魔女ロザリア
リンツァーバルトは禍々しい魔の森だ。そこには建国より昔から恐ろしい魔女が主として住みついているのだという。数百年もの間変わることのないその容姿は闇色の髪に雪と見紛う肌を持ち、見たものは命を吸い取られるとも、時を捻じ曲げ記憶を飛ばされるとも言われている。彼女の存在は近隣地方のみならず伝承話に登場するほどに有名であった。
その名が知られている理由は、お伽話の住人故。
だが不老不死の秘術を求め、実在するかも分からぬ魔女を探そうとする輩が稀に出るのもまた事実である。
「――狼藉者は去れ」
凛、と響いた女の声に、17人の男達は顔を上げた。
彼らは皆やみくもに森の木肌を剥がしては斧を突き立て、見かけた動物を無作為に射殺し皮を剥ぐといった愚行を二日に渡り続けていた。
高台に立つ佇まいは遠目からでも美女だと分かる。橙の瞳と同色石の額飾りが白磁の肌に甘く煌めき、黒髪は翡翠のかんざしでゆるく留められ一つにまとまっている。透ける薄布を重ねたローブは風になびいて肌に吸い付き、ほっそりとした肢体を浮かび上がらせていた。
探していた獲物が向こうからやってきたのだと、男たちは確信した。
目配せをしあうと、にやにやとヤニまみれの歯を剥き出しにして舐めまわすように女を眺める。
『リンツァーバルトの魔女を殺し、証拠を渡せ』
つまりは、殺すまでは好きにしていいということだ。
「おぅい魔女! 森を荒らされたくなけりゃさっさとここまで降りてこい!」
「俺たちゃな、あんたに会いたくて悪戯してたのさ。本当は手荒な真似なんぞちっともしたくねえんだよう」
脅したりなだめたりといったちぐはぐな呼びかけに、女はすっと目を細める。
「――もう一度だけ猶予をやろう。
森より去れ。従わぬなら命は無い」
「ほ! そーんなほそっこい体でどうするってんだ!」
「魔女さんよ、なんならあんたのせいでおっ立っちまった俺の命でも吸ってくれや! ほれ!」
下品な挑発と汚らしい笑いが木々にぶつかりこだました。
「おい! いい加減降りてこい!」
「痛い目にあわねえと分からんのか? ああ!?」
「――ランバルト」
女の呼びかけに、後方よりひょろりとした男が現れる。彼が帯刀する剣の柄に手を沿え、女は目を閉じた。詠唱が始まるのと同時に青白い粒が白手袋の先から溢れだし、男と剣全体が徐々に光に染まっていく。
「おい、魔法だ」
「呪文が終わる前に口を塞げ!」
男達は色めき立つと、めいめいに武器を掴んで駆けだした。数人の男達は矢をつがえ、高台に向かって手を離す。
魔女の詠唱には時間がかかり、唱え終わるまでは発動しない。ならば先手を打つまでだ。
そもそも今のこの時代、魔法などただの脅しの手段、まじない程度の効き目でしかない。おまけに対象者の信心が浅いほどに効き目は劣る。つまりは集まった男達のほとんどが神など信じていないため、魔女など恐れていないのだった。
青をまとった細身の男はすらりと光る長剣を抜いた。そのまま待ち構えるのかと思いきや、たん、と片足を出しながら勢いよく空を薙ぎ払う。
疾風は青白く回る刃となり、一人の喉をずぱりと裂いた。空高く首が舞い、血飛沫を浴びた男達から怒声が沸き起こる。――あの男、詠唱が終わる前に変な技を使いやがった!
「おいっ、女を狙え! 呪文を止めさせろ!」
魔女は目を閉じたまま、かんざしを抜き首を振る。流れ落ちるぬばたまの波は足元を過ぎても尚続き、その先が地につくことはなかった。広がりきった闇の中、ゆっくりと双眸が開いていく。
その瞳は、煌々とした落陽の輝きへと転じていた。
白手袋の指先が男達を捉える。
低い地鳴りのような詠唱が始まると同時に、その指先から搾られたように、ぽたり、ぽたりと金色の雫が滴っていく。それらは掌上で生き物のようにうごめきながら、光る鍵型へと変わっていった。形成を終えた蜂蜜色の鍵を女が握り締める度、男達は一人、また一人と膝をついて倒れていく。悪態をつき起き上がろうとしてみても、まるで力が入らない。次いで襲ったおぞましい寒気に、男達はがたがたと震え、舌を噛みそうな勢いで歯を鳴らした。
同じ形がひとつとしてない、16本の金の鍵が出来上がる。
指先から出る光の糸でそれらの鍵穴は繋がり光輪の鍵束が完成した。
「これが」
女は無造作に鍵を選ぶと、ぷつりと抜いた。
つまむ指先がゆっくりと、時計回りに回転する。
「――お前達の『命の鍵』」
開錠音と同時に一人の男がのたうち回り、胸を押さえて喀血した。
魔法の鍵は命の鍵。
昔々より国に伝わる、リンツァーバルトの森の話。
たとえば彼女は、黄泉の国へと連れ去られた王女と兵士の救出劇に、病床の母を救おうとする娘の孝行話に、わがままで不摂生な金持ち男の転落話に登場する。
