魔女ロザリア 2
無人となった灯り屋に忘却の魔法をかけ終えると、ロザリアは扉に鍵をかけた。長が殺された直後にロザリアが旅立つまでの間リンツァーバルトの集落にかけていたのと同じ、一時的に周囲からその存在を忘れられてしまう魔法だ。
二人共、吐瀉物や血といった汚物にまみれていたため、ランバルトが浴用の大だらいに湯を沸かし入れ、ロザリアが先に湯浴みをした。洗浄粉を入れてある容器には花の好きなリサエラらしく、甘い香りの橙色の乾燥花が混じっていた。
着替えも終えてさっぱりとした後、ランバルトが台所で調理した温かな食事をテーブルでとる。
干し肉と根菜のスープに炙ったチーズを乗せたパン。
テーブルに冷ましてあったという手作りらしき小さなケーキも「どうしますか?」と持ってこられた。
「……いただこう。捨てるにはしのびない」
久しぶりの食卓でのひとときだった。空腹だった胃に干し肉の旨みと塩けを運び、酸味のある黒パンを頬張る。食後に食べたケーキまでもが、しみじみと美味い。
「リサエラは……幸福だったんだな……」
食事を終え、お代わりの茶を注いでもらいながら、ぽつりとロザリアは呟いた。
「地盤の整った古く温かな家。花入りの洗浄粉に手作りの甘味。チェストには地味ながら女性らしい服が詰まっていた。
……皆、私も密かに憧れていたようなものばかりだ。
本当に、このような生活を送れることができるのだろうか。この私にも」
大きな不安と僅かな期待を込めた目で、ロザリアは向かいに座るランバルトを見た。温かな茶のカップをソーサーに戻すと、ランバルトは静かに告げた。
「これから私がお教えする方法は、ロザリア様にとって受け入れ難いことかと思われます。ですから決して無理強いはしませんし、断っていただいても結構です」
「そう勿体ぶらずに、早く教えてくれ」
「は。私はロザリア様の魔力を自身の魔法として扱う術を持っています。その受け皿をより一層強固にしながら広げていき、ロザリア様の余剰な力を吸収すべく、前々より訓練を受けておりました。
『人にあらざる者と化す前に試みよ』 長はそう仰ってありました」
「そのようなことをしていたとは知らなかった」
ロザリアの口調に僅かに拗ねたものが混じる。
この男を見つけたのが自分なら、部下にしたのも自分だ。なのに、自分の知らぬ間にそのようなやり取りが行われていたとは。
「――で、その訓練とやらはどういった類のものだ?」
「房中術です」
まっすぐにロザリアの瞳を見て、ランバルトは告げた。
「最も高い魔力が宿るは純潔の乙女の肉体です。ですからロザリア様が婚姻関係を結べば、それだけで魔力は随分落ちるでしょう。そのうえ受け皿を拡張し、房中術の訓練を受けた私が夫となるなら、少なくともそう簡単には先程のような変化は起こらなくなるはずです」
「そうか。よし、ではランバルト。私の夫になれ」
「は。……はっ?」
ランバルトは驚いた顔でロザリアを見た。
「何故そんな顔をする。お前が言い出したことだろう?」
「い、いえ、あまりにも早いご決断でしたので驚いてしまい……」
「寝床を共にすれば夫婦とみなされるのだろう、私が相手では不満か」
「いえ、滅相もありません!」
慌てて頭を横に振った部下に、ロザリアは寂しげな笑みを浮かべた。
「……外界での婚姻がそう軽々しく結ぶものではないことくらい私も知っている。だが、それが最良の策であるのなら仕方あるまい。
お前、好いた相手はいるか」
「……いいえ」
ややあって、ランバルトはぎこちない返事をした。
「――そうか。では、悪いがお前には夫となってもらう。さっさと力を抑えなければ、またいつ『アレ』がやってくるか分からない。
なに、夫婦になるといっても形だけのことだ。目的を果たした後は、お前が心に決めているその女のもとへ行くがいい。
寝所へ行こう」
ロザリアは立ち上がると、口内を清潔にするために水場へと向かった。
ロザリアはベッドによじ登ると、枕元に置いてあるランプを付けた。ほっそりとした身体の線が明かりに照らされ夜着越しに透ける。
「おい、何をぼさっと突っ立っているんだ。お前も来い」
「は」
入口脇に立っていたランバルトは固い面持ちのまま近づくとベッドに膝を乗せた。ぎしりと木枠が音を立て、重みが加わる。
二人はベッドに横たわると掛布を引っぱるようにして潜り込んだ。
「そういえば、こうして寝床を共にするのは初めてだな」
「はい」
「しかし、流石に狭いな……。ん? ランバルト、お前身体の半分以上が外に出ているじゃないか。ほら、もっとこっちに来い」
ロザリアは部下の腕を引くと自分の元へとたぐり寄せた。
長年共にいた相手だというのに、こうして目の前で顔を合わせて眠るのはやはり少々照れ臭い。
「そういえば、明るいままだな」
ロザリアは手を伸ばして明かりを消した。
もとよりほの暗かった室内に、しっとりと闇の帳が降りる。
「おやすみ」
掛布を手繰り寄せながらロザリアは目を閉じた。ぴったりとくっつきあった肌と肌の温もりが、冷える秋の夜に心地いい。
(明日には成果が現れているといいが……)
とにかく一度眠ってしまえば晴れて婚姻成立となる。となれば、さっさと休んでしまうに限る。
もともとロザリアは寝付きがいい方だったため、すぐに眠気が襲ってきた。うとうととまどろみかけていると、頬にランバルトの指が触れた。しん、とした室内に喉が鳴る音がかすかに響く。
「そ、そそそれでは、失礼します……」
何をだ? と尋ねる前に、口を塞がれていた。
(別段、今は力は暴走していないんだが……)
少々驚いたものの、先程もこうして力を吸ってもらったばかりなため、ロザリアは特に抵抗しなかった。
だが、やがてロザリアは不可解なことに気付く。ランバルトの動きが、これまで数度口を合わせた時とは全く違っていることに。
ふわりと降りた大きな唇がゆっくりとロザリアの唇を食んでいく。柔らかい、そう思ったのは初めてのことだった。ふわふわした優しい動きに唇をなぞられていくうちに、くすぐったいような妙な感覚がロザリアの胸にじわりと沸く。息苦しくなり口を開くと、舌が中まで押し入ってきた。味などしないはずなのに、飴でもしゃぶっているかのように愛しげに吸い、味わわれる。 ん、と声をあげると、回された腕に力が篭った。
どのくらいそうされていただろうか。名残惜し気に唇が離され、互いに、は、と息が溢れた。
瞬間、ランバルトは飛んだ。ロザリアがあらん限りの力を込めて、思い切り彼を蹴りつけたのだ。床に転がる音と同時に、呻き声が聞こえた。
「なっ……なにをする!」
ロザリアは息を荒げながら、濡れた口元を袖で拭った。
長年の腹心の部下であり最も信頼していた相手だからこそ夫でもいいと納得していたのに、この仕打ちは何だ!
