魔女ロザリア
ロザリアはリンツァーバルトの森には戻らず、そのまま灯り屋にリサエラとして留まることにした。幸い森の魔女はその血の濃さ故、皆似たような顔立ちをしている。すっぽりとカーチフで頭を覆ってしまえば、さほど違いは分からない。
人目につきにくい場所に店を構えてさほど間もなかったことも手伝い、訪れる客の誰一人として彼女のなり代わりを疑うことはなかった。
「ようリサさん、この間勧めてもらった商品、良かったよ!」
「あらリサさん、体調でも悪いのかい? なんだかいつもより元気がないみたいだけど」
「ほいリサさん、欲しいって言ってたべィリー茶だ。ちょいと酸味があるから砂糖か蜂蜜を混ぜるといい」
「……リサエラは図らずも私の真名を名乗っていたか」
ベッドに横たわり、明かりに揺れる天井を眺めながらロザリアは呟いた。
真名を逆さに隠した『ロザリア』という名を捨てた彼女には好都合な下地だった。だが、客にリサと呼ばれて話しかけられる度、彼らの言葉の向こうに笑顔で接客をしていたであろうリサエラの姿が透け、じっとりと苦く重いものが胸に滲んで広がっていく。
『罪人の子に情けをかけるのは、さぞや気持ち良かったでしょうね』
『後はあなたさえ死んでくれれば完璧なの』
ロザリアは目を閉じ、叫びたくなる衝動に耐えた。
背中に温もりが被さる。腕が伸び、長い指が包み込むようにして自分の爪先をなぞって握った。
昼に降り始めた初雪は、そのまま積り音を埋めた。辺りを白く染めた。静かな冬の夜は、時折暖炉から小さく爆ぜる薪の音程度しか届かない。
「……そういえばお前と会った日も、雪が降っていたな」
呟くと、「覚えていらっしゃったのですか」と僅かに驚いた声で聞き返された。
「当たり前だ。お前はあの頃からやたらと背が高かった」
「貴女もお変わりない。美しく、気高いままだ」
「――皮肉か」
ロザリアは自身の髪に触れ、ため息をついた。鋏を入れたことのなかった美しい黒髪は、魔力を削るためそのほとんどを切り落としてしまった。普段はカーチフで覆っているため気にはならないが、隠すものの無い寝屋ではどうしても心許ない気分になる。
きっと今の自分は猿のように見えている。だから暗闇にしてほしいと願ったのに、『こうするのがしきたりですから』と明かりは僅かに灯ったままだ。
背後からそっと抱え込まれると、返すようにして向き合わされた。
「お綺麗です」
言葉数は多くないくせに、そうやって念を押してくる。間近で見つめ合ううちに空色の瞳に映る自分の顔に気づき、ロザリアは慌てて目を逸らした。
ロザリア――いいや、彼女はもう『リサ』だ――は、冬の間、細々と慣れない灯り屋で商売をし、ランバルトは行方不明になった夜警の後任に就いた。
(彼は雇用者をはじめとする複数人の記憶を操作した。自身は魔力を持たずとも、吸い取った持ち主の魔力を使い、似たような魔法を扱える)
二人は目立つ行動を取らぬよう、できるだけひっそりと暮らしていた。幸い、リサもランバルトも人目を忍ぶことには慣れていたし、彼らの主な仕事時間は夕刻前から夜半にかけて。おまけに雪の降る季節だ。おそらく町の人々の大半は、二人の顔すら見たことがなかっただろう。
リサは暇な時間に家事の練習をするようになった。集落にいた頃は身の回りの世話の多くをランバルトや他の娘がやってくれていた。だが、これからただの娘として生きていくからには、一人で全てをこなす必要がある。
いずれ魔力が落ち着き、自分で魔法の鍵を管理できるようになれば、ランバルトはここから去っていく。
『好いた相手はいるか』と尋ねた時、彼はいかにも相手がいるのを隠そうとしていた。
ランバルトが自分の夫を演じているのは、過剰な魔力を吸い取るため。つまりは命の鍵のためだ。
放っていれば、自分はいずれ自我を保てなくなり無作為に鍵を使いだす。そうすれば、これまで吸い込んだ数え切れないほどの命を潰すことになる。そして、鍵の中にはランバルトの命も混じっている。
彼は自身の身を守るためにも、私から力を抜いている。
我々は偽りの夫婦だ。
薄暗いランプの灯りの下で、毎夜ランバルトはリサの過剰な魔力を吸い取ってくれた。
最初の頃はその恥ずかしさに固く目を閉じていたリサだったが、夜を重ねていくうちに少しずつその反応は変わっていった。やがて10日を過ぎる頃には、自ら夫の首に腕を巻きつけ、柔らかな栗色の髪を探りながら口づけを求めるまでになっていた。
「……リサ」
呼ばれる度、とくとくと胸が高鳴る。こんなにも甘く響く真名を持っていたなんて、知らなかった。
夫婦ならやらなければいけないことだから。しきたりだから。
