後にも先にも撃沈させられたのは対馬丸だけです。
~最後に~
対馬丸撃沈事件は戦後多くの人々に知られてきました。生存者が比較的多いことと亡くなった人の大半が児童であったことが要因とされています。しかし実際の事実とは間違った事が多く流布していきました。そしてその多くは戦後世代に誤解を与え、誤解そのものが常識として定着してしまいました。
また遺族達の怒りの矛先は、当時護衛についていた駆逐艦蓮と砲艦宇治の将兵達に向けられました。彼らは不当な誹謗中傷を受け、社会的に貶められました。しかし将兵達は当時、対馬丸が疎開船であることを知らされていなかったのです。
今回は、対馬丸撃沈事件をなるべく当時の資料を基に、公平な視点から事実のみを淡々と書かせていただきました。犠牲者を軽視することも、護衛艦の将兵達を侮蔑することも良しとはしません。
米軍の責任問題など、この事件に関する議論は尽きませんが多くの人々がまず、事実を知ることこそが正しい歴史認識を形成する助けになると、私個人は考えています。
最後に、改めて対馬丸撃沈事件で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
※型幅:船の内側の最大幅のこと
お読みいただきありがとうございました。
過激なコメントや議論はなるべく遠慮していただきますようにお願い致します。
世の中には様々な主義主張を持った人が居ることをご理解ください。