「も、申し訳ありません! 夫婦の契りというからにはそれなりの手順を踏むべきかと思いまして!」
部屋の隅から必死に詫びるランバルトの台詞に、ロザリアは眉をひそめた。
「手順? そのようなものが必要なのか?」
「……は?」
ややあって、おそるおそるといった調子でランバルトが尋ねてくる。
「失礼ながら、ロザリア様は『夫婦の契り』がどのようなものかご存知では……」
「馬鹿にするな。そのくらい知っている」
「で、ですか……」
ホッとした声の主に、
「男女が共にベッドで並び、一晩ぐっすりと睡眠をとることだ!」
とロザリアは答えた。
部下からの返事は無かった。あまりにも長い間無言であったため、ロザリアは心配になってきた。
「どうしたランバルト、打ちどころが悪かったか」
「……どうすればいい……こんなにも清らかな方に……私は……」
「何をブツブツ言っている。ほら、戻ってこい。神に夫婦と認めてもらうには隣あう必要があるからな」
ぽふ、と枕を叩いたロザリアに、
「恐れながら申し上げます…………」
まるで死線に赴くかの如き声で、ランバルトは申し出た。
「ロザリア様の『夫婦の契り』の認識は、間違っております……」
「な、何。そうだったのか」
慌ててランプを点け直すと、ロザリアはベッドの上で姿勢を正した。
「それは……すまない、私はそういった外界での決まりごとに疎いから。
では、正しい夫婦の契りというものをお前が教示してくれないだろうか」
「その前に、一つだけ確認をさせていただきたいのですが」
「何だ?」
「…………先程の行為はご不快でしたか?」
ロザリアは暫く考え込むようにして黙っていた。
「――いや。別段不快ではなかったな。驚いただけだ」
胸の奥がじりじりと不思議な感覚に陥っていたことは、秘めておく。
「……そうですか。……よかった……本当に、よかった」
あのランバルトが、目元を両手で覆い、弱々しい声をだしている。
ロザリアは急に不安になってきた。
「なあ、本物の夫婦の契りとは、一体どういったものなんだ?」
「大丈夫ですロザリア様、ご不安ならばその都度私が解説を交えていきますので。不束者ながら精一杯頑張らせていただきますので、よろしくお願いします」
「あ、ああ。よろしく頼む」
ロザリアは頷き、僅かに身を固くした。
何が起こるのかは知らないが、ランバルトの声が緊張している。つまりは、容易な事ではないのだろう。
だが外界に『夫婦』と呼ばれる人々はごまんといる。彼らが辿ってきた道ならば魔女である自分にも乗り越えられる筈だ。
「――よし、こい!」
ベッドの上で互いに向き直ると、ロザリアは気合を入れた。
「それではまず、お互いの名を呼びあうことから始めましょう」
「ランバルト! こうか!」
「違います。夫婦の契りとは心を通わせ通じ合う事が第一の目的なのです。ですからロザリア様、私にお言いつけになる時のような言い方ではなく、もう少し穏やかで、できれば甘えるような感じでお願いします」
「成程そういった理由か。ああ、ならば私の名も教えておこう」
ロザリアはランバルトにあっさりと真名を教えた。
「魔女は名を知られてしまうと力が弱り、知られなければ強固となる。故にこれまでずっと私はロザリアの名で通してきた。
この名は自分に合わぬためあまり好きではないのだが、まあ、これも力を弱めるためだ」
「お似合いではないですか、可愛らしくて」
「だからそれが似合わないと言っているんだ!」
唇を尖らせてそう言うと、笑われた。
「――いいや。本当に、今のあなたによく似合う」
ランバルトはくつくつと笑いながらロザリアの手を取ると、その名を呼んだ。
途端に、ロザリアは居心地の悪さを感じた。気のせいか部屋の気温が少し上がったような気もする。
もぞもぞと下がろうとしたところを、手を掴んだまま引き寄せられた。
いつものくすんだ空色の瞳が揺らめく炎に見えたのは、きっとランプの明かりのせいだ。