そう懸命に言い訳をしていないと、見つめられる瞳が、触れられる全てが、あまりに優しくて切なくなる。溢れてしまう声に本音が混じりかける度、リサは必死で口元を押さえ、衝動に耐えた。
止められない想いは秘めようとするほどに強さを増して膨らんでいく。
幼い頃に出会って以来、ずっと後ろで見守ってくれていた部下。
そんな相手に狂いそうなほど焦がれる日がくるなんて、思わなかった。
雪解けが始まる頃、リサは二度、狂気の魔女と化した。
どちらも危うい淵で引き戻ることができたものの、どれだけ吸っても暴発を続ける魔力にランバルトは憔悴し、その瞳もリサと同様に少しずつ茜色に染まりだしていた。
「……殺してくれ」
二度目に正気を取り戻した時、リサはランバルトの瞳を見上げて呟いた。
「その剣で私の喉を突き、どこへでも行け。このままではお前までもが狂いだす」
「それで貴女を助けることができるなら本望です」
「駄目だ……!」
リサは瞳を潤ませながら手を伸ばし、ランバルトの頬をいとおしげに撫でた。
「嫌……私はお前が苦しむのを、もう、見たくない……」
「――リサ。もしかして私に恋をしましたか?」
暗い声で尋ねられ、リサの心がピシリと凍る。
「恋に身を焦がすのは、最も理性を狂わせ魔力を暴走させてしまう行為です。私のせいでそういった誤解を招いてしまったのなら申し訳ありません。ですが、房中術の目的はあなたの魔力を削るため。そこを履き違えてはなりません」
「……分かって、いる」
弱々しい声でリサは呟いた。
「だが、自分でも抑え方が分からないんだ……いつもお前のことばかり考えてしまう……。
どうすれば、この感情を消せる……?」
ランバルトはゆっくりと目を閉じた。
「――記憶を消すことです」
「自分に大魔法をかけるのは初めてだ」
店の周りに結界を張り、一階に中年女性を模した人形を置き幻影術を施してから、リサとランバルトは二階の寝室に立った。
「どのみち力を削ったところで、いつかは魔法の鍵を使っていたかもしれないからな。そう考えれば、これが一番いい方法なのだろう。今のお前の魔力も合わせればかなりの効果も期待できる。
ランバルト、随分と長い間迷惑をかけた。いや、これから、さらにかけさせることになるが。
『記憶を書き換えた私を見張り、力が戻れば殺せ』などと、面倒な役目を言いつけてすまない」
「いいえ。この姿でいつもあなたを見守っています」
赤い警帽と制服姿で立つ男に、リサは頷いた。
「私の身体にある魔力をできるだけ引き出しながら術をかけるが、いつまで保つかは分からない。死ぬまでそのままかもしれないし、明日には解けているかもしれない。
それまで一人見張っていろというのは酷な話だと分かっている。
だからな、ランバルト。お前、好いた女と本物の夫婦になれ。どのみち記憶を失えば、私はお前に何もしてやれない」
「私の妻は、リサ、あなただけです」
揺るぎない口調にリサの口元が震え、俯いた。
やがて一息つくと、リサは顔を上げた。
「――今度こそ、普通の娘として生きていけるんだ!」
わざとらしいほど明るい声をだし、リサは笑顔になった。
「そうだなあ、今度は暖かくも普通の家庭に生まれたことにしよう。お前みたいな兄がいて、いつも遊んでついて回って。
料理もたくさん練習しないとな。巡回に来たら菓子を振舞おう。まあ、しばらくは消し炭が出てくるだろうが」
「あなたの手料理なら、なんだって美味い」
「無理はするな。まずいなら吐き出せ」
リサは笑った。
「ああ……生まれ変わった私が、それなりに幸せになれたらいいなあ。
今生は――、お前に出会えたことだけが幸いだった。ありがとう」
リサとランバルトは抱き合うと、術を完遂すべく最後の口づけを交わした。
こんな時だというのに、まるで愛されているのではと錯覚されるような仕草と長さに、リサの唇から伝えたかった短い言葉が漏れる。抱きしめられる腕にますます力が篭もり、息が止まりそうな幸福を味わいながらリサは涙を流した。
二人の体から金色の光が溢れ出し、リサを、部屋を、灯り屋の全てを眩く包み込んでいく。キィィ――!! 耳が砕けそうなほどの高音は、瞼を閉じていても眩しい魔法の光が放つ音。
忘却魔法の中でも最も強力な書き換え術を、二人がかりでかけていく。
(これで……次に目覚めた時には、もう……)
薄れていく意識の中、リサは愛する人の温もりをゆっくりと記憶から消していった。
こうしてリンツァーバルトの森の魔女は、自身に関わる全ての記憶を書き換えた。
その術にかけた力は、彼女の髪から魔の色がほとんど抜け落ちてしまったほどだった。
――そして、【灯り屋のリサの春】が始まる。