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焦がれた空は、

作者: さいふぁ

 突き抜けるような青空だというのに、黄昏に染まる世界が愛しくてどうしようもなく焦がれるのだ。


 揺り椅子に揺られながら、かの人はそう呟いた。

 窓の外はどこまでも澄みきった、やわらかな青い空だ。春のぬくもりを宿した風がときおりカーテンを揺らし、つつましやかな香りとあわい色合いの花片(はなびら)を運んでくる。この花の名前は、なんだったろう。

「黄昏に染まる世界が愛しくて、」

 窓辺に舞い降りたそれを摘み上げたわたしに、かの人はもう一度呟いた。そっと目を細め、切ないほどやさしい眼差しを空に向けて。

 それはわたしが知らない、かの人の表情だった。

「そう」

 わたしは適当に頷いて、拾い上げた花片をごみ箱へと捨てた。服の中にしまっていたペンダントがするりと抜け出して、眼下でたよりなく揺れる。わたしは慌ててペンダントを掌におさめ、服の中にしまった。かの人がわたしをじっと見つめているから、どうにもおちつかない。

「きみはどんな空が好き?」

 とうとつな問いに、わたしはかの人を見つめた。かの人は青空のような眼差しをわたしに向け、答えを待っている。

「空は空」

 唇からこぼれ出た答えは、乾燥したパンのように味気ないものだった。けれどかの人があまりにも悲しそうな顔をするものだから、わたしはしばしためらった末に、でも、と続ける。

「……青い空が好き」

 黄昏の空は血のように赤々と見えて、わたしはどうも好きになれなかった。恐れていたという方が正しいかもしれない。わたしにとって、黄昏の赤はいやなものだった。

「青い空はきれいだからね」

 口をつぐんだわたしへ、かの人は微笑みかける。

「きれいで、きれいだからこそ――」

 冷たいよ。

 かの人の言葉は、どこか残酷な色を伴っていた。

 わたしがじっと見つめるさきで、淡雪のような表情で、かの人はそっと言葉を転がす。

「きれいすぎて」

 責められている気がする。

 わたしはその意味が理解できず、かの人に困惑の眼差しを向けた。

 目の前にいるかの人は、かつてこの国のために戦い、英雄とよばれた人だった。さきの戦いで両足を失ったかの人は、戦火や王都からはほど遠い田舎のこの地に身を寄せた。とおいとおい親戚である養父がいたからだ。かの人にとって、養父は唯一の血縁者だった。

 わたしは空と同じ色の瞳をまたたかせ、かの人を眺めやる。かの人は視線に気づくと、ふっと目を細めた。ほろりと苦い笑み。それから揺り椅子の上でみじろぎ、わたしへと手を差し伸べる。

