灯り屋のリサ
視界が、回る。
亀裂が入り、ぼろぼろと世界が剥がれ落ちていく。
痛い……。
……頭が、割れそうだ。
リサはよろめき、額を押さえながら作業台の引き出しを開けた。頭痛用に処方された粉薬を取り出し、中身をそのまま口に入れようとして激しくむせる。ぶるぶると震える手で水差しを傾けカップに注ぎ(そのほとんどが零れてしまった)、一息に流し込んでから深呼吸をした。
ここ最近、薬に頼る日が続いている。飲んだところでいっこうに痛みは治まらず、最早ただの気休めであった。だが、それでも何かに頼らずにはいられないほどにリサは参ってしまっていた。
おかしな頭痛は冬に入ってから日増しに強くなっている。接客中はできるだけ普段通りを心がけようとしているものの、「どうかしたのかい?」と心配されてしまうほど顔色が悪いらしい。今では誰もいない時は、ずっと作業台に伏している。
それにしても今夜は静かな夜だ。あの夜警さんでさえいつもの時間に来ないではないか。
……ああ、またあの女だ。
漆黒の波が宙に広がり、ゆっくりと背を見せたまま歩いている……。
ふいに、彼女が振り向いた。
ぐつぐつと燃える瞳がリサを見てにぃ、と笑った。
『ミィツケタァ――リィサァダア――ァ――』
全身が総毛立つ。
リサは震える足で踵を返すと、駆けだした。
『オーワーリィーオワリオワリオーワ――リィ―――』
背を向けて走っている筈なのに、手を広げ、指をこちらに向けている女の一挙手一投足が頭に浮かんでくる。
ニタリと持ち上がる唇が不明瞭な歌を紡ぎだすのと同時に、リサの体から光が滲み、足取りが一気に重くなる。喉が潰れる。胸が異常な速さで鼓動を打つ。
光る胞子が帯状に女の元へと流れていく。
「嫌……」
わたしは、この生活を。
平凡な、日々を。
『タ―――ノシカッタ? リサ』
リサは飛び起きた。
締め切った冷たい部屋の中、ハアッ、ハアッ、と息を切らしながら彼女は辺りを見渡した。ここまで生々しい夢を見たのは初めてだった。最早どこまでが現実でどこからが夢だったのかすら分からない。
ばくばくと早まる鼓動をなだめようと、ガウンを羽織りベッドを下りる。べったりと張り付く汗が気持ち悪いが、今は先に水を飲みたかった。
一階に降ると、今日もおかみさんの姿はなかった。
扉には鍵がかかり、店内は白く吐く息がくっきりと浮かぶほどに冷たいままだ。暖炉に近付き触れてみても、温もりひとつ残っていない。
リサは台所に行くと氷が張りかけた瓶から水をすくって飲んだ。
二階に戻り、おかみさんの寝室をノックする。だが扉の向こうからは物音ひとつしなかった。
こんな寒い中、おかみさんは一体どこに出ているのだろう?
外套を着込んで扉を開けると、眼下に一面白銀の世界が広がっていた。入口周りにもしっかり雪が積もっているため、リサは貯蔵機にある雪かきを掴んできた。鉄製の大きなシャベルは高いため、丈夫な木板と棒を組み合わせたものを使っている。
せっせと雪をかいていると、じわりと汗がにじんできた。無心の作業は余計なことを考えずに済むのがいい。リサは懸命に店先の除雪作業に集中した。
一通り除雪を終え、腰を叩いて背を伸ばす。ミトンを外しながら辺りに目を向けると、しみ一つない雪上を狐の親子が跳ねて遊んでいるのが見えた。
ぽーん、ぽーん。ゆっくりと弧をかくその愛らしさに見とれるうちに、湧水のように旋律が出てきた。
唇が、開く。
自然と歌を紡ぎだしていた。
親狐の背中から、ふわりと胞子のようなものが浮きあがる。帯となって流れだしたそれは、リサの元へとやってきて掌に吸い込まれた。
手の中でぐにゃぐにゃと生き物のようにうごめきながら胞子は形を変えていく。
――気付けば鍵を握りしめていた。
驚きのあまり、リサは手を離した。落ちた鍵はシャベルにぶつかり、コトリと硬い音を立てたため、幻ではなく本物だと理解する。
おそるおそる摘まみあげる。白い蝋燭のような色味でつるりとしている。
一体何故、鍵が生まれたのだろう。
このうっすらと光る鍵はあの狐から出ていた胞子なのだろうか。
リサは掌の上で何気なく鍵をもてあそびながら、狐を見た。
ギャッ!
突如短い悲鳴を上げ、親狐がひっくり返って痙攣しだした。
慌ててリサは狐の元へ駆け寄った。親に顔を寄せていた子狐がリサに気付いて逃げていく。おそるおそる寄ってみると狐は濁った眼で死んでいた。うっすらと開く口から赤い染みが広がりだし、白い雪上を血で染めていく。
リサは真っ青になりながら、よろよろと後ずさりだした。
何が起こったのかは分からない。
けれど狐が死んでしまったのは自分のせいだと解った。
怖い。怖い。怖い……!
おかみさんは一体どこに出かけているのだろう。早くあの広い胸にしがみついて相談したい。いつものように笑い飛ばして背を叩かれ「大丈夫だ!」と片目を瞑り、あの声で――。
そこまで思い描きかけて、リサは気づいた。
おかみさんの声を知らない。
呼吸が乱れ出す。引きつったように息を吸い続けることしかできなくなり、苦しさに胸を抑える。
……違う。そんなことはない。今はただ頭が混乱しているだけ。だから、
「兄さんっ」
最もよく知る家族なら。そう思い、浮かんだ兄の声と確かな温もりに安堵してから、また気づく。
名が浮かばない。
リサはやみくもに駆けだした。ひゅうひゅうとうまく息ができぬまま、あてもなく森に向かって足を動かし、逃げだそうともがく。何に? 分からない――!
「きゃあぁっ!」
ふっかりと積もった雪は危うい足場も隠していた。
高台より崩れた雪土と共にリサは滑落した。
雪の冷たさで痛みは感じないものの、何度立とうとしても手足に力が入らない。上半身を引きずりながら起き上がろうとして、リサは再び転倒した。
「助けて……」
嗚咽混じりの呟きは、積もった雪に吸い込まれた。
枯れ枝を踏む音が近づき、リサはびくり、とそちらに顔を向けた。
いつもと同じ、赤い警帽に風になびく幅広の外套。
「……夜警さんっ!」
愛しい人の姿に、リサは泣きながら両手を伸ばした。
夜警はリサに近づきながら、ゆっくりと警帽を取った。
冬の空にも似た瞳が哀しげにリサを見つめている。
ど く ん。
瞬間、一際大きな鼓動がリサの胸を貫いた。
「あ……」
――【わたし】は。
壊れそうに痛み出した頭を両手で抱え、リサは大きく喘いだ。
指の隙間からしゅるしゅると毛髪が蔦のように伸びていく。蛇が這いずるような動きは足元を過ぎても尚止まらずに宙に広がる。
白かったはずの髪色は、全てぬばたまの闇となった。
――【私】、だ。
夜警だった男がすらりと腰より長剣を抜く。
その仕草を、彼女は誰よりもよく知っていた。
「……ああ。そうだったのか」
私が、彼にそう頼んだのだ。
『力が戻れば、殺してくれ』と。
男はリサの前で立ち止まると、剣を掲げた。
「ランバルト……」
呟きに風音が重なった。