リンツァーバルトの森の魔女は、善を導き手助けし、悪堕ち者に裁きを下す。
誘惑に勝った兵士は冥界より王女を助けだし、悪行男は残らず魂を吸い尽くされた。
この世とあの世を繋ぐ鍵を、魔女は脈打つ心の臓器に、ぐちり、と差し込み命を吸う。そこに魂は残らない。全ては魔女の力となる。
「嫌だ……死にたくねぇ……」
仰向けのまま立たぬ足腰をずるずると引きずり、男が呻いた。
ただ、金が欲しかっただけだ。賭博で有り金を全てスり、うまい話があるからとそそのかされて付いてきた。
魔女なんて信じちゃいない。女を殺すだけだと聞いていた。なのに、こんな。
「神、様ぁ……」
助けを求める呟きが女の耳に入ったのかは分からない。
だが瞬間、濡れた赤い唇が、にいと艶やかに持ち上がる。
こんな時にも関わらず、思わずぞくりとするほどに美しい。
魔女の指先から離れた鍵が時計回りに動きだす。唸り声に似た振動音と共にぶるぶると震えて肥大化していく。
やがて。ぴたりと動きが止まり、全ての鍵が、ぐるり、と回った。
重なり合う悲鳴に、枝木に止まる鳥達がバサバサと飛び立っていった。
「こうも立て続けに入られるとは……お伽の魔女も侮られたものだ」
眉をひそめながら荒々しい足取りで、その女は歩いていた。余所者にはいかにも不可思議な魔女らしく演じていたものの、実際の彼女は少々男勝りな性格であった。大股で歩く彼女の後ろを、部下であるランバルトと呼ばれていた男が後に続く。
女は一つの藪の前で止まると、手をかざしながら呪文を唱えた。
藪はするすると左右に分かれて葉門を作った。その下をくぐり抜けて奥へと進む。続く緑の中道は、術に関わった者しか見えぬ強い魔法で固めたものだ。
やがて広い場所へと出ると、彼女に気付いた娘達が待ちかねたように駆け寄ってきた。
「おかえりなさい、ロザリア!」
「お疲れ様、ロザリア!」
娘達は皆、ロザリアと呼ばれた魔女と同じ格好をしていた。薄布を重ねたローブに長い黒髪をひとつにまとめ、整った顔立ちはぱっと見誰が誰なのか分からないほどよく似ている。装飾品だけはめいめいに好きなものを付けているのが年頃の証だ。
そう。『リンツァーバルトの森の魔女』は一人ではない。
その正体は厳しい戒律を守りながら血を繋ぎ、秘密裏に集落を構える女系一族であった。
「ロザリア、今回はどうだった?」
「前より多い。17人だ」
「まあ恐い」
「一度に相手をするのは大変だったでしょう」
「全く、いつまで続くのかしら」
眉をひそめて話す娘達は皆、一様に不安げな顔をしている。
今回のように森に魔女探しにやってくる人間は稀にいる。美しいと噂の女を一目見てあわよくばものにしたいという色欲であったり、命と引き換えでもいいから願いを叶えて欲しいという執念や、単に純粋な好奇心だったりと、その理由は様々だ。
だが、これまではそういった男は数年に一度出る程度であった。その度に一族から一人の魔女が出陣し、それぞれに対処をしていた。
今年に入り、来襲は既に5度めとなっている。回を追うごとに増える暴漢の数に、今では一族の秘蔵っ子であるロザリアが毎回出陣をしていた。
「長はどちらに?」
ロザリアの動きに合わせて、じゃら、と腰に付けた鍵束が音を立てる。
吸い込んだ相手の生気は具現化して鍵となる。魔法の鍵は、今では長とロザリアだけしか使えないリンツァーバルトの秘技であった。
ロザリアはまだ魔女として完全に成熟しきれていないため、魔法を使用した後は長に鍵を託すことがきまりである。
命を扱う魔法というのは、絶大な力である故に危険を伴う。ロザリアが鍵を持てば心と身体が蝕まれていくだろうと年かさの魔女達は懸念し、厳しく指導をしてきた。長は定期的に彼女を呼び出し、保護の魔法をかけていた。
「長様なら禊に出ているわ」
「そう。では庵で待とう」
長の草庵は集落の奥にある。そこから裏道の奥へと入っていったところに、彼女が禊に使用する聖なる水をたたえた泉があった。
ロザリアはランバルトに帰宅するよう命じると、草庵に向かった。扉の前で一度は声を掛けたものの、はなから不在は分かっている。
やはり、気配はない。
ロザリアは草庵前に立つと不動のまま待機した。だが、一通り禊が終わるだけの時間が経っても長は戻らなかった。
長の存在そのものがこの集落の結界のため、禊以外で集落を離れるなど考えられないことなのだが。
不信に思い、ロザリアはもう一度扉を叩き、開いてみた。
「ロザリアです。――失礼します」
錠前の無いこの集落では、礼儀さえ守れば誰もが自由に出入りができる。
室内に入ったロザリアが目にしたのは。
「――長!」
血まみれになり事切れている長魔女の姿であった。