 動けないかの人のために歩み寄り、わたしはその手を取った。かの人の手は小さな傷跡がたくさん残る、大きなかさついた手だ。骨張って、節くれ立って、皮が厚い手。

「きみの瞳は青い空だけれど」

 わたしと全く同じ色合いの瞳が、じっと見つめてくる。

「その眼差しは、黄昏だから」

 わたしは眉をひそめた。うかがうようにかの人を見やると、かの人はどこかなつかしそうにわたしを眺めている。

 まるでわたしの中の、誰かをさがすように。

「だから青空はきれいだけれど、辛い」

 わたしの視線からのがれるように、かの人は手を放した。どこかおちつかない様子でみじろぎ、唇を噛む。

 いつの間にか日は傾き、黄昏の光が部屋に差し込んでいた。空は血のように赤々としていたけれど、部屋の中はぬくみのある橙色に染まっている。

「この色が」

 黄昏に浸かりながら、かの人はひっそりとささめいた。

「誰よりも、何よりも、愛しくて」

 どうしようもなく、焦がれて。

 もう一度、見たくて。

 かの人の言葉は、せつせつとした響きを持っている。

 その声音は痛いほどに切なくて、戦い続けた人とは思えぬほどやさしくて。

 ああ、だから、わたしは。

「……そう」

 かすれた声でささめいて、わたしは身をひるがえした。唇を噛み、かの人の言葉に震える、心のやわい部分から目をそらす。

 けれどもかの人にとって、それは抵抗にすらならないらしい。

「愛しくて。愛しくて」

 ぽとり、ぽとりと、彼はわたしの背に言葉を投げかけた。

 愛しくて、そうささめくかの人の声音は自分勝手であって、だからこそ。

「……わたしの母」

 わたしはかの人を振り返り、口を開いた。

「殺された」

 のどを震わせた音は存外にしっかりと響き、つかの間の静寂(しじま)と、たとえようのないむなしさを運んでくる。

 かの人がぴたりと口を閉ざし、わたしを眺めた。掌があせばむのを感じながら、晴れ渡る空のような眼差しを受け止める。

「異国人だったから」

 かの人は英雄であった。この国のために他の国の人々と戦い、多くの血にまみれ、数えきれぬ恨みを負った人でもあった。

 そして誰よりも人々を救い、誰よりも人々を手にかけた人殺しだった。

「……そう」

 ながいながい沈黙の末に、かの人はかすれた声で呟く。

「そう」

 わたしは頷いて、部屋を飛び出した。かの人の視線が届かないところまで逃げたくて、むちゃくちゃに走った。


 わたしとかの人が言葉を交わしたのは、それが最後だった。


 度重なる戦いで身体を酷使し、どこもかしこもぼろぼろだったかの人は、それからほどなくして息を引き取った。村中がかの人のために涙を流し、とおくの街や王都からはかつての上司や部下だと名乗る人々が押しかけ、かの人の墓には色とりどりの花が添えられた。

 嵐のように押しかけた人々はやがてその数を減らし、墓の前には朽ちた花が散乱するようになった。わたしはそれらを拾い集めて捨て、道すがら摘んできた花を手向ける。誰も彼もが忘れ去ってしまった英雄へと、わたしは話しかけた。今日の空は、いつかのような、やわらかく澄みきった青い空だ。

「いっていない、ことがあるの」

 わたしはもの言わぬ墓石にささめいて、服の中に手を突っ込んだ。肌身離さずつけていたペンダントを取り出し、繊細な金具を指先でいじくる。

「……母は、父のことを、教えてくれなかったけれど」

 ぱちり。ロケットが開いた。

「愛していたって」

 そこにいるのは、若かりし頃の英雄だった。わたしにこの空色の瞳を与えた、父親(かのひと)の姿。

 母は父を、突き抜けた青空のようだといった。わたしと同じ橙がかった金髪を指先にからめながら、光が差し込むと赤く見える瞳を細めて、父をなつかしむことがあった。

 辺境の村に住まう異国人であったわたしたちは、祖国との戦争が始まると同時に疎まれ、やがて敵視されるようになった。村を追い出されたわたしたちは祖国へ戻ることもできず、養父の元へ身を寄せることとなった。その頃のわたしはもの知らぬ子どもであったから、養父がかの人の唯一の血縁者であり、わたしたちを守る、数少ない味方でもあることを知らなかった。

 養父の元へ向かう途中、道すがら立ち寄った街で、わたしたちは住人に襲われた。イコクジン。その意味を理解したのは、養父に保護された後のことである。母とはぐれ、たった一人で逃げ延びたわたしを迎え入れた養父は、なにもいわずに抱きしめてくれた。

 わたしから話を聞いた養父は険しい顔で街へと出掛け、後日、母の遺体を引き取って帰ってきた。暑い夏のころだったから、遺体がずいぶんと傷んでいたことを覚えている。そのせいで、わたしは母に縋って泣くことすら許されなかった。

 そうしてわたしの手元には、ペンダントだけが残された。

 そこにいる父の正体を、わたしは長らく知らなかった。戦争が激化し、終焉を迎え、そして英雄とよばれたかの人がこの村にやってくる、その時まで。


 かの人の気配だけがぽっかりと消えた部屋に、わたしは佇んでいた。黄昏に浸かった世界は、なるほど、たしかに母を彷彿とさせる。突き抜けた青空のような瞳を持つ人は数多の血に濡れたはずなのに、黄昏に血の赤ではなく母の眼差しを見ていたのだと思うと不思議な気がした。

 ふと浮かび上がった思いが掴む間もなく沈み、心の底にわだかまる。

 ひとりでに揺れる揺り椅子へと腰を下ろし、わたしは瞳を伏せた。

 かの人は気づいていたのだろうか、いなかったのだろうか。今となっては、それを知る(すべ)はない。


 けれどもわたしの瞳は突き抜けるような青空だというのに、かの人はそこに黄昏に染まる世界を見て、ひどくやさしい眼差しをしていたのである。


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